ニライカナイ〈前編〉




「 燐音はん! 」

 夢うつつ、独特のなまりで自分の名を呼ぶ声を聴いた。
バンッと勢いよく破裂するような音がして、次いでドタドタわざとらしい足音が耳元まで近付く。「起きとんのやろ! 狸寝入りやめ!」と、無慈悲に布団がめくられて、遮断されていた冷気が燐音の肌をべたりと覆った。寒い。いじめか。うう、と唸りながら縮こまって、どうにか暖を取ろうと足掻いていると、仕上げとばかりにカーテンがシャッと音を立てて開かれた。夜が朝になる。
「このパチカスド底辺あほんだら燃えるゴミ出しとけ言うたじゃろゴラァ!」
「……こはくちゃん、怒鳴らないで、お願い」
 燐音クンちょっと二日酔いなのよ。お偉いさんの接待してきたのよ。労わって。枕を抱きしめて往生際悪くもそもそ綿に話しかける燐音に、こはくは腕組をして鼻を鳴らした。恨みがましく見上げると、呆れを孕んだ紫が燐音を見下ろしていた。鴇色の髪が、朝の日差しに透けて淡く発光している。
「先に予定言うとけっちー話やろボケ。起きたらそのままやないの。腐ってまうわ」
「寒い時期だし腐らねーよ。つーかゴミ出しいつでも良いんだろ、ココ」
「じゃかしい。昨日のうちのいつでも良ぇのに出さんかったのはぬしはんじゃろ」
 起きたならはよ出してきてと、こはくはにべもない。それでもぐずぐずしていると「ええ加減にせぇよ、蹴り出すで?」と、本域のドス声が床を這うので観念して起きあがる。こはくの蹴りは痛い。寝起きで避けられる気もしないし、今これ以上、痛い箇所を増やしたくない。寝間着にしている古い練習着のまま玄関へ向かう。扉に近付くだけでもう寒い。ああ嫌だ。こはくちゃんの鬼畜。
 既にまとめてあったビニール袋を一つ持って、サンダルを突っかけて外へ出た。セキュリティカードを持って一階のダストボックスへ向かう。ジャケット羽織ってくれば良かったなと、エレベーターホールで後悔した。十二階建てのエレベーターは二台稼働していても朝は利用者が多くのんびりだ。こはくの家は六階の角に位置していて、階段で降りるのも面倒くさい。

 ゴミ出しを終え、すっかり覚めた頭でペタペタ共用の廊下を歩いていると、隣室の、いつもきっちりスーツを着込んだお姉さんと鉢合わせて会釈をする。素知らぬ顔をしてくれているが、おそらくこちらの身元は気付かれているだろう。ESに程近いという立地上、アイドルに興味がない層以外は、知らないふりを通してくれている人間が大半だ。メンバーも出入りしているし、別フロアにタレントの誰それが、女優の誰それが、また別のフロアにはどこそこの役員さんが住んでいる、らしい。くれぐれも失礼のないようにと、七種が、こはくの入居時にぺらぺら喋っていったという。
 慣れているから騒がないで居てくれるのだ。それくらいしっかりしたセキュリティの分譲マンションだった。親戚の坊ちゃんがおおいに口と金を出して決まったと知ってはいたが、引っ越し祝いで訪れた当初は生意気な家だと大層いじった。「うっさいわ甲斐性なし。紐卒業してから口出しせえや」などと、可愛くないことを吠えてはいたが、こはく自身も、居心地悪そうにしていたのを覚えている。
 玄関を開けて、洗面台で手と顔を洗う。リビングに戻るとこはくが朝食の用意をあらかた済ませていた。
「燐音はん、お味噌汁以外も食べるん?」
「あんま腹減ってねーわ」
「じゃあお味噌汁だけやね」
「自分で注ぐって」
「ついでじゃ。わしの分テーブル運んどって」
 言われた通り、テーブルにこはくの分の朝食の配膳していく。見ていると多少空腹を感じるので不思議だ。物欲しそうな顔でもしていたのか二人分の味噌汁を持ってきたこはくに「ごはん、ほんまに要らん?」と重ねて聞かれ、やっぱ少し食べると言ったら、機嫌よく「おん」と応えがあった。

