ダイジェスト




(前略)

「で? こはくちゃんと何かあったんすか?」
 心底面倒という口調で、ニキは食材から一瞥もくれず訊ねる。面倒の中で一番面倒じゃないのが燐音の話を聞く、というだけのことで、然して興味があるわけでもないだろう。ニキの切り捨て方は情がない。生命維持以外のことは自他もなく平等に、誰かや何かを大切にしている余裕などないのがニキだった。この虚しさを味わうのが久しぶりで、燐音は少し怯む。どれだけこはくの存在に甘やかされていたのだろう。あれは人馴れしていない分、情け深く義理堅い人間だった。
「こはくちゃんだってもう大人なんだし、ちゃんと話せば良いでしょ。ここでうじうじしてもしょうがないっすよ」
「俺っち鈍感キャラだったっけ?」
「なははー。告白でもされたっすか?」
「…………」
「え、やだ! 沈黙怖い! テキトー言ったんだから笑ってくんなきゃ嫌っすよ⁉」
「何でガキの色恋沙汰に振り回されてんの? 対処できたはずっしょ」
 ぼやけばぼやくほどニキは呆れて笑うばかりで、燐音はそれこそ拗ねた子供のような心地になっていく。
「いつまでも子供扱いしてるからっすよ〜」
「笑うなばか。くそ。ニキのくせに」
「いやぁ〜でも、どうすっかね。こはくちゃん結構そういうの隠すの上手そう。燐音くんも年下にはゆるゆるだし。てか恋愛なんすか?」
「シラネ。告白? はされたけど同時に三行半叩きつけられたわ」
「なははー。男っすねぇ、こはくちゃん」
 そうだ。こはくは男だ。それなのに、こはくの欲の片鱗や、過去の類する行為を匂わされても、嫌悪は不思議と湧かなかった。目が覚めたという感覚が強くて、それ以外の実感が後回しになっていたのかもしれない。いま燐音がおもうことは、あれはこはくが始めた賭け事で、燐音はうまく乗せられたのだろうということ。それだけ考えれば、形無しというか、してやられたというか。大人げなくやり返したいという気持ちもあるが、藪蛇にしかならないだろう。
「何でこはくちゃんとこ転がり込んだんすか?」
 僕的にはやっと燐音くんが出て行って良かったんすけど。紙のような軽さの問いかけだった。どうでも良いといういつもの体で、それなのに、ニキらしさを装い過ぎていて違和感があった。気にかけていたのだろうか。あのニキが。
「きゃはは! ニキきゅんはほんと〜に俺っちのこと好きだよなァ♪」
「いや、今そういうの良いっすから」
 いつもの調子で笑ってやったら外を舞う雪よりも冷たく返される。なんかこいつ、今日、当たりきつくない? こんなものだったろうか。ノリ悪ィの。ニキのくせに、と何度目かわからない暴言を吐き捨てた。それもはいはいと流されて、いよいよ打つ手が無くなったので、仕方なく、ニキの問いの答えを探す。
 何故、どうして。一体、何があったのか。結論から言えば、何もなかったのだ。こはくとの生活を振り返ると、安穏、としか言い様がない。平熱を保つために空調だけが息をしている静かすぎるあの部屋で、互いに求められる役割を演じるように過ごした。そういう蜜月をユニットのメンバー、ニキやHiMERUと、公私いずれかで共有したことはあったが、こはくとは、恐らくあれがはじめてだった。きっかけははっきりと覚えている。この子供を繋ぎ留めなければならないと、焦燥を隠して苛立った。児戯のように小指を絡めて、約束をした夜のこと。
「……危なっかしいと思ったんだよ」
「こはくちゃん、燐音くんより腕っぷし自信ありって感じっすけど」
「そういうんじゃねェって」
「確かに、あの頃は危なっかしかったっすね。燐音くん」
「俺かよ」
 演じるということは、嘘をつくことだ。嘘をつくと、錯覚が生まれやすい。他人を騙すための嘘は、すべて己を騙す物語と、陶酔へ重なっていく。穏やか過ぎることを、もっと不審におもうべきだった。誘い込んだのがこはくだとしても、燐音は無闇に立ち入り過ぎた。
「燐音くん寂しがりですもんねぇ。寂しいと寂しそうな子に寄って行っちゃうんでしょうねぇ」
 わかったような口を利きながら具材を手早く炒めていく。米の一粒も落とさないフライ返しはニキの絶対に食材を無駄にしない執念を感じる。ミスれば良いのにと、泡だらけのゴム手袋でしっぽを引っ張った。
「痛い痛い痛い! もう! 手元が狂うっす!」
「さっきからうっせェーな。ニキのくせに」
「照れ隠しで暴力振るうのやめてほしいっす」
「照れてねェ」
 会話の半分も、ニキが考えて喋っていないことはわかっている。感じたことをそのまま、適当に言語化しているだけだ。だからこそ、それもひとつの真実だった。ニキはありのままにしか受け取らないし、脚色して話したりはしない。
 不意に疑念が生じる。ニキは俺と出会ったころ、寂しかったのだろうか。両親が殆ど不在で、明日の食にも困窮する特殊体質の子供。燐音を助けて、うっかり死にかけてしまったばかな子供。ああ、寂しかったのか。さみしかったんだな。あきらめてしまえるくらいには。燐音はあのころも、一緒に居ればなんとかなると思っていた。ニキの欠落を埋めようと、ありもしない誠意をかき集めたり、集めて渡した先からニキがぼろぼろ溢すのにムカついて絞め技かけたり。都会に出てきたばかりで余裕もなく、燐音は燐音がやりたいことをやるために必死だったので、ニキがどう思っているかまでは、考えたつもりで考えていなかった。ニキはどうでも良いのだろうと思っていたし、強ち的外れではなかっただろう。それでも最近、ニキですら変わってきたというのに。俺は俺で、同じようなことをしていたのか。ばかばかしい。
「こはくちゃんに結婚しようって言わないんすか」
「婿養子にされそうじゃん、あそこの家」
「旧家なんでしたっけ? よく知らないっすけど」
「冗談だよ。流せよ」
「僕は流しますけど、燐音くんは流さないでね。こはくちゃんのこと」


