イースターホーク(前編)



「よォ、こはくちゃん」
「あかん、気ぃ抜いとったわ」
「きゃはは! ボケっとしてんなァ〜」
 再会は、星奏館と旧館の敷地内、一彩の墓前だった。それまで丸きり会っていなかった訳ではなく、ラジオや雑誌の撮影に加え、新曲発表のイベント、歌番組の収録もあったので、最近では共に過ごした時間は多い方だった。仕事だからというのは、言い訳として都合が良い。おかげで今日まで何の問題も起こらず、そのためあらゆる問題を先送りにしてしまった。
「結構来てくれてんの」
「命日やし。それだけや。ラブはんたちと被らんよう時間はずらしとるけど」
「一緒に来れば良いじゃん」
「あほ抜かせ。メンバーちゃうもん、空気くらい読むわ」
 燐音は花を持ってきていなかった。どうせ誰かが供えているだろうと思ったが、命日だけあってか、墓石の周りは供え物や花がたくさんで、事務所で毎年開かれる誕生日パーティーを彷彿とさせる。よかったなぁひいろ。うむ! と、無根拠に胸を張って、ズレたことばかり言っていた愛し子を思い浮かべて和む。
「普通に嬉しいんじゃねーの。悼んでくれる奴が居るの」
「ぬしはん嬉しいんけ」
「うれしーうれしーこはくちゃんが来てくれて」
「白々しいわぁ」
 や、ホントーだって。へらへら笑って言うと、じろりと柄の悪い顔で睨まれる。久しぶりに見たその表情が懐かしくて、懐かしいことが辛かった。一体いつから見ていなかったのか。最近の従順さは、何だったのだろう。わかっている。こはくはあの夜、すべて終わらせたのだ。出て行ったのは燐音だが、あの時おいていかれたのも、また燐音の方だった。少ないとも多いとも言い難い私物は『燐音はんの洗濯物段ボール』に入って事務所の寮にまとめて届いた。同室者から報告があったので、燐音のテリトリーに寄せといて貰っている。連絡を受けたニキのアパートで「どうせならコッチ送ってくれりゃいいのになァ」と愚痴ったら「わーっ最低っすね! デリカシーなさ過ぎっす! さっさと寮帰ればか!」と今度はアパートを追い出されそうになった。ニキのくせに、ばかってなんだよ。生意気な。近頃わかりやすく機嫌が悪い。良い傾向なのか、悪い傾向なのか。
 燐音が墓に近付くと、こはくは前を譲るように一歩横に退いた。燐音は空けられた墓石の正面でしゃがみ込んだ。
こはくの言うことはそのとおりで、燐音は事務所敷地内の一彩の墓には来たことがなかった。去年の命日は里に定期報告も兼ねて帰ったので、それで一括していたのだ。今日こちらに寄ったのは、新曲リリースイベントと被って、命日に合わせて帰省できなかったためだ。普段のこはくなら察せられそうなものだけど、何せ多忙だったので、可能性を失念していてもおかしくはなかった。
「馬鹿は死んでも治らないってさ」
「は?」
「俺っちが都会に出てきた一彩に最初に言ったんだけど」
「再会したときそんなこと言うてた?」
「いや、伝言で」
「さよけ」
「うん。それでよ。再会しても結局あいつはお利口さんで馬鹿でおろかな愛らしい動物のままなわけ。しょーがねえよなそういう風に育てられてきたんだから。あーなぁーんも変わってねーんだなってよォ」
 墓石に手を合わせながら、生前の一彩を思い出す。再会した時はわかっていたのにショックだった。自分がいなくなっても、結局一彩の里での立場は何一つ変わらなかったのだとわかった。
「死んで治ったのかね、あいつ」
「……あの世に逝ったら確かめれば良ぇんちゃう?」
「お友達と楽しそうにやってたのは知ってんだけどさァ」
「なら良かったやないの」
「そォね」