 一人暮らしを始めたばかりのこはくは危なっかしくて、仕事が近いから、近くで呑んでいたから、何だかんだ理由をつけて燐音はこはくの新居に上がり込んだ。最初は、急に来られても迷惑なんやけどと、難色を示していたこはくも、歯ブラシが一本増え、スマホの充電器が差しっぱなしで放置され、髭剃りが洗面台に置かれたところで、『燐音はんの洗濯物』とマジックで書いた段ボール箱をリビングの隅に設置した。正式に同居しないかと申し出たのは、ビーハイヴで酒に潰されていた燐音を、店長からのヘルプコールでこはくが迎えにきた日だった。言い出したのは燐音だが、こはくも強く拒否するようなことはしなかった。、光熱費折半という燐音の提案に、家事も半分やるならとこはくが条件を追加した。まさか受け入れるとは思わなかったので、こりゃ夢かな? と思いながら二度寝して、起きても追い出されることはなく、三日後には「いつまでもソファじゃ身体痛めるちー、午前中に布団が届くよって、受け取って昼のうちに干しとき。もちろん支払いはぬしはんな」と言いつけられ、前日「新台入るから見に行こっかなァ」と言ったとき「ぬしはん金持っとるんやね」と確認された意味を理解した。その日のパチスロの予定は強制的に消えた。

 同ユニットに所属していても生活は不規則なので、当初、食事は各自取っていたのだが、最近は何もなければ朝は共にすることが多かった。今朝のような二日酔いの日に、こはくが台所で味噌汁を作っていて「それ俺っちにもちょうだい」と言ったら、嫌そうな顔をしながらも「ニキはんの料理で舌肥えとるやろ。文句言いなや」と、燐音の分の朝食を分けてくれた。頼んでもないのに、白米に漬物まで。「食材は食べた分買い足しといてや」などと冷たいことを言っていたが、燐音が難癖つけるわけでもなく食べるので、何回か強請るうちに朝食だけは二人分用意してくれるようになった。今では光熱費といっしょに朝食費も折半で渡している。
「今日アッチのお仕事だっけ」
「おん」
「レッスン遅れんなよォ」
「情報部とP機関合同の打ち合わせだけやし、むしろ早く着くんちゃう?」
 各ユニットリーダーはメンバー全員分のスケジュールをキラキラメールで把握している。こはくは確かDoubleFaceの活動が入っていたはずだ。午前中は緑のバーで潰されていた。
「ちゅうか遅刻常習はぬしはんじゃろ」
「俺っちはリーダーだから色々あんのよ」
「適当言いよるわ」
「どうせメルメル先に来てるだろうしわかんねーとこ教えてもらえよ」
 結成時からは考えられないことだが、ユニット練習に遅れるようなことは、前の仕事が押したなど、理由がない場合は殆どなくなっていた。元来真面目なこはくやHiMERUは、時間前に自主練習をしていることも多い。そのため、集合は十五時にしていたが、スタジオの予約は十四時半から入れてある。鏡が大きい方が個人練習もしやすいだろうと長めに予約を入れる癖がついていた。
「HiMERUはんの邪魔したないわ。まあどうしてもわからんっちーとこは聞くけどな」
「直す方が時間かかるからな。さっさと聞け」
「おん。ほなお先」
 こはくは味噌汁と白米、昨日の煮つけの残りをさっさと平らげてキッチンへ運んだ。洗い物頼むわと律儀に言い置いていくのを忘れない。いつものことなので、あいよと適当に返事をする。朝食はこはくが作ることが多いので、自動的に洗い物は燐音の役割となっている。その他の家事は気付いた方が、ゴミ出しだけは当番制となり、こはくとの生活で揉めるのは燐音がゴミ出しを忘れたときだけだ。もめると言うより、一方的に制裁を受けるだけなのだが。

「行ってくるわ」
「おう。あとでな」
 こはくは、椅子の背に掛けていたウィンドブレーカーを羽織って、慌ただしく玄関に向かう。燐音は座ったまま、厳つい鳥が羽ばたいている背中を見送る。こはくちゃんそっち系のモデル狙ってんのかなァ、とちょっと悩ましい気分になった。ドアの開閉音の後、この部屋は急に静かになる。外の音も、中の音も、扉一枚隔てて殆ど消えてなくなってしまうので、全く以て生意気なマンションだった。こはくの仕事内容を考えると、セキュリティを上げておきたいのもわかるが、それにしても。

 味噌汁を啜りながら、惰性でテレビを点けた。四角のなかにまたひとつ空間ができて、爽やかなアナウンサーの声が無遠慮に室内に満ちる。めまいがするほど平和で、退屈だった。いや、めまいがするのは二日酔いのせいか、寝不足だからか。散漫にだらけた思考で、椀の底に沈んだ豆腐とわかめを箸で掻き混ぜながら喉に流し込む。よそってもらった白米が結局手付かずで残ってしまった。握り飯でも作って、レッスンに持っていこう。
 こはくの作る味噌汁は、いつからかニキの作る味噌汁と同じ味がするようになっていた。燐音はそれを何となく、指摘できないままでいる。