シンドローム(後編)




 目を覚ますと見知らぬ天井だった――なんてことはなく、見慣れた桜河こはくの家の天井だった。最近やたら上がり込んでいたから覚えてしまった。あ〜俺っち酔っぱらってこはくちゃん家に来たのね、という程度。壁も天井もシミ一つなく真っ白で、羊代わりに数えるもんがないわぁと、冗談だか何だかわからないことを言っていた家主は、寝室には不在のようだ。玲明の寮も、事務所の寮も綺麗にリフォームされていただろうに、一体誰に対しての皮肉なのやら。
 アルコールがじんわり節々を駄目にして、身体がぐにゃぐにゃとかったるい。こはくが服を着替えさせようとしてあきらめたのか、上着だけは壁に掛かっていたが、燐音が以前来たときに置いて行った練習用のジャージが枕元に置いたままになっていた。

 置いてあったジャージに着替えて、寝室からリビングに出た。真っ暗な室内を見渡すと、リビングのソファの背からはみ出た、暗がりでくすんだ鴇色の頭が見えた。寝ているのだろうか。ベッドに連れて行ってやろうかとも思ったが、ソファの端から見たこはくの目は見開かれたまま、真っ直ぐ閉めきったカーテンの方を向いていた。室内の少ない光源を集めて、ガラス玉のような瞳が輪郭をつるりと光らせている。よくできた置物みたいだなァと寝惚けた頭が沸いたことを考えた。
「こはくちゃん」
「……ああ、起きたんか」
 今はじめて気づいたという風にこはくがようやっと燐音を見た。首だけ傾げて、ひとつの興味もないような、何の感情も読み取れない顔だった。そういう、ただそこに置かれただけの顔をしていると、本来の造作の良さが際立つ。普段どんだけ顔歪めてんのよ。アイドルだろうと思わなくもない。
「便所借りるわ」
「好きにしぃ」
 こはくはそれだけ言って、また窓の方へ顔を戻した。