 こはくは燐音に並んで、ぼうっと一彩の墓石を見ている。見ているというより、そこにある風景をただ、眺めているだけ、という風情だ。悼んでいるようにも、悲しんでいるようにも見えない。今思えば、告別式でも、こはくはこんな顔をしていた気がする。
(こういうところ、藍ちゃん寂しいんだろうなァ)
 こはくは理解できないものに相対したとき、空気を読んで黙っていることはできるが、稀に、本当にわからない顔をしてしまう。もう少し取り繕うことを覚えるべきと思うが、こういうことは、友人との摩擦で覚えた方が良いだろう。妙に素直で、酷薄なところが、誰かとひどく似ていた。藍良はこれに踏み込むだろうか。二人の関係性の深度が、燐音には測れない。一彩が生きていたら、と考えることは無意味だが、もしかしたら、良き友人になっていたかもしれない。ああ、ひいろ。そうだ。一彩のことだ。
 黙り込んだ燐音に、こはくの困惑が伝わってくる。帰っても良いだろうか、とか、さすがに薄情だろうか、とか、おそらくそんなことを考えている。ここに来たのも、どうせ友人の友人だから、程度の義理立てなのだろう。
「一彩が死んだときそりゃあかなしかったけどさァ。ちょっとだけ、俺が殺さなくて良かったって思ったんだ」
 ヒデェ兄貴だよな。
 口の端をゆがめて隣に視線をやると、ぐらりと揺れた瞳とかち合った。夕日を受けてこはくの瞳は夜明け前の色をしていた。動揺と無理解を乗せて、紫に橙と黄色が、薄い膜の下できらきらと光っている。ああ、わからないんだな、ということだけが、わかった。
「……ぬしはん、弟殺しなんてせんやろ」
「あのままじゃ、あいつ俺っちのために生きるつもりだったろうし、いや、勘当したんだけどさ。結局できてねェけど。でも習性みたいなもんっていうか、アー……うまくいえねーや」
「めずらしなぁ。口から先に生まれてきたようなお人が」
「うっせェ……まぁでも、何だ。俺っちがあいつ使い潰すってことっしょ。そんなの殺すのと、どう違うんだっての」
 勘弁してほしい。そんなのは重すぎる。ずっとそう思っていた。だから一彩が死んだとき、かなしいのとさみしいのと、ほんの少し安堵した。もう一彩は俺のせいで死んだりしない。それがかなしくてうれしくて、そんなことを思った自分が嫌で仕方がなかった。傷ついた。故郷から逃げ出したガキの頃と何も変わらない。大人と呼ばれる年齢になっても、弟ひとり、満足に導くことができたかもわからない。
「だからさァ、こはくちゃん」
 こはく。桜河こはく。ずっと俺のことを、見ていてくれてありがとう。そばに居てくれてありがとう。感謝する。救われなかったわけじゃない。でも。
「頼んでない。なんでお前らそんなとこばっかそっくりなんだよ」
 お前が俺のせいで損なわれるなんて死んでも嫌だ。それだけはすごく嫌だ。燐音の視界に収まったままのこはくは、今度こそ、きちんと意味を理解した様子で、穏やかに笑っている。仕方がないなぁと、聞き分けの悪い子供の駄々を聞くように、燐音を見ている。そこに先ほどまでの惑いはない。ただ流れに身を任せるような、柔らかな失望を浮かべて、相容れないと理解したとき、こはくは、静かに笑うだけだ。そういう、不釣り合いだったあらゆる成熟が、いつのまにか、年相応になった。こはくはもう、子供ではなかった。
「さっき言うたやないの。ぬしはんも。そういう風に育てられたって」
「そういうのやめよって言ってきたつもりだったんだけど、伝わってなかった?」
「習性みたいなもんやね」
「おい」
「わかっとったよ。一彩はんも、きっと」
 ――だって、ちゃんとアイドル、やってはったやないの。人気者で、才能もあって。隣でラブはん、ずっと大変そうやったわ。わかるわ。わしも大変やったもの。お兄はんらについてくの。
