スカボローフェア



 何年か前のこと、多分ユニットを組まされた年だと思う。訳もわからず夏の祭りをブンブン毒針刺して回ったあと、だったかな? 台風何号が接近していると、厨房の点けっぱなしのテレビが言っていた。物干し竿を部屋に入れなくてはと、労働後の空腹と疲労のあいだに考えていた。ニキにとっても思い出深い、料理コンテスト兼ライブが終わっていたから、十月あたりだろうか。いつも手伝っている食堂の人手が足りなくて、帰りが遅くなった日、玄関を開けたら居間で燐音が、ニキのジャケットを被って転がっていた。明るいうちから寝てて、眩しかったんすかねぇ? と首を捻った。起きたらうるさいし放っておこうと、不審な燐音の寝姿をそのままに、手洗いうがいを済ませ、冷蔵庫の食料を漁った。
 ニキが腹ごなしを終え、シャワーを浴びて出てきた頃、燐音はやっと起きてきた。寝起きというのを差し引いても顔色が悪く、ついでに人相も三割増し悪かった。

「燐音くんずっと寝てたんすか?」
「あァ……いや、お前さっきも居たよな?」
「へ? まあちょっと前に帰ってきたっすよ」
「そうか、悪かったな」
「えぇ、なに謝ってんすか。また悪さしたんすか」
「んだてめェ」
「いやいや凄んでないで、お風呂入っちゃってください」
「……おー」

 ぼりぼりと頭を掻きながら燐音は風呂場へ向かう。
 まったく、何なんすかねぇ。変な燐音くん。いつもだけど。そこでニキは、キッチンに放置したままのスマホが、ぴかぴか点滅していることに気が付いた。ホールハンズの通知を開くと、こはくから個人チャットにメッセージが入っている。

『本はポストに入れておきました。今日はニキはんのとこ行かんかったことにして』

 ふむふむ。訳ありな感じ。燐音くん、なんかやらかしたんすかね。ニキはそっとメッセージを消去して、了解のスタンプだけ押した。こはくちゃん、文章だと標準語も使うんだなあとか、どうでも良いことを考えながら。





