シークエンス



(反転)

 こはくが目を覚ますと、そこは白い病室だった。ベッドの上に横たわったまま、どうして、なぜ、しばし反芻する。そこで、ああ、ステージから落ちたのだと、おぼろげながら思い出す。ライブの現地リハーサルの最中、スタッフの男がこはくに向かって突進してきたのだ。燐音が先に気付き、咄嗟にこはくを庇おうと動いた。相手は素人だから、燐音ならうまくやる可能性は高いが、万が一怪我を負ってしまったらいけない。今はライブ前なのだから。
 「堪忍な」と短く謝罪し、こはくは背後から燐音の足を払ってその場に倒した。「おいっ」と文句が聞こえたと同時に燐音の頭すれすれを男の腕が空を切った。男は刃物を持っていた。こはくは男の手元を蹴り上げてそれを払う。カランカランとステージの下で音がする。よし、こはくは男性を取り押さえようと構えた。凶器を失くした男はそのままこはく目掛けてもう一度突進してくる。まともに受けると花道から落ちてしまうと、男の頭を踏みつけてステージの逆側に飛んだ。燐音が立ち上がり男を取り押さえるのが見えた。周りのスタッフが駆けつけてくるのも見える。
 ああ、なんとかなりそうや。
 そこでこはくは嫌な浮遊感を味わった。狭い花道近くで揉み合ったのが悪かった。前日の雨でステージが滑りやすくなっていたのも。振り返りながらの着地が上手くいかず、後ろに足を踏み外した。身体が舞台から放り出されて落ちていく。ステージ下で客席の配置を確認していたニキが走り込んでくるのがやけにはっきり見えた。いや、腹減るでそんなダッシュしたら、間に合わんて。咄嗟に受け身は取ったが、運悪く一か所にまとめていた機材や建具に激突してしまった。頭を庇って倒れ込む。がらがらがしゃんっと破裂音。衝撃と、強い痛み。照明と立てかけてあったパイプが一気に腹に乗って重たい。息がしづらいなと思ったときには、視界が暗くなっていた。こはくちゃん! ニキが名を呼ぶ声がする。だいじょぶや。あ、ちょっととぶかも、すまん。それだけ、何とか言ったとおもう。それ大丈夫じゃないっすよ、こはくちゃん!だいじょうぶ、しにやせんよ、
だいじょうぶ――


(暗転)


