ファントム




 事務所の喫茶室で待ち合わせたこはくは、拍子抜けするほど元気な様子で、出会い頭に「迷惑かけてすまん!」と勢いよく頭を下げた。ジャケットの帽子が反動でこはくの頭の上に乗った。背中の花鳥風月が今日も見事だなと、HiMERUは自分では絶対に着ないだろうこはくのアウターを観察した。謝罪は病室でも聞いた。だからもう、それについては良いのだ。そう言って、着席を促した。
「身体はもう良いのですか?」
「おん、レッスン行けんくて、すまんかったわ」
「練習ですから。本番に間に合えばよいのですよ」
「撮影ずれてもぉたやないの」
「リリースがずれ込んだわけではありません」
 間に合わせましょう。
 そう言ってHiMERUは、運ばれてきたコーラを一口飲んだ。おん、と溌剌と返事がある。こはくの言葉は力強くて、そのことに、ひそかに安堵していた。海に冷やされた身体が、白い病室に横たわっているあの光景は、寒々しくていけなかった。
 折角ESに来たのだから、あとで空きスタジオで振り付けを見て欲しいとこはくから頼まれ、二つ返事で了承する。新曲の発表まで間もない。ミュージックビデオの撮影は三日後。こはくが事故にあった日、リスケジュールされた新しい日程だった。
 ところで、とHiMERUは本題を切り出す。
「らしくないことをしていますね」
「せやろか」
 こはくは首を傾げ、上目遣いでHiMERUを見つめる。この仕草をHiMERUが気に入っていることを、こはくは良く知っている。いつもこの顔で強請ると大体のことを聞き入れてくれる、という、学習が見える。HiMERUは眉間にしわを寄せて「桜河」と呼んだ。こはくは叱られた子供のように姿勢を正し「おん」と返事をした。ちらりと目線を上げる。いかにも反省していますと全面に出して、ただこれは、ポーズであることはもう知っている。
「あなたは世慣れてはいませんが」
「だいぶ慣れたつもりやけど」
「そんな話のわからない子に育てた覚えはありません」
「おかんか。育てられた覚えないわ」
「桜河がやっていることは自傷です。見苦しいですよ」
「……わかっとるよ」
 この前わかったわ。こはくは自身の言葉を飲みこむようにして答えた。タイミングが良いのか悪いのか、こはくの元に期間限定のわらび餅が配膳され、会話そこで途切れてしまう
 強い言葉を使ってしまったと、HiMERUは内省した。こはくは呼び出された段階ですべてを承知した顔をしていたのだから、わざわざ強く言いつける必要などないのに。こはくは運ばれてきた甘味に手をつけず、膝に手を置いて、目線だけちらちらとHiMERUに配っている。HiMERUが表情を変えず黙していると、そんなもので機嫌を取れるとおもっているわけではないだろうが、手元にあったわらび餅を「一口どぉ?」とHiMERUに勧めた。桜河が食べてくださいと断ると、いよいよ落ち着きがなくなる。コーラとは合いませんからとフォローを入れると、わずかに呆れたような表情をした。かわいくないなとおもう。ぴくりとあがったHiMERUの片眉をこはくは見逃さず、はっとして、また殊勝な顔に戻る。
「終わらせる気はあるのですか?」
「おん」
 HiMERUは腕を組んでこはくが話始めるのを待った。これ以上はいじめになってしまう。食べてくださいとHiMERUが言った為か、こはくは手元のわらび餅に付いていた竹のフォークを一度持って、しかしまた置いた。代わりに セットの緑茶を一口啜る。何を話そうか、どこまで話そうか、迷いが伝わる所作だった。湯呑を置いてHiMERUへと視線を戻す。考えがまとまったのか、意を決したように、こはくは口を開く。
「HiMERUはんは、ぬしはんの大事なもののために
生きてるんやね」
「ええ」
「わしもそうやって」
「知っています」
「今更、自由にって言われても、勝手がわからん」
「だいぶ慣れたのでは?」
「いけず言わんで」
「すみません」
「心配かけて、悪かったわ」
 あんな、こんなんは、言ってもしゃあない、子供の駄々や。聞き苦しいから、聞き流して。そう前置いて、こはくは堰を切ったように話を始めた。
「要らんち言われたんじゃ。要らんのは知っとった。家ごと丸ごと捨てられるなら、それで本望やったんよ」

 ――わしだけ切り離すなんて、無理や。そうする意味もわからんし。どうせ坊には何もできんて、高を括ってたんや。あかんなぁ主人を舐め腐ったせいでわし、手を離されたときどうしたら良ぇかわからんかった。なあ、わしは何で、無罪放免なんや。禊が必要なん違うか。わかっとるよ。そもそも証拠もなにもない。わしは司法では裁けん。全部わかっとる。要らんから捨てたんやない。困ったら何でも言えって坊は言うてくれたし、わしをお役目から解放して、わしが一人で生きていけるように、そんなこと頼んでへんのに。自由なんて、最初から無いものやと思ってたから、何も恨まなかったし、羨んだことも、正直なかった。坊はそんなわしを哀れにおもって……ああ、嫌や。勝手に何やの。今更こんな、真っ当に生きろやなんて、堪忍して……

