シンドローム(前編)



 街路樹の桜が咲いていた。春とはいえ、夜はまだまだ冷え込む日が多い。それなのに、こはくは若干汗ばんで、自宅の前に立っていた。こはくちゃーん! と怒鳴るような声量の、ふわふわ浮ついた声が耳元でやかましい。大声出すなや酔っ払い。ご近所迷惑やろがい。こはくは人一人の体重を支えながら、やっとの思いで鍵を開け、玄関マットになら漬けのような男を捨てた。一時間前にも一度開けたはずの玄関だった。
 スタジオで個人撮影が終わり帰宅すると、スマホがぶるぶると震えていた。そういえばマナーモードのままだったと通知を確認すれば、燐音から三件、ビーハイヴの店長から二件の着信。嫌な予感がしつつ、店長の方にかけ直すと、案の定、ほっとしたような声に、燐音が潰れてるから迎えに来てくれないかと頼まれた。ニキはこの時間、あすの料理の仕込みをしているし、HiMERUは深夜のレギュラー収録が入っていた。連絡があったとしても二人ともおそらく無視だ。仕方がない。こはくは翌日オフだった。

「ほらしゃんとせぇよ」
「うぅ〜……」

 明日の燐音の予定は何だったっけ。動かない奈良漬けを玄関に放置し、こはくはごそごそと冷蔵庫を漁る。酔い覚ましのウコンの何たらを見つけ、あった、と思うと同時に苛立った。間違いなく、先日燐音がダース買いして置いて行ったものだからだ。備えあれば患いなしとか何とか。こんなんわし要らんのやけどと言ったら、こはくちゃんはまだお子様だからな〜♪と、酒が入ってるからかやたらご機嫌に節をつけるので脹脛を蹴った。

 玄関先に戻り燐音の頬に瓶をつける。つめてェと唸る声に、こはくは、ほれ、と促す。
「これ飲んどき、いつも飲んでから寝るやろ」
 そう言いながら、こはくはそれをぐいぐい燐音におしつけた。むうむうとしばらく意味不明な鳴き声を上げていた酔っ払いが突如むくりと起き上がり、こはくに雪崩のごとく覆い被さってきた。重さで押し潰されながら、こはくは、よし、腹を殴ろうと決めた。吐いた方が楽だと聞くしと言い訳もきちんと用意して。拳を握ったそのとき、耳元で声がした。人の名前だった。

「え」
「ひいろ」
「わ〜ほんまの酔っ払いや」
「ひいろ、愛してるよ〜」
「弟ちゃうて」
「ひいろ」
「あぁもぉ」
「ひいろ」
「せやから」
「あいしてる」
「燐音はん」
「ひいろ」
「ちゃうよ」
「ひいろ」
「ええ加減に」
「なあどこにも行かないで」

(――最初に捨てたのはどっちや)

 さあと血が引いて、次いで一気に上がるような感覚があった。胸がどくどくと嫌な音を立てている。冷たくて、熱い。ぐわりと沸きあがった嵐のような熱に翻弄されて、こはくは自身の中の、水という水が、すべて蒸発してしまうのではないかと不安になった。訳も分からず憤慨していた。だって、おかしいじゃないか。最初に天城一彩を置いて行ったのはお前じゃないのか。ふざけるな。こんなのは侮辱だ。裏切りだ。ああ、でも、ざまあない。勝手のツケが回ってきたのだ。弟は兄を置いて遠いところへ行ってしまった。二度と此処へは戻らない。死が、二人を分かってしまった。

 ぐつぐつと煮立ったような腹の熱さが引いていく。こはくの中でぐらぐらと揺れていた水面が、ゆっくりと平素の穏やかさを取り戻す。あふれた分の水を減らして。そうしてこはくの奥底に、また一つ、冷たいだけの何かが、沈殿して残った。握っていた拳を解いて、燐音の背に手を回す。撫でて、宥めて、ある限りの優しさをすべて与えるように。どうせ酔っ払いだ、何も覚えていないだろうと、不埒なことを考える。

「ひいろ」
「行かん――行かないよ」
「ほんとか」
「本当だよ」
「そっか」
 ――ならいい。

 そう呟いて、インクを溢すようにじわりと、燐音は笑った。世界で一番の幸福を、涙で滲ませたような顔だった。こはくは廊下の壁に燐音を預けながら、初めて見る人間の表情を無感動にながめた。これは誰だろう。天城燐音だ。見慣れた燐音の形をしている。けれど、こんなのは、知らない。これが、家族への思慕というものだろうか。愛しみとか、慈しみとか、そういう、尊いとされるものが、ともに過ごした年の数だけあるのだろうか。

 天城兄弟のことを、こはくは知らない。事務所の敷地内で戯れるているところを稀に見かけたが、それだけだ。親密であるというより、隔たった数年がなかったみたいに、互いの存在が当たり前なのだろうとおもった。二人だけに通じるものがある。あった、のだろう。それはもう、なくなってしまったけれど。永遠に失われて、空白がぽっかりとそこにある。壊れた器の破片を握りしめるような、取り返しのつかなさだけがあった。喪ったことを、見失っていくことしかできない。痛む場所を、忘れていくことしかできない。そのことを、こはくはよく知っている。
 幸福な夢に浸る天城燐音は、どこまでもひとりだった。永遠に失われた器官を、半身を、抉られたからだの一部を、どこにもないと嘆いている。
――そうだろうか。本当に?

「ひいろ」
「ここにいるよ、にいさん」
「ひいろ」
「はい」
「ひいろ……」
「ここにいる」

 名を呼ぶ声に少しずつ寝息が混じり、やがてなにも聞こえなくなった。こはくは詰めていた息をそっと吐いて、ひくりと硬直した頬に手を当てる。口の端がつりあがっているのがわかった。奇妙だった。今し方、おのれは一体、何をしたのだろう。気味が悪くて、それなのに僅かに胸がすくような気がして、おかしかった。愚かしいことをした自覚があった。
 脱力しきった燐音を引きずって寝室まで運んだ。無理矢理上着のジャケットだけ脱がしてやりながら、荷物を放る要領でベッドに転がす。
 赤ら顔のだらしない顔がこはくの眼下にあった。仰向けに横たわる燐音の頬に手を添える。昔、似たようなことをしたなぁと、こはくはじんわり熱い肌と温度を分かちながら、身の内の嵐が生まれた日を思い出していた。