 いやあ、しくじったわぁとしか思わなかった。恥ずかしいなともおもった。油断していた。
 目が覚めたら病院で、無表情の燐音が枕元に立って静かにこちらを見ていた。こはくが起きていることはわかっているはずだ。目が合っている。どないしよう。これは、最初に言う言葉を間違えると面倒臭そうだ。
 足払ってごめん? 却下。それはその場で謝った。今回の反省点、悪かったことはなんだ。足場を確認しなかったこと、裏仕事ではないからと気を抜いていたこと、燐音を信じなかったこと、ああ、一番はこれかなと思った。しかしこれに関しては、確率が高い方が捌くべきというか、それが燐音か、こはくかの違いでしかないなら、こはくで良いはずなので、謝りたくない。結果として、こはくは失敗してしまったので立場は弱いけれど、判断として間違っているとは思わない。あの場を仕切るのは燐音だし、何かあって困るのも燐音の方だ。こはくはただのユニットメンバーで、何かあっても、最悪居なくても進行できるだろう。こういうとき、燐音に謝罪するのは難しい。何が悪かったか理解していなければ納得しないし、こはく自身が納得した謝罪でなければ受け取らない。
 睨み合うように沈黙しながら熟考する。時間としては一分もなかったとおもう。悩んでも仕方ないと、開き直った気持ちを強くして、こはくは燐音に言葉をかける。
「足場確認せず踏み込んで、機材倒して、怪我して、すまんかったわ」
「…………わかってて言ってんのな」
「次は失敗せんようにするわ」
「はぁ」
 次なんざあってたまるか。
 燐音は頭を掻きむしってバンダナを取った。窓の外をちらりと見ると暗かった。燐音はあのままリハを続けて、スタッフと入れ替わりでこの病室に来たのだろう。練習用のジャージにジャンパーを羽織った姿だった。燐音の汗と、ニキと同じ柔軟剤の香りが混ざった臭いがする。着替えてくれば良かったのにと言ったら威圧するように睨まれた。怖い顔せんでよ。こはくは手近にあった燐音の手を取った。
「大丈夫っち、ニキはんにも言うたやろ」
「そういうことじゃねーよ」
「この感じ、罅くらいとちゃう?」
「頭守った左腕に罅、打ち身と、内臓圧迫されて意識飛んだってよ」
「この程度なら出られるわ」
「本気で言ってんの?」
「いけるて、罅くらい」
 寒い時期で良かった。衣装も露出が少ないから何とかなるだろう。燐音はまだ何か言いたげだ。いや、燐音はまだ、何も言っていない。こはくが先回りして、燐音を喋ることをなくしている。こはくが我を通そうとすると燐音は面白がるから、否定することは存外少ない。それを利用して。こはくはなるべく何ともないように起き上がろうとして、失敗した。腕よりも力を込めた腹が痛くて、顔がゆがんだ。痣が凄いことになってそうだなと他人事のように考える。
「こはくちゃん」
「ほれ、起きれたやろ」
「腹いてェーんだろ。踊りながら歌えんの?」
「できる」
 燐音はこはくの顔を覗き込んで、あらゆる嘘偽りを許さないという圧をかける。いやだから、さっきから顔怖いて。らしくなく過保護だとおもう。目の前で起こったことだから、何かしら責任を感じているのだろうか。全てこはくが勝手にやって、勝手に失敗したことなのに。
 君主っちやつは、難儀やね――言うてわしが、意地を通したがったり、そういうのは、ぬしはん、好きなんやろ。
「賭けても良ぇよ」
「ギャンブルで客前に出せるかよ」
「できる言うても、納得せんのやもん」
「もんとか言うな。首を傾げるな。俺っちはニキでもメルメルでもねェの」
「ちっ」
「オイコラ」
「でもわし、できる。出たい。やらせて」
 燐音の手をより強く握る。じっと熱のこもった目で燐音を見つめて、裁定を待った。燐音はこはくから目を逸らさず、しばらく考える素振りをしたが、ゆっくり強く、こはくの手を握り返した。仕方がないと溜息をつき、スマホでホールハンズを取り出す。宿舎のHiMERUとニキに連絡しているのだろう。これから帰って前日確認の続きだ。付き合わせてしまうのは申し訳ないけれど。


(流転)


 同じところをぐるぐる回っているみたいだ。燐音との関係はずっと、そんな様子だ。ぐるぐるとまわって、少しずれた場所に着地する。足を踏み外したり、ぎりぎり堪えたり、結果はいつも違うけれど、そのたびに関係は変化する。こはくは五年のあいだにたくさん怪我をしたし、燐音が知っていることも、知らないこともあった。病室に駆けつけるようなものは、三年ぶり、あのライブのとき以来だ。燐音は最近よく着ている黒のダウン姿で、こはくを見下ろしている。室内で着たままなのは珍しい。今度はどうした。こはくは何をやったのだろう。どう答えると燐音は満足するだろう。
「こはくちゃん? 起きたっすか? 僕たちわかります!?」
 声がした方を見るとニキが、燐音とは逆のスペースでパイプ椅子に座っていた。手をぎゅっと握られて「おん」と答える。ニキの手は皮が硬く、爪が短い。作る人の手だ。その手が、こはくの手をまるで大切なものを扱うように擦っていた。ニキが調理器具を綺麗に整頓していくのを思い出して、なんだか面映い。そんな大切にしてもらうものでもないのに。
 こはくの応えに、ぱあと顔を明るくしたニキが、「あ〜良かった!お医者さん呼んでくるっすね」と駆け足で入口へ向かう。小さな開閉音が病室に響いて、燐音と二人きり残されてしまう。空気に触れた掌が少し寒くて、さみしい。空っぽになった手を握って、動きに不具合がないか確かめる。感覚は正常だ。そうして一度目を瞑り、記憶の整理をはじめる。――ああ、喫茶店を出たあと、斑のバイクに乗せてもらって、レッスンスタジオに向かう途中、そっちの人間に付け回されたのだ。最終的に海に突っ込んで躱すしかなくなって、それで今、なのだろう。
(バイク、大丈夫やろか。まあ、良ぇわそれは。保険とか出んのやろ)
 知らんけど。斑も、まあ、大丈夫か。こはくがこうして生きているのは、きっと斑のおかげなのだ。腹が立つけれど、身体の頑丈さがどうしても違うので、そこらへんはもう諦めている。礼をしなければなぁと、斑に有益であろう情報を、ふたつみっつ思い浮かべて取捨していく。何を言うか、言わないか。自分たちのような人間には、とても重要なことだった。