 顔を覆ってしまったこはくの独白を、HiMERUは黙って聞いていた。こはくが二年の間、意味を見つけようと藻掻いて、ふくらませてしまった不安と屈託の残滓だった。 深く吐いた息は湿っていたが「桜河」と呼びかけたHiMERUの声に、顔を上げたこはくの瞳は乾いていた。泣いているかと思ったのに、HiMERUを映す紫色の一対は、穏やかに暗い影を落として凪いでいる。激情が一瞬でこはくを押し流し、そのままこはくの中の何かを、また一つ、失せものにしてしまったのがわかった。出会った当初から、そういう割り切りをする、歪に老成した子供だった。近頃は何故だか、幼げな様子が目立っていた。じきに成人だというのに、迷子のような顔をして、時折なにかを、例えばそう、天城燐音を見ていた。
 しかしその幼気な揺らぎも、今このとき、こはくからは消え去っている。かわいそうに。もっと夢を見ていたかっただろう。アラームを耳元で鳴らすような真似をしながら、HiMERUはそれでも同情した。
「……それで天城と?」
「それだけやないけど、タイミングやね。ぐらついたときが重なってもぉて」
 ああ、そうだったと、HiMERUは二年を遡る。五年近くともに活動していて、誰かしら調子が悪いときはあった。より顕著だったのは、二年前の燐音の不調だ。体重が落ちて、酒の量も増えた。しかし原因がはっきりしていたから、仕事に影響が出ない間は放っておこうと口は出さなかった。彼はプライドが高いし、馬鹿ではないので自身の不調にも自覚的だった。こはくが一人暮らしを始めたのは丁度その頃だ。燐音ほどではないにしても、あの頃のこはくは足元が覚束ない様子だった。違和感はあった、けれど、燐音もこはくも一時期より安定しているように見えたので、それで良いとおもったのだ。そのときは、まさかこのように拗れるとは思わなかった。
「Crazy:Bはあなたの居場所ではないのですか?」
「居場所っちおもうよ。最初のわがままや。お兄はんら付き合わせて、若かったわ」
 楽しかったなぁ。フェスも単独も、色んなとこ行ったわ。
 共有した過去を懐かしむこはくが、きらきらと幸せそうに笑うので、HiMERUも自然と顔が綻ぶ。
 ユニットとしてのCrazy:Bを最初に維持しようと動いたのはこはくだった。あの時、こはくはこはくの都合でアイドル活動続ける必要があったことは知っているが、何もケチのついたユニットに固執しなくても良かったはずだ。義理堅いことだと感心して、しかしHiMERUだって、こはくを探してあちこち走り回ったりしたのだから、あの夏はちぐはぐで、脈絡のない悪夢のようだった。こはくが居なかったら、今頃『HiMERU』は、天城燐音は、椎名ニキは、どのように生きていただろう。誰が居なくても、きっと今には至らなかっただろうけれど。
「HiMERUはんも、こんなに長く居てくれると思わんかったのよ」
「……HiMERUもそう思います」
「コッコッコ♪ ぬしはんすぐソロやりたがるもんなぁ」
 笑ってそんなことを続ける。何気ない言葉に、じくりと胸が痛むのを感じた。こはくは相手に好意を差し出すとき率直だった。
 こはくのまごころに触れると、HiMERUはいつも、痛いなぁとおもう。他人事みたいだと、過日にこはくからも指摘されたことだった。その通りだと開き直ってはいるけれど、こうしてこはくが己を開示するたび、僅かに罪悪感がよぎる。この生き物を愛おしいとおもうが、『HiMERU』の内側に入れることはできないから、態度が甘くなるのは埋め合わせのようなものだった。こはくもそれをわかっていて、いつも締め出された扉の前で行儀よく座り込んでいる。
 疾うに、諦められていた。

「天城と桜河でしたら、HiMERUは桜河の味方ですよ」
「おおきに。充分やわ」

 HiMERUはんが味方なら、百人力やね、そう納得するように笑って、こはくは夜のはじまりを映した目を伏せた。しょうのないお人やと、訛りある穏やかな声が聞こえてきそうだった。現実のこはくは何も言わず、次の時には先までの諦観をしまって、無邪気に手付かずのわらび餅に手を伸ばしている。
「HiMERUはん、ほんまに要らんの?」
「はい。桜河が食べてください」
 いつだって先に、HiMERUがこはくを拒むのに、こはくが合わせて線を引くと、お前ではだめだと言われているようで心が冷えた。これは確かに、ニキの言うところの、さみしさ、なのだろう。

 頭の中で自制を促す声がする。だめだよ。お前のような、まがい物では。『HiMERU』ではだめだ。わかっている。そして俺は、十条要は、はじめからその資格を持たない。