デッドエンド


 
 日が落ちてからその日は雪が降っていた。海にほど近いこの土地は、毎年それなりに雪がふる。夢ノ咲の校庭では遭難者が出たこともあるとか。真偽は不明だが、そんな噂が出まわる程度に、毎年積雪数十センチを記録している。
(出てきたばっかの頃は都会だって思ってたけど、里より都会ってだけなんだよなぁ)
 無論、故郷と比べるまでもなく、現代日本の何不自由のない文明がここにはある。ES周辺などはとくに開発が進んでいて、アイドルのために整備されたあらゆる最新技術が日常に溶け込んでいる。しかし元はいわくつきの土地ということもあって、天候は極端なことが多い。昔から、そういう場所、ということなのだろう。土着信仰やカルトが多いのもそのせいか。
 燐音は本格的に降り出した雪空を見ながら、普段開けたままにしている雨戸を窓横のパネルを操作して家の中から閉めた。眠る前、こはくはいつも空調を切るのだが、雪の日ばかりは仕方がないと、点けたままにしている。おかげで今日の居室は適温だ。「さくらくんも、アイドルなんだから、喉のケアはしないとっすよ」と、ジュンから引越し祝いに持たされたという、雫を模した加湿器が、水面を青いライトが照らして、小さく音を立てている。ジュンはん、お歌上手やからなぁと、こはくは何故か合掌して、そこから出る霧を拝んでいたりする。

 寝室に入ると、こはくはベッドに腰かけてスマホを弄っていた。厚手の紺の寝間着にブランケットを肩からかけている。燐音は布団をいつもより窓から離したところへ敷いて早々に寝転がった。すでにジャージに着替えていたので、あとは眠るだけだった。電気消すぞーと声をかけると、うん、とめずらしい、標準語で生返事があった。ゲームでもやっているのだろうか。こはくは暗いところで画面を見るくせがあるので、間接照明を随分前に買って、部屋の隅に置いている。仕方なく今日もそれを点けて、燐音は自分の布団へ入った。目が悪くなるからと言っても、こはくは面倒臭がって点けないことが多いので、いつも燐音が点けて、寝る前にこはくが消している。
「燐音はん」
「なァに、こはくちゃん。スマホ終わったら寝なさい」
 ベッドから下りてきたこはくが、掛け布団をかけた燐音の横に寝転がる。日頃から、わしも布団にしようかなぁなどと言って、戯れにごろりと乗ってきたりするので、珍しいことではなかった。それなのに、はじまったとおもった。嫌な予感ほどあたるものだ。慎重に、こはくの様子を窺う。
「しあわせって求めても手に入らないんやて」
「へぇ」
「求めて手に入るものは快楽なんやて」
「こはくちゃん読書にでも目覚めたの」
「むかし家の人が寝物語に教えてくれたんよ」
 有名な話なん? まあなと、燐音は懐いてくるこはくの頭を撫でた。こはくの知識は偏り過ぎていて、何も知らない稚い顔をするときと、すべて知っていると達観した顔をするときの落差がひどい。今は前者の顔をしている。めずらしい。知っていることで、知らないことだったらしい。
「なぁ燐音はん」
「なによ、こはくちゃん」
 眠れないのかと、なるべく迂遠に返した。帰結から目をそらしたい。無駄な足掻きだと笑うように、こはくが、寝ている燐音の掛け布団を避けて、腰の辺りに跨った。そのまま手を緩く腹に置いて、そろそろと撫でる。こはくが次に言い出すことを、燐音はわかっていた。暖色のあかりが、こはくの腕の輪郭を照らして、別の生き物みたいに巨大化した影が、壁でゆらゆら揺れている。
「寒いんですけどォ」
「なあ、気持ちええことせえへん」
「ませがき」
「わしのこと嫌い?」
「大好きだぜ」
 こんなことは最近だ。最初はこんなじゃなかったはずだ。うまく距離を置いて、わからない、を作っていた。こんな近さは望んでいない。こんなのは嫌だ。本能みたいな、昆虫みたいな、プログラムみたいな。これでは何も、相手のことなんて考えてないみたいじゃないか。軽んじているようで、
すごく嫌だ。
「弟みたいに?」
「俺っちの弟はひとりだけよ」
「なら問題ないな」
 わしな、さみしいんよ。なぐさめて。
 そう言ったこはくの顔は能面のようだった。口端だけうっすら上げて、毒を溶かすような声音で誘う。ああ、こはくはこうやって誘うのだ。腹筋を撫でていた手が首元まで登ってくる。なまめかしく、確実に、欲を煽るための仕草だった。これは誰の手だ。違うだろうと、燐音は頭の芯が冷えていくのを感じた。

――それは俺の感情で、俺の言葉だ。お前の気持ちじゃない。それなのに、なぜお前は、勝手にくみ取って、要らないものみたいに自分を差し出してくるんだ。さみしいのも慰めがほしかったのも俺だ。お前じゃなかったはずだ。