 へぇと純粋に感心した。こはくが語る一彩の印象というのは新鮮だった。弟が、弟の世代に褒められているのは、何だかこそばゆい。それに加えて、聞き間違いでなければ、こはくが素直に苦労したと言うのも珍しい。藍良への同調がなければ、きっとこの先も聞くことはなかっただろう。すこし愉快な気持ちになっていると、「なあ、燐音はん」と、なにか語りかけるように、こはくが燐音の名を呼んだ。
「わしはぬしはんの傷を利用しただけじゃ。奉仕したわけやない」
 下心があった。だから、ありがとうは要らん。
 憑き物が落ちたように屈託なく言い切るこはくを見て、ああ、美しい男になったと、唐突に見惚れた。こはくちゃんは男前だなぁと思った通りのことを言うと、ちょっと得意そうな顔する。そういう単純なところ、結構好きよ。ほんとにさァ。燐音は立ち上がって、こはくと視線を合わせた。燐音が立っていると、こはくは目力が増す。自然と見上げる形になるから、勝ち気な空気が膨張する。百七十前半で止まった身長を、こはく自身は気にしているようだったが、燐音はこれくらいでちょうどいいと思っていた。
「返事してねーじゃん俺」
「いけずやね。わざわざ振りたいん?」
「振らねーって言ったら?」
「は?」
「聞いて、こはくちゃん」
 こはくの頭に手を伸ばす。久しぶりに撫でた頭はいつも通り小作りで、すこし硬い髪が、指の間からぴょこぴょこはねる。頭が撫でやすい位置にあるのはいい。可愛がるということは、慰められるし、癒される。面倒くさそうに、それでも全面的に受け入れるその従順さも、嫌いではない。心配しているだけだ。腕の下から意志の強い瞳が覗くのも良い。
 初めて会ったとき、なんて真っ直ぐ、人を射抜くように見るんだろうと思った。その視界に広がる汚濁を一切感じさせない透徹が眩しかった。これから言うことはお前を呪うまじない足るだろうか。燐音はずっと、この子供の幸福を祈っていた。
「こはくちゃんさ、お前はさ、ちゃんと生きて。誰かのためになんか生きるな。自分のために生きろ。俺っちと一緒に、この世界で生きてくれ」
 こはくは静かに、目を見開いた。ゆっくりと言葉の意味を咀嚼していく。空気をひりつかせるような緊張が、こはくの脳天から掌を通じて燐音に伝わる。次の言葉待つように黙しているこはくに、あの夜の、ひび割れたこはくの傷が重なる。ざわざわと皮膚の下で蠢く情念が、瞳の奥にちりちり燃える。燐音はひとつひとつ、一彩が死んでから初めて、祈るように言葉を尽くす。
「何処へ行ってもいい。何処にだって行ける。お前が何処かで生きている限り、俺っちはお前のことを想って生きてやんよ。死んだら馬鹿なやつだって笑って、すぐ忘れてやるからさァ。こはくちゃんは強いんだからさ」
 ――うちの馬鹿な弟とは違うんだからさ。藍ちゃんこれ以上泣かすなよ。
 言いたいことを全部言って、頭に置いていた手を、こはくの目の前に持っていく。ちゃんと伝わっただろうか。まっすぐに言葉を使うのは苦手だ。どれだけ言葉を尽くしても、誰かを想っても、伝わらないことばかりだった。燐音が渡すものは、いつも受け取って貰えない。大切なたった一人を説得するのは、どうでも良い大衆を扇動するより余程難しい。こはくは頑固だ。納得しなければ頷かない。そういうところが、好ましいと思っていた。出会ってから、ずっと。
「さァ、賭けようぜ」
 燐音はいつかのように小指を差し出した。
 こはくはぽかんと口を開けたあと、ゆっくりと挑むような顔つきになって、燐音の小指に自分の小指を絡めた。