(中略)


 こはくが上から退くと、燐音は身支度を軽く済ませ、何も言わず家から出て行った。この時間ならニキの家にでも押し掛けるのだろう。寮も一応、まだ契約しているようだけど、仕事の都合で必要なときにしか利用していないことは知っていた。同室者への配慮もあるだろう。存外神経細かく、距離があるだけ慎重な男だった。燐音の熱が残る布団にぬくぬくと寝転がりながら、雪降ってんのに、大丈夫やろか。せめて晴れた日に仕掛けたら良かったわと、少し後悔する。そこで、そういえば、あれは雪国の出身だったなと思い出した。ああでも、ニキはん。起きとるかな。連絡しとこか。必要ないか。ご迷惑おかけしますは、何だか違う気がする。こはくは燐音の何でもない。ただの同居人だった。

『夜分すみません。起きてたらで良いです。お風呂、入れとったら抜かんで、保温出来たらしとってください』

 ――これでええわ。送信を押して、こはくは力尽きたようにぱたりと突っ伏した。他人がさっきまで使っていた布団は、真冬なのに生温い。ニキの家の浴室事情を覚えていないから、どうしてくれとも頼みにくいけれど。なんや、動物の保護みたいやと、何もおかしくないのに笑えた。これからこういう下らないことを、家でだれかに共有できないのだと思えば、やっと実感として寂しさを感じた。
 目を閉じて数分もしないうちにバイブが鳴って、いつもの了解スタンプを確認したのも束の間、着信画面に切り替わった。驚いて、何の準備もないままスワイプして出てしまう。反射的に、布団から身体を起こして居住いを正した。受話器の向こうでガサガサと音がして『あ、こはくちゃん?』と、いつもの軽くて明るい声が、電波に乗って鼓膜を叩く。
「ニ、ニキはん……?」
『燐音くんと何かあったっすか?』
 開口一番それか、とも思うが、その通りなので仕方がない。
「あのボンクラ、この時間から出てってもうて。多分そっち行くやろ。申し訳ないんやけど」
『あーうん、はい。わかったっす。来たら適当にね』
「遅くにすまんなぁ」
『慣れてるんで。こはくちゃんは? 大丈夫っすか?』
「――だ、」
『って聞いてもこはくちゃんは大丈夫って言うっすよね』
「……堪忍」
『いいっすよ! 興味ないんで。でも興味ないから嫌とも思わないし、話せる人居なかったら話してね。あとあったかくして寝て、ごはんしっかり食べてほしいっす!』
「ああ、せやね。おおきに。ニキはんも」
「うん、それじゃ」
 ぷつりと通話が途絶える。おやすみなさいを云い損ねてしまった。耳の中で、まだニキの声が鳴っているみたいで、身体が緊張している。通話終了の表示を眺めながら、ふう、と深く息を吐いて、意識的に神経をゆるめる。ニキとの会話はいつも忙しない。ニキがカロリーの無駄を嫌うから、というのもあるが、料理の手際など見るに、元々早いリズムで生きている人なのだろう。それでも、気遣われているのはわかってしまって、罪悪感がわいた。こはくのことなんて、気にかけなくて良いのに。仲良うなれたっちーのは、嬉しいけど、難儀なことや。燐音にとってニキは特別で、その特別なニキは、やはり燐音を、とても大事にしていた。こはくの思い付きとわがままで、燐音をしばらく借りていたのだ。無論、ニキにお願いしたわけではないし、燐音は物ではないので、自分の足で帰りたい場所へ帰る。