「変な成功体験させちゃった気がするっす」
 あのあとちょっと、燐音くんから話聞いたっすけど、あーこれはこはくちゃんに合わせとこって。なんかそうした方が良いかなって、適当に。
 ニキは、こはくとはじめて出会った頃を思い出していた。今より髪が長く、体の線が丸かった。近づくと柔らかくて瑞々しい肌の匂いがして、まるっきり少年の体つきをしていた。かわいかったすねぇ。本当に。まさぐった身体があんまり骨っぽくて、よくシナモンに入り浸っていたころなどは、試食と称して何かしら食べさせていた。もちろん今、目の前に座るHiMERUにも。
「話が見えません」
 二人が話しているのは、ニキが掛け持ちで働いている喫茶店の客席だった。店内は、ニキには何がなんだかわからないクラシックが流れている。有線ではなくて、CDを流す順番が、朝、昼、夕と時間ごとに決まっている。趣味がいいですねと言われて、よく知らないんすよね〜店長に伝えとくっす! と答えたら、非常に残念なものを見る目をされたのを、随分前のことながらよく覚えている。馬鹿って馬鹿にされるのはわかるんすよ。別にいいっすけどね。どうでも。
 それ以降、店長の趣味の甲斐あってか、HiMERUが仕事の空き時間によく立ち寄るようになり、ニキはまかないを食べるとき、HiMERUと同じテーブルに着くことが多かった。HiMERUもとくに拒否しないので、今日もナポリタンを大盛でよそって、飽きもせずコーラを飲んでいる彼の前の席に腰かけた。
「何か食べないっすか?」とメニューを薦めると「撮影の合間なので、今日はこれだけで」と言う。骨っぽくて心配なるのでもっと食べてほしい。こう見えてHiMERUは、若々しくジャンクなものも好んで食べるし、食事量が少ないというわけではないから、今は本当に要らないのだろう。HiMERUもこはくも、ついでに燐音も細すぎるので、ニキが勝手に、余計な気を回しているだけだった。
「えっと、なんの話でしたっけ?」
「HiMERUが言っているのは」
「あ、そうそう。こはくちゃんが弟くんの真似事してるって話っすよね」
「そう単純なことではないとHiMERUは思います」
「似たようなものっすよ」
 必要とされるものになろうとしてるってことでしょ。
 それは当然のことだ。ニキには何も、おかしいことだと思えなかった。
「桜河は、桜河のまま求められることをすべきです」
「HiMERUくんがそれを言うんすね」
「辛いならするべきではないと、HiMERUは考えます」
 そう話しているHiMERUの方が辛そうで、やさしいなぁとニキはおもった。残りのナポリタンをかき込んで、もぐもぐと咀嚼する合間にHiMERUの相槌を打つ。
「そうっすか? 幸せそうに暮らしてるじゃないっすか」
「本気で言っているのですか?」
「どうでもいいかなって、燐音くん居ない方が食費も光熱費も浮くし……う、嘘っす。睨まないでほしいっす」
 えーと、そうっすね〜。うん。腹が満たされて余裕が出てきた。おかわりしようかな。お茶を飲みながらニキは、HiMERUのいうところの二人のことを考える。HiMERUは承服できない顔をしている。HiMERUはこはくを可愛がっているし、口で何と言おうと燐音に一目置いているようなので、無様を看過できないのだろう。その点、ニキはどうかと言えば、紐が違うところで紐をはじめたというだけで、ニキの前での燐音といえば、元よりそこそこ無様である。紐を卒業したとはいえ、結構な頻度でニキの家にやってくるし、ニキの楽しみにしていたアイスを食べて、居間でごろごろしていたりする。そろそろ勝手に作られた合鍵を取り上げたい。鍵変えた方が早いっすかね。それとも引っ越しか。何れにしても、前ほど燐音も手がかからなくなったので、馴染みの店が近いアパートから引っ越すという踏ん切りは、今のところついていない。それに燐音は、たまに大量の食材を買ってきてくれたりもする。あれ結構ありがたい。救援物資。こはくちゃんには、なんと生活費を折半で入れているとも聞いた。成長したっすねぇ。最新情報としては、突然やってきてキッチンに立ったと思ったら、味噌汁の作り方を教えろというので、ニキも子供の成長を喜ぶ気持ちで「燐音くん自立したんすね、ぼく感動っすよ」と涙を拭う振りをした。照れ隠しに、うるせぇ早く教えろと尻を蹴られて、本当に痛くて涙が出た。暴力反対。こはくちゃんと生活するようになってから締め技より足技が増えた気がする。そんなところ似なくてもいいのにね。
「あ、そういえば、こはくちゃんにも聞かれたっすよ。味噌汁の作り方!」
「あーそォ……」
 連想で思い出したこはくの様子を伝えたら、燐音は何やら思い当たったようで、しかしそれを歓迎していない複雑な顔をするので変だった。あれ、変っすね。確かに変かも? でも燐音くんはいつも変だし。
「二人のことっすからね。二人がどうかする気がないと、僕らがどうこう言っても仕方ないじゃないっすか」
「ユニットにとっても良いこととは思いません」
「大丈夫だとおもうっす」
「根拠は?」
「だって、燐音くんってクソ真面目なんすよ。一食の恩で結婚しよう! くらいの意気込みなんだから。ぐうたらで紐で酒飲みのパチカスで僕のこと即席麺扱いするクズっすけど、根が、ほら、真面目だから」
 燐音が自分でも言っていることだから、別にニキが言っても問題ないだろう。燐音はいつだって大真面目だ。ふざけるときすら、加減ができないくらいに。
 あの夏の燐音を思い出すと、頭のどこかがぶつぶつ千切れるような感覚に陥る。明滅するライトと、悪意混じりの歓声を浴びて、それでも楽しそうに歌い踊る燐音を見て、仕方がないなぁと腹を括った。おなかがすいて、くたびれて、苦しくて、それなのに、食事が喉を通らないなんて、ニキの人生では初めてだった。あんなことは二度とごめんだ。ごめんだが、同じような状況になったとき、きっと同じように巻き込まれるだろうなと諦めてもいる。最初に燐音を拾った、ニキの責任だった。
「だからね、そろそろまずいなってのはわかると思うんすよ。まずいことなら。だから大丈夫っすよ。最悪にはならないとおもうっす。こはくちゃんももうすぐ成人だし」
 思えばどこか似た雰囲気の二人だった。出会った頃のこはくは、遠き日の燐音に似ていた。世間知らずということなのか。窮屈そうなお役目のためか。立場はまったく違うようだけど、事情に深入りはしないので、詳しくは何も知らない。ただニキ以外のみんなは、どこかしら複雑で、いつも生き難そうだった。
 普段考えないことを考えたら、またお腹が減ったような気がした。言うことは言ったし、やっぱりおかわり作ってこよう。皿を持ってニキが厨房へ一旦戻ろうとすると、HiMERUは意外そうな顔をしてこちらを見ていた。何だろう。やっぱりHiMERUも何か食べたいのだろうか。
「何か追加します?」
「いえ……」
「そっすか、ぼくはおかわり貰ってくるっす」
「そうですか」
 そんなにおかわりがめずらしいっすかね? 僕に限ってそんなこと、ああ、燐音くんのことっすか。確かにちょっと、なんていうか、やめてほしいっすその顔。
 HiMERUが生暖かい微笑みでニキを見ている。あまりいろいろと気にする頭はないのだけど、居心地が悪くてそそくさキッチンへ向かう。
 ああ麺、そんなにないな。お客さん用に取っとかなきゃ。ごはんはもうすぐ炊けるっすね。こっちにしよ。ランチ用のデザート余ってるっすかねぇ。
 山盛りの椀とあまりの漬物をのせた盆をもって席に戻ると、HiMERUは揶揄の響きを隠さず話を続ける。 「天城を信頼しているのですね」
「どうにもならなかったら燐音くんのお守りは僕がやるんで、HiMERUくんはこはくちゃん頼みますね」
「それは、どうでしょうね」
「燐音くんがいいっすか?」
「桜河のことは任せてください」
「なははー。それでいいっすよ」
 ――それがいいっすよ、きっと。そうしたら、二人のこと、じゃなくて、みんなのことになるっす。 
 ニキはこの優しい子が、なるべく哀しいおもいをしないと良いなぁとおもった。この子が、一体どこのだれかも知らないけれど、みんな、の中に、この子も入ったら良いのにと、そんな難しいことを、簡単に願った。