エラーコード

<409>

 これは違和感だ。天城燐音の中で何かが起きていて、恐らくそれは、桜河こはくとの関係性に起因するものだ。不審な点はこの二年でいくらでもあった。桜河と天城の距離が近いな、とか。逆に椎名と天城の距離が少し空いたなとか。もっと直截に言えば、匂いが変わった。天城と椎名の匂いが別れ、桜河と天城の匂いが同じになった。天城は香水を振っていることも多いので、そのときは異なるのだけど、そういうことではなく。それからしばらくして、椎名と天城が生活感のあることを話さなくなり、桜河が天城の生活態度に口を出すようになっていた。天城と桜河が連れ立ってスタジオや楽屋に現れることも増えた。
 ある日の休憩中「今日も天城と来たのですか?」と桜河に問うと「三ヵ月くらい前やろか。飲んだくれ迎え行ったらそのまま居つかれてもうて」と眉を下げたのだ。「追い出して良いのでは?」とHiMERUは進言したが、「広くて持て余しとったし、別に良ぇよ。家ではそんなうるさないしな、あのお人も」と、妙に寛容なことを言って苦笑していた。当人間で完結しているなら口を出すのも妙な気がしたので、そうですかと、その場は流したのだ。椎名がそっと寄ってきて「HiMERUくん、寂しくなっちゃったっすか?」と耳元で囁いてきたのは意味がわからなかったので無視した。

<403>

 某日、地方ロケ番組の打ち上げ後、二次会を前に未成年のこはくと病弱を理由にHiMERUが先に宿へ帰らされ、椎名と天城がその後の宴席に残った。
 HiMERUは最初「残ります」と言ったのだが、「リーダー命令〜!こはくちゃん一人じゃかわいそーっしょ?」とか何とかうまく丸めこまれた。桜河も「一人はさみしいわぁ。いっしょにお風呂行こ♪」などと、こんなときばかりあざとく甘えて見せるので駄目押しだった。うまく誘導されることが増えたことには気付いていて、HiMERUは少し面白くない。しかし酒を飲む練習はしているが、そこまで耐性があるでもないので、お言葉に甘えて先に離席した。
「天城はああいうところがあります」
「良ぇんちゃう? 明日ロケ早いんやろ」
「特典の撮影も一緒にやってしまうらしいのです」
「どうせおっさんどもは朝ぐだぐだや。わしらが午前中がんばれば良ぇわ」
「それもそうですね」
「広いお風呂楽しみやわ」
「ビジネスホテルも気楽ですが、民宿も良いものですね」
 そのまま一度部屋に戻り、バスセットと貸出の浴衣とタオルを持って浴場に向かった。HiMERUは壁に書かれた温泉の効能を読み上げながら入浴し、桜河は折角広い風呂だというのに湯の中で体育座りでそれを聞いていた。泳いでも良いかと聞かれ、行儀が良くないと伝えたらそのポーズで落ち着いてしまった。二人しかいなかったので、別に構わないと言ってやれば良かったとすこし後悔した。しかし桜河は堪能した様子で、湯上がりにフロントでいちご牛乳を購入して飲んでいた。
 そのあとしばらく、部屋で二人の帰りを待ってみたが、二十三時を過ぎたところで先に床に就いた。後から来た二人がすぐ寝られるよう、桜河とHiMERUは奥に敷かれた布団に陣取った。修学旅行のようだと思ったけれど、桜河はそういう経験がないのだと思い出して、口にするのはやめた。

