ニライカナイ〈後編〉



 会議室の一室で、こはくは辟易としていた。開いていた共有ファイルを整理して、一つ一つ画面を閉じていく。企画のすり合わせと人事の変更などを確認して、P機関と情報部、それぞれとの打ち合わせが終了した。七種が持ってきた案件は、一見まともだったが、関係企業に一社あまり良いうわさを聞かないものが含んでいた。また何か強硬なことでも行うのだろうか。こちらとしては、指示があるまでは知ったことではないが。
 はぁ、とため息を吐いて立ち上がったところで、後ろからぐっと肩を掴まれた。うんざりとして首だけで振り向くと、支度を済ませてアウターを羽織った三毛縞斑が、こはくの肩を抱くようにして微笑んでいる。本人は手を乗せた程度のつもりなのだろうが、如何せん力加減が下手な男である。
「こはくさん、次はレッスンだったか?」
「おん。半端に空いとるから、昼どっか入って時間潰すわ」
「近くにオムライスが絶品の喫茶店があるんだが一緒にどうだあ?」
「良ぇなぁ、ほなご一緒しよか」



 こっちは区画整理されていないんやなとか、また来たいっち思っても来られるかわからんなぁとか、こはくがバイクの後ろでぼんやり考えている十数分のうちに斑の勧める喫茶店に到着した。着いたぞおと声をかけられ、後部座席から下りる。バイクで十数分、と考えると、足のある人間の感覚はつくづく当てにならないとおもう。知り合いの中でも斑は行動範囲が広いので、リッドルが使えないような店もよく利用した。こはくは財布にいくら入っていたか考えて、喫茶店で破産することもないだろうと斑の後に続いた。