 礼のあてをつけて目を開く。人などもう居ないのではないかとおもったが、燐音は変わらずそこに居た。やたら静かにしていて、薄気味悪い。無駄口ばかり叩く気に障る声を、起きてからのこはくは、まだ一度も聞いていなかった。燐音は黙ったまま何も言わず、こはくを見ていた。しかし目が合わない。こはくを通して、もっと遠いところを見ているようだ。こはくは自身の腕の感覚を確認しながら、先ほどニキが握っていた手とは逆の手で、すぐ真横に立っている燐音の手を握った。いつだか同じように、病室で握った手より、随分と冷たい手だった。冬の海はもっと冷たかった。あたためてほしいし、あたたまってほしい。温度を分けるように指を絡める。
「燐音はん」
 こはくが呼ぶと、燐音の身体がぴくりと揺れた。やっと焦点があってくる。おかしいなぁ。何で、こんなことになってしまったのだろう。最近の燐音は、何だか変だ。こはくも変だ。おかしいなぁ。こんなはずじゃなかった。わかっていたのに。別れは永遠なのだと。燐音もわかっていたはずだった。こはくが余計なことをしなければ、もっと早く、うまく立ち直っただろう。だって燐音は強いから。
「こはくちゃん」
 こはくを呼ぶ声は情けないくらい震えていた。耳を塞ぎたくなった。これは全部、こはくのせいだ。もしくは天城一彩のせいだ。いや、やはりこはくのせいだ。こはくのせいがいい。
 不意に、居なければ良かったのに、とおもった。その言葉はすとんっとこはくの真ん中に落ちてきた。桜河こはくなんて、この世から消えてしまえば良いのに。これは自我だ。強烈な自我だ。要らないと、心の底から、はっきりと思った。だってこはくは、はじめから何処にも居なかったから、こんなことはあり得なかった。要らない、要らない、こんなものは要らない。
 こはくは初めて、舌を噛んで死んでしまいたかった。腕でも喉でも掻っ切って死んでしまいたかった。窓から飛び降りて死んでしまいたかった。崖から海に落ちた時に死んでしまえばよかったのにとおもった。こんなに苦しいのは初めてだ。藍良が、燐音が、何を苦しんでいたのか、やっとわかった。生きていることは苦しい。とても苦しい。重くて辛くて息ができない。死んでしまいたいくらい辛いことがあっても、それでも生きていかなくてはならない。彼らはずっとそうしてきた。何処にも居なかった、こはくとは違って。

 こはくは笑った。謝りたかったけれど、何を謝ったらいいのかわからなかった。こはくの知っている燐音は、そんな怠惰は許してくれないので、せめて、いま、わかりきったことを言ってやらなくては。

「わしは簡単に死んだりせんよ」

 だからどうか、そんな顔をしないで欲しい。