(中略)


「ラブはん、緑茶とさっきの紅茶と、どっちがええ? あ、インスタントやけど、コーヒーもある……どうしたん?」
「え、あっ……ううん! 何でもない」
 藍良は泣いていた。目尻を拭う仕草が、いつだか空中庭園で倒れ込みながら口に手を当てていたときと重なって、反射のようにそばに寄って背を撫でる。藍良はあれから背が伸びて、こはくなど随分前に抜かされてしまったのだけど、どうしたって頼りなく感じる、薄い身体をしていた。
「どないした?」
「……感動しちゃったの」
「いや、そういうんちゃうやろ」
 すんと鼻を鳴らして、ごめんねェと藍良が謝った。謝らないでほしい。泣かないでほしい。あのときと違うのは、いま混乱しているのはこはくの方だった。無表情を保ちながら、背をさする手を一定のリズムにすることだけ心がける。鼻を啜る音に、段々、くふふっと、笑い声が混じる。もう、何やの急に、こはくは途方にくれてしまう。泣いたことがおかしくなってしまったのか、目の端をぬぐった藍良は、まだ涙の気配が色濃いものの笑顔だった。ダイジョーブ、と言って、こはくに目を合わせる。ふっとまた、息を漏らすように笑う。
「ラブはん?」
「へへ、ありがとォ。こはくっちは良い子だねェ」
 そう言って、藍良はこはくを抱きしめた。よしよしと、お返しのようにこはくの背を撫でる。こはくは手の置き場に迷って、結局もう一度、藍良の背に回した。抱き合うようなかたちになって、胸の内側がざわざわ鳴る。よくこうして、こはくがわからない顔をすると、驚かせてごめんねと、まるで謝るみたいに、藍良はこはくを抱きしめた。こはくは、藍良のことが好きだった。こはくがどんな後ろ暗いことをして帰っても、寮や事務所でばったり会えば、愛らしい声で名前を呼んで、親愛の情を示してくれた。良い子なのは藍良だ。こはくではない。散々言ったのに、藍良は聞き入れなかった。こはくは、愛すべき平穏な日常を思い描くとき、いつも藍良を、一番はじめに紙の上へ置いた。こはくが持っていないものは、すべて藍良が持っているような気さえした。羨んだことはないけれど、羨むとしたら、きっとこういう人が良い。
「良い子はラブはんじゃ」
「じゃあおれたち、二人とも良い子だね」
「わしは」
「だっていつもこうしてくれるよ」
 ――手をぎゅってして、背中をさすってくれる。泣いてたら慰めてくれる。おれが落ち込んでたら話を聞いてくれる。画面越しで話していた頃から変わらない。そういうのぜんぶ、こはくっちが優しくて良い子だから。そォでしょ?
 微笑む藍良は、先ほど見ていた天使を騙るユニット連中と、同じような笑みを浮かべていた。天使とは、こういう表情をするものなのかもしれない。病弱な御曹司が、命をすり減らして舞台上で歌い踊っているなんて、こはくからすれば狂気の沙汰だが、同じく舞台に立つものとして、それに傾倒することを、昔ほど馬鹿にできない。責任ある立場なのだから、精々己も周囲も食い潰してくれるなと願うばかりである。藍良にも、すり減らしてほしいとは思わない。代われるものなら代わってやりたい。こはくにできることなど、たかが知れているけれど。
「友達が泣いてたら、誰でもするわ」
「そんなことないよォ。友情ってね、いろんな種類があって、もっと冷たかったり、呆気なかったりもするんだ」
 藍良はこはくの肩に頤を乗せたまま、とっておきの秘密を教えるように囁いた。そのあと「ごめんね。おれは本当は、イヤな奴なんだよ。こはくっちが良い子だから、合わせてるだけ」と、自嘲気味に謝罪した。許されたいというより、断りの響きをしていた。