 深夜に戻ってきた天城たちが物音を立てて、あ〜だのう〜だの言いながら倒れ込む音でHiMERUは覚醒した。桜河も同じく目が覚めたようで、敷かれた布団の先で目が合った。桜河は枕に顔を押し付けて、一度丸まり、次にばっと素早く起き上がった。障子を開けて玄関先へ歩いていく。元気が良くて結構だなとぼんやり見送りながら、HiMERUも遅れて起き上がる。
「お、こはくちゃ〜ん」
「うわぁ起こしちゃってごめんっすよ」
「酒くさっ ニキはんお疲れ様、燐音はんも」
「参ったっす。主催が燐音くん潰す勢いで飲ますからぁ〜」
「見事に潰れてるやないの」
「お疲れ様です、椎名、天城」
「ああ〜っHiMERUくんまで。起こしてごめんっすよ」
「先に帰していただいたので、別に」
「迎えにきてくれたのかぁよしよーし」
「ぎゃああ酒臭! おどれ体重かけるな重い重いぐえっ」
「燐音くん、こはくちゃん潰しちゃだめっすよ」
 椎名が天城の靴を脱がせて下駄箱に雑に入れる。HiMERUは冷蔵庫を開けて二人分の水をグラスに用意した。
「ありがとうっす」
「椎名はそんなに酔っていないのですね」
「やあ〜燐音くんが代わりに呑んでくれたんで」
「そうですか、天城、水を」
 天城はぐったりと桜河に懐いて離れない。代わりに桜河が自由な方の手でHiMERUから水を受け取る。
「そうだ、お仕事決まりそうっすよ」
「それは何よりです」
 ふらつきながら立ち上がる椎名を支える。握った手が熱いので、酔っていないわけではないのだろう。桜河は天城を何とか壁に寄りかからせて、口元に水を運んでいる。
「ほら、水飲み」
「あいしてるぜ」
「はいはい」
「あいしてる」
「わしもやで」
 酔っ払いの妄言に桜河が適当に返事をしている。相槌のやる気がなさ過ぎて笑ってしまう。眠いんだろうな。しかし天城は見事な酔っ払いである。椎名と目を合わせて、これネタになります? ムービーでも撮っときますかねぇ? と二人してスマホを取り出して被写体に構えた、そのとき、
「かわいいなぁひいろは」
「兄さん、ほら水だって、ちゃんと飲んだ方がいいよ」
 淡々とした標準語がHiMERUの耳に届いた。いま発声したのは誰だ。いや、その前に、天城は何と言った? 機械のようにフリーズして、時間の概念が一瞬なくなる。は? 何だいまの。HiMERUではない、誰かの声が頭の中で間抜けに響く。向かいのニキも大層驚いた顔をしていたが、すぐにはっとしたように口を開き「こはくちゃん」と呼びかけた。「何?」と目だけでこはくはニキをに問う。凭れかかる燐音をどうにか抱きとめながら、何もわかっていない顔で。
「寝言に答えちゃだめっすよ! 魂抜かれちゃうっす」
「え、そうなん?」
 違うだろ。HiMERUはこめかみをおさえた。

<412>

 某日、HiMERUはレッスンスタジオで振りを確認していた。事前に振付師からダンサーの動画が送られてきている。今日は細かい手振りの確認と、フォーメーション合わせのため集まる予定だ。個人の仕事が多くなってから、限られた時間に二、三曲まとめて完成させなければならないので、各々で自主練習が欠かせない。
 集合時間の五分前に椎名が駆け込むように到着し、集合時間から五分後に天城が腹を掻きながら入ってきた。桜河が遅れてくることは珍しいので、別件ですか?と天城に問うと、終わってるはずだけど、わかんね。連絡ねーなと言い、入ってきたばかりのスタジオを一度出た。桜河か、でなければ七種か三毛縞に連絡を入れているのだろう。大丈夫っすかね?と椎名が言うので、どうでしょう、と返した。椎名はレッスンが始まらないとみるや、いつも大量に抱えている食料の袋を物色しはじめた。数分後、連絡つかねーわと天城が帰ってきて、むぐむぐと何を言ってるかわからない椎名の頭をはたき、桜河不在のままレッスンをスタートした。
 三十分後、七種から折り返しがあり、桜河が移動中事故にあったと伝えられ、三人で搬送先の病院に向かった。状況が把握できないので怪我の程度はわからないとのことだった。病院の入口では病衣にブランケットを羽織った三毛縞斑が、大きく手を振って出迎えた。
「やあやあ諸君!よく来たなあ〜案内するぞお☆」
 あまりにのんきな姿に苛立って嫌味のひとつでも言おうかと口を開こうとしたとき、横からぬっと腕が伸び、気が付くと三毛縞が壁に押し付けられていた。天城が胸倉を掴んだのだ。「燐音くん、人が見てるっすよ」と椎名が宥めて、三毛縞と天城の間に入る。天城は舌打ちして、三毛縞をにらんだまま手を離した。態勢を整えた三毛縞は先までの笑いをおさめて真顔になり「安心してくれ。大事はないと伝えたかっただけなんだ。メンバーを守れず、申し訳なかった」と頭を下げた。