 斑はオムライスが絶品だと言いながら今日はカレーの気分だからとカレーを頼み、こはくは斑の勧め通りオムライスを頼んだ。ふわふわとした食感の軽いオムライスで、卵白を多めに使用してメレンゲ状に焼いているとのことだった。はじめての味だったので、最後まで夢中で食べてしまった。特製のトマトソースも、酸味が程よくおいしかった。あとで地図アプリから位置を確認しよう。斑に聞けばよいのだが、なんだか癪だ。
 それはそれとして、目の前でさっさとカレーを完食していた斑を見た。斑はこはくが食べ終わるのを待っていたようで、目が合うとにこりと笑った。咄嗟に、逃げ出したくなる不穏さを湛えた、見慣れた顔だ。
「ご馳走さんでした」
「気に入ったようで何よりだぞお」
「……で、何か話あるんやろ」
「察言観色! いつも察しが良くて助かるなあ☆」
 さて、何から言ったものかなあ。
 言ったきり斑は、ランチセットに付いてきた、冷めたコーヒーを思案顔で啜っている。斑が何も言い出さないので、こはくも倣って紅茶を一口含んだ。思ったよりも渋みを感じて、食事に集中してしまい、茶葉を引き上げるのが遅れたのだと悟った。緩和しようと、ピッチャーのミルクを傾ける。もこもこと液体の中に雲が膨らんで、やがて穏やかなキャラメル色に落ち着く。こういうものを見ているのは好きだ。平和で。
「なあ、こはくさん」
 手元から視線を上げると、斑はやけに真剣な面持ちでこはくを見ていた。
「何やの?」
「こはくさんは、最近うまくやっていますかあ?」
「敬語とか気色悪いなぁ」
 急に何を言い出すんじゃおどれと、こはくは眉を顰めた。斑は、まあそうだよなあと腕を組んで、うんうんと一人納得して頷いている。話が見えない。
「次の仕事が終わったら、しばらく海外で活動しようとおもうんだ」
「MaMの仕事か」
「そうなるなあ」
「良ぇんちゃう? 最近は物騒なことも減ったし」
 ――こっちのことは気にせんで、休止でも解散でも、好きにしたら良ぇよ。こはくは何でもないことのように言った。それならそれで一向に構わなかったのだ。斑はソロ活動にこだわっているし、こはくはどこに居ても、誰かの意向に従う側の人間だ。斑が決めて、事務所と話がついているならそれで良い。それなのに、斑は難しい顔のまま、ウゥン、と唸って、またコーヒーに口をつける。そういう話ではないのだろうか。
「わしのことは気にせんで。ぬしはんとのアイドル活動はついでや」
 片手を広げてひらひらと振った。勝手にすればいいと重ねて示す。斑がそれでも何か言いたそうにしているので、こはくは少し迷って、メニューをもう一度手に取った。ぱらぱらとデザートのページをめくると、ホイップが乗ったプリンが如何にも喫茶店という風情でおいしそうだ。自家製チーズケーキも気になる。「斑はん、追加せん?」と聞いたが「いや、俺は間に合ってるぞお」とつれない。何じゃ、一口欲しかったのにと口先が自然と拗ねた形に持ち上がる。「そういうところがなあ」と呆れたように斑が笑うのを睨め付ける。
「さっきからなんじゃ煮え切らん。鬱陶しいで」
「燐音さんとはまだ一緒に住んでいるのか?」
 今度こそ意味がわからなくなって、こはくは斑をぽかんと見た。口が開いてるぞおと、下頤へ近づく手は素早く跳ね除ける。斑はそのままハンズアップの姿勢で椅子の背に凭れた。こはくさんは猫みたいだなあとこの数年聞き慣れた不快な比喩はあえて無視する。
「まぁ、出てかんしなぁ。なんで燐音はん?」
「一人暮らしが恋しいんじゃないかあ?」
「慣れたわ。恋しくなるほど一人暮らししてへんし」
「そうだ。君は寮を出てから一月も一人で暮らしていない」
「何が言いたいんじゃ、ぬしはん」
 斑が何かこはくに物申したいことだけはわかる。それはこはくの内面に踏み込んだことで、斑は先ほどからずっと、組手の間合いでもはかるような目をしている。斑なりに一番やさしいやり方でこはくを組み伏せる、というより、理解を促そうとしている――ような気がする。仕事ではないから、という配慮なのか。それとも、単に慣れていないだけなのか。互いの私生活に切り込んだ話など、数年ともに過ごして殆どした覚えがない。
「家からは解放されたんだろう? こはくさんも一緒に海外へ行ってみるかあ」
「なんやぬしはん、さみしいんか?」
「そうかもしれない。こんなに長くユニットを組むなんて初めてだったしなあ」
「旅行にでも行ったとき、現地におったら案内してや」
「これでも心配してるんだぞお?」
 こはくは油断すると笑ってしまいそうだった。この茶番は何だ。呆れてものも言えないというか、何をいまさらだ。斑と会ってからずっと言えることだけれど、上滑りする会話が虚しい。個人情報も家の事情も仔細に握っているだろうが、互いに無断で仕入れた命綱みたいなものだった。どちらかが落ちればどちらかを巻き込んでしまうから、この粗暴な男にしては随分と慎重に扱っていると思ったが、いや、しかし、この距離は、不快だ。
「ぬしはんに心配されるようなこと何もあらへんよ」
「こはくさんが子供のころからずうっと見ていたからなあ」
「やめや幼馴染プレイ。性癖なんか?」
「はははっ その辛辣な突っ込みを聞けなくなるのはさみしいなあ☆」
 反発はするが、斑の言うところがわからないではない。当時の斑の年齢を超えて、年が三つ四つ離れた人間がどれほど幼く、頼りなげに見えるかもわかる。共犯、対等、という言葉を使ったのは嘘や方便ではないだろうが、あのとき斑は、何かあったときはすべての責を負う気でいただろう。リーダーとして、年長者として、いつだって斑は、こはくを庇護対象に置いていた。そういうところが、はこちらの台詞だ。そういうところ、そういうところじゃ。ぬしはんも、あと、あのお兄はんらも。どうせこはくが、あのときの彼らの年を抜こうが迫ろうが、たいして彼らの中で、こはくの責任の度合いが引き上げられるわけではない。わからないではない、けれど。それとこれとは話が別だ。無駄に突かれて、こはくも今は気分が悪い。
「けったくそ悪い。えらい絡むやないの」
「自家撞着に陥ってないかあ、こはくさん」
「わしはずっと、やりたいようにやっとるよ」
「そう思い込んでるだけじゃないかあ?」
「くどいわ。ぬしはんのお友達みたく潰れたりせんよ、放っといて?」

 首を傾げてにまりと笑う。意地の悪い顔ができているといい。斑が何か言いたげに目を細め、鋭い眼光でこはくの深淵を覗こうとする。これは苛立っているな、とわかる。
 斑は大きな体を神経質に研ぎ澄まして、ちりちりと肌に触るような威圧を簡単に出してしまう。どれだけ笑顔を貼り付けても誤魔化すことができないから、生き物に怯えられてかわいそうだった。しかし領海侵犯はお互い様なので、この男がどれ程あわれでも、今日に限ってこはくの方から折れる気はない。たっぷりと睨み合い、先に、はあ、と息を吐いたのは斑だった。勝った。

「君がそれで良しとしているのが気に食わないんだがなあ」
「コッコッコ♪ お気持ちだけ貰おとくわ」

 斑は残りのコーヒーを一気に煽って苦い顔をしている。
こはくは機嫌よく笑って「なあ斑はん、苛々には甘いものが良ぇんよ。チーズケーキ、うまそうやで」と話題を変えた。こはくが今やりたいことは、気になるデザートを二つ同時に楽しむことだったので。