 用を足して多少酔いが醒めた頭で先ほどのこはくの様子を思い返す。暗い部屋で、灯もつけずに、いったい何をやっていたのだろう。何をやっているようにも見えなかった。スマホでも弄っていれば、暗くても見えるものだし、不精していただけで済む話だが。ただ寝間着を着て、膝を抱えていただけだった。こはくは年に似合わず大人を装ったり、大人を通り越して枯れ木のような風情を醸すことすらあるが、それとも違う。黒くて冷たい、暗闇めいたものを一所に集めて置いたような、濃密な虚ろが、こはくの形をして座っていた。あれは何だったのだろう。間違いなくこはくであるのに、見知らぬ誰かのようだった。あのような、空虚を、こはくの中に見たことがなかった。こはくの瞳は、いつも挑むような色を宿して燐音を捉える。それなのに。なぜ。
 手洗いを済ませ、適当にジャージの袖で拭ってリビングへ戻ると、こはくはやはり、先と同じ姿勢のまま定位置にいた。無意識に息を静かに吐いて、燐音はこはくの座るソファの前にまわりこむ。目の前に立った燐音に反応して、こはくの頭がのろりと上がる。燐音をあおぐ双眸は、夜を見つめただけ染まったような、暗い色をしていた。辛気臭ェなァと思った。全部、気に入らなかった。
「寝らんねェの?」
「ベッド使ぉてて良ぇよ」
「電気つければ?」
「節電じゃ」
 言葉を交わすうちに、こはくには忘れていた何かを取り戻すみたいに温度が戻っていった。人としての根幹を成しているものがぱちぱちと繋がって、こはくがこはくを、一つずつ形作っていく。でも、まだ弱い。
 燐音はテーブルに置いてあったリモコンでリビングの電気を点けた。こはくは燐音をはっとした様子で仰いだが、結局は何も言わず、眩しそうに顔を顰めただけだった。観念したように、こはくはスマホの画面を点けた。ああこんな時間やね、と独り言の調子で呟く。
 本当にお前、何時間そうしてたの。
 時刻は深夜二時半、俗にいう丑三つ時というやつだ。まっくらにして起きてっとお化け出ちゃうじゃない?と言ったら、ぬしはんなんやあいらしいことたまに言うなあと笑うような応えがあった。
「ちゃんと手洗ったやろな」
「洗った洗った。ほれ」
「ひゃっこいな」
 洗ったばかりの手を頬に当てると、そのまま甘えるようにぴたりと燐音の手に擦り寄る。
(こういうの、どうやって覚えて来るんだろうな。お兄ちゃんたちそんなの、教えてないっしょ)
 ドラマか何かで覚えたんだろうか、それも何だか違う気がする。こはくの色っぽい話を聞いたことはないが、果たして。下世話な話をするときは大概ニキとしていたから、こはくのことも、HiMERUのことも、揶揄ったことはあれ突っ込んで話したことは一度もない。出会った頃、異性に触れられただけで後退っているところを見かけた。燐音の手がわっと頭に伸びたときなどは、事態を悪化させないため、おとなしく撫でられていることが多かったが、基本的に他人との接触を忌避しているようだった。その割に、愛玩されることに慣れた雰囲気は当初から把持しているので不思議だ。閉じていた目が開いて燐音をきょとりと見上げてくる。なんや、じっと見て、と顔に書いてある。ああ、もう大丈夫だ。いや、どうなんだ。
「電気点けよーよこはくちゃん」
「勝手に点けたやろ」
「俺っちも折半で払うからさ」
「は? どんだけ居着く気なん」
「露骨に嫌そうな顔すんなよ」
 こはくは先ほどまでの静謐をどこかへやってしまって、胡乱げに燐音を見上げている。動物だったら耳や髭が変な動き方していそう。変容がおもしろくて、軽く頬をつねる。こはくは視線でやめろと訴えたが、振り払うようなことは、やはりなかった。危なっかしいなと、おもう。これはいつも思うことだ。こはくは体術に覚えがあるせいか、簡単に知己へ油断した態度をとる。悪い奴はたくさんいると人のことは脅すくせに、何でだろうなぁと、無防備さに苛々して、誤魔化すようにうりうりと可愛がった。気をゆるしてくれていると思えばむず痒さも生じたが、関係がお世辞にも良好といえなかった、あの夏からそうだったので、距離感で変化したものとも思えなかった。
「ニキはんとこの居候やめてこっち転がり込むつもりけ」
「別にずっとニキきゅん家にいるわけじゃねーのよ?」
「わしは紐なんて要らんよ」
「ちゃんと金入れるならヒモじゃないっしょ」
「信用できるち思うんかパチンカス」
 こはくは吐き捨てながら、しかし考え込むように眉を寄せた。揃えた自分の膝に両手を置き、じっと手の甲と睨めっこしている。おや、と燐音は瞬く。提案しておいてなんだが、こはくがこの話を飲むとは思っていなかった。断られても済し崩し的に居座ることは可能だろうから、そっちの線で行こうとおもっていた。こはくは「家事も」と重ねた。燐音は今度こそ「へえ」と声を出してしまう。見上げるこはくに「いいぜ、半分な」と告げた。今度はこはくが、自分で言いだしたことなのに信じられないという顔をした。どうやら互いに、予想を外しているのが愉快だ。
「冗談やろ……」
「燐音クン、そんなに信用ねェ?」
 燐音が問えば、こはくは躊躇わず頷いた。この野郎。
 こはくが俯くと、立っている燐音からは表情が見えなくなってしまう。物言わぬこはくのつむじが二つ、逆側に向かってとぐろを巻いて流れていた。こはくが顔を上げないので、仕方なくしゃがみこんで、無理やり下から目を合わせる。覗き込んだこはくは、それはもう可哀想なくらい戸惑いに満ちて、落ち着きなく瞳を揺らしていた。迷子か。ここはおまえの家だろう。
 約束だと、燐音が小指を出すと、こはくはいよいよ途方にくれた顔をしたが、やがて遠慮がちに小指を差し出してきた。おずおずと近付いてくるそれに焦れて、燐音の方から迎えに行く。ゆーびきーりげーんまーんと上下にゆすりながら、まるきり子供にすることだなァとおもった。こはくはされるがままになっている。

 ゆびきった。そこで燐音が解放すると、こはくはじっと自分の小指を見た。それから、口の端を噛むようにして笑った。おかしさを堪えるような、痛みをやり過ごすような、そんな顔だった。