愚考録


 自分の呼吸がひどく耳障りだった。吸わないで、吐くっすよ。大丈夫だと声がする。優しい声だった。抱き締められている。締め殺されるんじゃないかと思うくらい、強く、つよく。燐音の顔を自分の身体に押し付けるようにして、だれかが燐音を抱きしめている。余計に苦しくなるような不安で顔を上げようとすると、さらに強く抑え込まれる。だれだ。あんた誰だ。燐音がもがくと、しょうがないなというように、そこら辺にあった布か何かを被せられた。ニキの匂いがした。ニキなのか。そう、声を出して聞いた。そうっすよと、ニキらしい、だれかの声がくぐもって聴こえる。頭がぼうっとしていく。思考が白く濁っていく。ここにいるっすよ。ずっといる。だいじょうぶ。ずっと、とは永遠のことだろうか。永遠など此の世にあるのだろうか。それとも死ぬまでという意味だろうか。まるで愛の誓いのようだ。こんなに苦しいのに、ほんとうに大丈夫なのだろうか。その腕はそこにほんとうにあるのだろうか。吸ってはいけない。吐かなければいけない。吐いて、息を吐いて、だいじょうぶだいじょうぶ。つらいっすね。背中を撫でる手は暖かい。誰だ。この部屋はニキの部屋だった。きっとニキだ。だが果たして、ニキはこんな声だったろうか。意識が朦朧とする。身体はどんどん言うことを利かなくなって、末端が雪でも触ったように冷たかった。ひっひっと自分のものではないような声を聞いて、聞かせているのだと知って、恥ずかしくて情けなくてみじめで、でもそんなことは燐音にとって、今にはじまったことではなかった。喉がずっとおかしな音を立てている。ヒュヒュウ鳴って、身体中穴だらけみたいだ。縦笛かよ。もしくはちくわ。ははウケる。つらいっすね。つれえよ。だれかたすけてくれよ。ここにいるっすよ。だいじょうぶ。覚えのある声だった。あんた誰だ。まあだれでもいいか。さっきまでもうどこにも居場所などないような気持ちで居たのに。アパートの床をひっかいて線を作り、ニキが帰ってきたら怒られっかなと、薄ら考えながら、苦しくて一人喘いでいたというのに。今はだれかが、燐音を抱きしめてくれている。得体の知れないだれかにむずかる赤子のようにあやされている。この腕も、燐音が助かったら、元通り呼吸ができてしまえば、きっと離れていってしまうのだろう。嫌だ。お願いだ。行かないでくれ。おれを一人にしないでくれ。苦しい。苦しい。くるしい。何で、こんなに苦しい? このままじゃ、死んでしまう。死にたくない。死ぬのはいやだ。助かりたい。助けて。たすかりたくない。何で。なんでだろうな。だって、そうしたら一人ぼっちだ。だいじょうぶ。ずっとそばにいるっすよ。そばにいる。ずっと、ずっと、あんたがそばにいるから、きっと助からない。それなら良いやと安堵した。助からなければずっと、この腕は燐音のものだ。だいじょうぶ。大丈夫。そうだな。きっと大丈夫だ。だって誰も、助けてはくれないのだ。ヒーローも、神様も、この世に居てたまるものか。その代わり、優しい腕は、燐音を殺さないし生かさないし助けない。ただ優しく、そこにあるだけだ。ずっとそこにいてほしい。だれかにそばにいてほしい。それだけをかなえてくれる。優しい腕。声。だれか。そばにいるっすよ。だいじょうぶ。忘れていた呼吸が戻ってくる。四肢にやっと、自分のものだとわかる程度の重さがかえってきた。麻酔のあとのように力が入らず、ぐったりと重い。すっかり疲れてしまって、意識が持っていかれそうになる。もう大丈夫だ。被せられた何かを取ろうと、力の入らない腕を上げると、頭を抱え直され、そのまま寝てしまえと言わんばかりに、布の上から、また撫でられた。身体を横へと倒されるのがわかった。待って、行かないでくれ。何かを掴もうと空を彷徨う手を、ぎゅっと握り込まれる。だいじょうぶ、ここにいるっすよ。ずっとずっと、そばにいるっす。そうか、ずっといるのか。それは、よかっ――……