<500>

 同日数分後、病室へ入ると桜河は意識がなく、窓際のベッドにチューブに繋がれて横たわっていた。外傷は殆どなかったが、冬の海に落ちたので軽度の低体温症を引き起こしているとのことだった。三毛縞が桜河の状態を説明している間、天城は桜河の隣に立ち何も口を挟まず、というより、話を聞いているのかもわからない様子で、桜河の顔をただじっと見ていた。微動だにせず、声をかけることも、身体に触れるようなこともなかった。何も言わない天城に代わり、病室に着いた瞬間非常食を食べ始めた椎名が、頬張っていた口の中のものをごくりと飲み下し「どうも、教えてくれてありがとうっす!」とにっこり笑った。三毛縞が天城に何か言いたげな顔をしたが、椎名は、ベッド横のパイプ椅子に座り、桜河の手を握って、そのまま続ける。
「斑くん、なんか次の用事あるんじゃないっすか? それとも入院する感じっすか?」
「いやあ、はは。これは服が濡れてしまったから借りているだけだ。替えの服はもうすぐ到着するから、そのまま次の現場だなあ」
「そうっすか。無事なら良かったっす。僕たち今日はこの後時間あるんで、こっちで見とくっすよ?」
 椎名が、斑の状態を気にするようなことを言いつつ、退室を促した。
 普段と変わらない笑顔なのに、有無を言わさない雰囲気に気圧される。露骨過ぎないだろうか。しかし、この天城を、他のユニットの人間に見られたくないことは理解できた。それもそうか。助けてもらったというのに、とは思いつつ、仕方がないなと、HiMERUもそれに加勢する。
「どうぞ、桜河のことは任せて。行ってください」
 そこまで聞くと、三毛縞は明確に遠ざけられているのを心得たように頷いた。わかったわかったと腰に手を当てて仕方がないという風に笑う。切り替えが早くて、疎まれることに慣れているのだろうとわかる。
「それじゃあおまかせして、次の現場へ向かうとしよう! いやあ、ユニットというのは頼もしいなあ☆」
 そうしてばしばしと天城の肩を叩いて、三毛縞は病室を後にした。何だか悪いことをしたなと思い、ナースステーションで聞きたいことがあるからと言って、三毛縞を見送るためにHiMERUも共に廊下へ出る。いってらっしゃいっす〜と椎名の間延びした声を背に聞いた。病室を出るとき、一度室内を見たが、天城はやはり一瞥もくれず、何も言わなかった。

「……大丈夫なのかあ?」
「どうでしょうね」
 扉を閉めて暫く歩いたところで、三毛縞は、普段の声量からは幾分か抑えた様子で尋ねてきた。聞かれたところでわかるわけがない。廊下を早くも遅くもない速度であるきながら、動揺している自分自身を俯瞰した。何故、と苛立つ。HiMERUは一人で完璧なアイドルなのですと、お守りのように自意識に刻まれた言葉を繰り返す。天城の不調は、落ち着かない。こういう寄りかかり方は良くないなと、ざわめく胸中とは別に冷めた頭で考える。どちらにアプローチすると良いか、やはり桜河だろうか。回復したら、そうだな。天城に聞いても、はぐらかされるだけだろう。そんなことを思索していたら、いつの間にかナースステーションに着いてしまった。三毛縞が「あの人が担当だぞお」と桜河を担当する看護師を指差した。
「ありがとうございます」
「それじゃあ」
「すみません。あなたは桜河を助けて下さったのに」
 別れ際、そのまま帰すのも気持ちが悪くて非礼を詫びた。三毛縞は虚をつかれたような顔をして、それから先ほど天城にしたのと同じようにばしばしと背を叩いた。痛いのでやめてほしい。わざとだろうか。そんなことは気にしていないという風に笑い「君も大変だなあ」とわかったようなことを言った。桜河が、三毛縞のことをあまり良く言わない理由がわかる言動だった。
 廊下の先で「ママ〜服買ってきたぞ〜!」と手を振る橙の頭をした小柄な人物が見える。ああ、あれは確か。「レオさぁああん! 助かったぞ〜☆」と叫ぶように三毛縞は走っていき、その人物から服を受け取った。抱きしめて大声で礼を言っている。ぐえっと潰されたその人と目があったような気がして、一応目礼してその場を後にする。早く戻らなければと、二人の睦まじさを見て、漠然とおもった。勝手なことに、すこし、安堵して。

 来たばかりの廊下を歩いていると、向かいからニキが駆けてきて、こはくちゃん起きたっす! と言い、お医者さん呼んでくるっす〜! とそのまま走ってナースステーションの方へ行ってしまった。コール用のスイッチが病室にはあるはずだけれど、まあいいか。HiMERUは、看護師の顔を教えるために着いて行こうかと考えて、やめた。
 病室の扉に手をかけようとしたところで、中から話し声が聞こえた。ぎくりと立ち止まって、聞き耳を立ててしまう。盗聴器をつけてから退室すべきだったと後悔した。この二人はやたらと勘が良いので、すぐ捨てられてしまうのだけど。

「こはくちゃん」

 弱くて情けなくて、聞いただけで胸が苦しくなるような声音だった。天城のこのような声は初めて聴いた。「死なんよ」と、今度はこはくの声がする。こちらは淡々とした、しかしはっきりとした声だった。

「わしは簡単に死んだりせんよ」

 そこでHiMERUは、天城の不調の原因に思い至る。