 藍良はよく考える人だ。時折わざと残酷なことを口にして、それでもその言葉に、一番傷ついているのは藍良自身だった。傷つけられる前に自ら傷ついて、痛みの程度を見極めるような臆病さで、そうしなければ、息ができないみたいに。こはくは藍良のことが好きなので、悪癖なのか処世術なのか、判断がつかない彼の自傷があまり好きではなかった。身体をそっと離しながら、不安なんだと、藍良が笑う。泣かないで、笑っていてと、望まれるからそうしている、そういう作りものめいた顔だった。何が不安なん? と促しながら、こはくは、見えない刃物を押さえ込むように、藍良の手を握りしめる。
「新しいユニットを組むんだ。今度はおれが、たっつん先輩みたいな立ち位置? 天祥院先輩とも、その話をしたの」
 成程、ライブの映像を貰った、というのはその時のことらしい。高校からアイドル活動をしているESのアイドルたちの中では遅いのかもしれないが、燐音とて、再デビューのときは成人していたから、遅すぎることはないだろう。
 天城一彩の死後、ALKALOIDは解散した。活動を続けるか否か、幾度も話し合いの場が持たれたようだが、半年ほど休止したあと事務所が正式に解散を発表した。センター兼リーダーを天城一彩が担っていたことも大きいだろう。 記憶に残る、鮮烈なアイドルだった。才能というのはああいうことを言うのだろうと、共にした舞台や、客席から見たときすら漠然とおもった。舞台のどこに居ても、視界にそれを捕らえるたび、燐音が、目を細めて満足そうにしていて、このように、身内に誇りに思ってもらえるというのは、さぞ幸福なことだろうと、これは少しだけ、羨ましかった。
「そろそろ君も決断しないとねって、P機関に正式に入るかとも聞かれたんだけど、やっぱり、まだ」
「アイドル、やりたいんやね」
 メンバーはそれぞれ猶予期間が与えられ、この二年のうちに身の振り方を決めていた。巽は俳優としてよくドラマなどで見かけるし、主題歌を歌うこともあるようで、局でポスターなど見掛ければHiMERUが面白くなさそうに表情を歪めるのが面白かった。めっきり姿を見なくなったマヨイは、コーチとしてP機関で働いていると聞く。藍良も後輩指導に当たっていたが、P機関には所属せず、サークル派生の仕事や、臨時ユニットに所属してアイドル活動を細々と続けていた。
「こはくっちはどうだった? 新しいユニット組むとき」
「どうやろ。状況も違うし、参考にならんやろ」
「そっかァ〜じゃあ下の子として! 成人したメンバーとの付き合い方とか、苦労した?」
「それもな。最初の頃、そこまで気ぃ回らんかったわ。お兄はんらもいっぱいいっぱいやっち顔しとったし」
 藍良だって一番下で入っただろうにとは思ったが、成人メンバーも居なかったし、一彩は大きな弟みたいなものだったのだろう。しかユニットの成り立ちから違うので、こはくの経験が参考になるとは思えない。新しいユニットを組んだときも、サブユニットの位置づけで、どちらかと云えばシャッフルユニットに意味合いが近い。
 次から次へと目まぐるしくて、やることやるので精一杯やったわ。思ったことをそのまま伝えると「それでさァ〜できちゃうのがさァ〜凄いんだよォ〜」と藍良は唸って、こはくの肩にぐりぐり頭を押し付けた。痛い痛いと苦笑しながら、果たして本当に出来ていたのだろうかと、こはくは遠い気分になる。失敗することだって多かった。最近だって、迷惑をかけたばかりだ。追いつかないことだってあった。できる限りの努力を怠った覚えはないし、全うしてきた自負もあるけれど、沢山の助けの手をもらって、いつも舞台に立っている。
「そんなできたもんやないよ」
 今度はこはくが自嘲する番だった。
 藍良は不思議そうにしている。この友人は、何故こんなにも自信がないのだろう。絶対的に自分が劣っているのだと思い込んでいる。そんな訳ないのに。

(後略)