 ふざけるなと、頭が冷え切った後は、低い温度の怒りが沸いた。
 ここに到るまで対処しなかった自分へも腹が立ったし、結局放棄することを選んだこはくにも腹が立った。いつからこはくは、捨て身になっていた。最初から決めていたとでも言うつもりだろうか。こはくはいつも、最後に捨てることを選んでしまう。それがこはくの、根幹を作った呪いで、しかし同時に、誇りだからだ。こはくは容易に、境界を越えることができる。それではだめだと、教えてきたはずだった。そんなのは嫌だと、こはくの矜持を、ちゃんちゃらおかしいと笑って、何度も泥をかけた。こはくはそのたび烈火のごとく怒り狂ったが、ふと冷静になって、なるほど、と考え込むようになった。伝わっているのだと信じたかった。我ながらなんて甘っちょろい。
「なァ頼むよ」
「燐音はん?」
 いつもみたいに怒鳴ってくれ。足蹴にして、ゴミ出し忘れたときみたいに叱ってくれ。大人みたいな顔して、仕方ないと呆れてくれ。俺なんかどうとでもできると、機嫌よく物騒なこと言って、あのおかしな笑い方で笑ってくれ。祈るような気持ちで己の惰弱に向き合っている間にも、肌を撫でる手は明確な意図で甘く煽った。勘弁してくれと、燐音はこはくの手を止める。どうして止めるのかと、抗議するように、辛うじて動く指先が、燐音の肌に軽く爪を立てる。そんなんだから猫みたいって云われるんじゃねーの。宥めるように指ごと掴みなおすと、普段より暗い瞳孔が、それ自体が生き物のようにゆらゆらと蠢いている。
「だめだって、こはくちゃん」
「生きてないち言うたな」
「あ?」
「全然生きてない」
「ああ」
「やっとわかったわ、意味」

 ――寝物語てさっき言うたやろ。『最初の人』が教えてくれたんや。叔父にあたる人でなぁ。好色なお人やったけどやさしくしてくれはったわ。一度切り、最初で最後の逢瀬だったんよ。その人の死に顔をみたはずやけど、思い出せんのよ。たぶんあれはわしの顔やち。あの日に焼かれたのはわしの死体じゃ。すごいなぁ燐音はん。わしも覚えてへんかったのに。会ってすぐ気づくなんて。ほんに勘が良ぇね。
 謡うように囁くこはくの過去の告白を聞きながら、やはり何も知らなかったのだと燐音は思い知る。知った気になっていただけだ。そもそも他人が何を考えているかなんてわかるわけがないのに。燐音にできることは常に限定的で、その場のカードを、より良い未来のために取捨選択することだけだ。
「そんな買い被んないでよ、燐音くん照れちゃう」
「謙遜しなや。せっかく褒めたってるのに」
 燐音はこはくのことを七種から渡された資料を見て知っていただけだった。家のために閉じ込められて、家のために汚れをすべて引き受ける子供。どれだけ面倒な奴が来るのかと思えば、やたら落ち着きはらっては居るが口を開けば我の強い、純朴な少年だった。矜持を持っている人間の目をしていた。だからいくら浮世離れしていようが、自虐が過ぎようが、発破をかけて、多少手を引いてやれば地に足をつけてやっていけるだろうと思った。それなのに、どこで選択を間違えた。燐音は乗り上げたこはくの頬に手をのばす。こはくは、お返しというように屈みこんで、燐音の頬を手で覆った。こはくの顔が下りてきて、息がかかるくらいの近さに迫る。

「こはくちゃん、言ってくれなきゃわかんない」
「好きや」

 燐音は息を呑んだ。触られた肌の感覚が消えて、胸を掻きむしりたくなるような病的な熱が内側に芽生えた。時間が止まったようにすら感じた。燐音は驚いたが、こはくの方がより驚いた顔をして固まっていた。括り付けた能面がぱかりと割れて、よく知る幼いこはくがまた顕れる。唇が一度引き結ばれ、徐々に弛緩したようにぽかりと小さく穴があいた。中が見えない箱に手を入れて、得体の知れないものの輪郭を確かめるように、こはくは繰り返す。
「……好きや。ずっと、好きやった」
今はじめて自覚した顔をして、それでも言葉を食む間に、こはくが自身の感情を受け入れていくのがわかった。高ぶった心を映す瞳が徐々に凪ぎ、静かに諦観に染まっていく。
「これが恋慕か思慕か、憧憬か執着か、代替えかは知らん。急に手を離されて、寂しかっただけかも知れん。ただ欲しかった。ぬしはんが」
 愛の告白だなんてとんでもない、告解する罪人のようだった。こはくは、この世の終わりみたいな顔をして目を伏せ、糸が切れたように燐音の胸に頭を置いて俯いてしまう。視界を遮断し、ため息を吐いて、顔を上げる。こはくがよくする仕草の一つだった。それだけで、大概のことを割り切ってしまう。折り合いの付け方が上手で、ガキの癖にと苛々した。こはくはいつも、かわいげがなく、かわいくて、かわいそうだった。燐音はこはくの次の言葉を待った。何を言っても傷つけることだけがわかったので、燐音の手札は沈黙だけだ。

 はぁ、と深く息を吐き、こはくは屈めていた身体をもとに戻した。暗がりの中、口の端を非対称に引き上げている。歯を俄かに見せて、目を細める。今まで見たどの笑顔より醜悪で、ちぐはぐだった。ぐしゃりと圧迫されてひび割れた、生々しい傷口から、燐音が知らない、いつの日かに焼かれたこはくの死に顔が笑っている。

「何もせんなら出てけ。ここはわしの家じゃ」

 そう言ってこはくは、燐音の胸をとんと殴った。殆ど置いただけの弱々しい拳は、燐音の心臓の位置だけを正確に示している。