あらしのよるに


 嵐が過ぎるのを待っている。燐音の喘ぐような息遣いを宥めながら、ああ、どうしよう。どうすれば。そればかり考えていた。こういうの、わしが立ち会ってしまって、ええんやろか。よくはないわなぁ。かっこつけやち、このお兄はんは。こんな時に限って何でニキはん居ないんじゃ。ここはニキの部屋だった。こはくは借りていた製菓の本を仕事の帰りに返しに来ただけだった。ニキ曰く「燐音くん居るっすから、近く通るなら渡しといてくださいっす!」とのことだった。もし燐音が居なかったらポストに入れておいてくれ、とも。それだけのことだったのに。途中まで斑にバイクで送ってもらって「本を返すだけだろう? 待っているぞぉ」と言うのを雑に断り、こはくはニキのアパートへやってきた。チャイムを鳴らしても応えがなく、ただ人の気配があったのでもう一度チャイムを押した。それでも出てこないので、まさか犯罪でも起こったのではと物騒なことを考え、鍵が開けっ放しの不用心なドアを開けた。そうしたら、息を粗くした燐音が、玄関から続く居間の床に倒れていた。急いで抱え上げたは良いものの、それからこはくは碌に動けず、燐音の頭を抱いている。どうしてこうなった。まあどうしてそうなるかなんて、色々あるわな。燐音が顔を上げようとするので困って、そこらへんにあったニキの上衣を頭から被せた。苦し気な呼吸の合間に、ニキ? と、なんだかむず痒い甘えた声で問われ、せや、と答えそうになって、そうっすよと、答えた。縋る手が強くなって、大丈夫、大丈夫と、赤子をあやすように背を撫でた。意外やわぁ。過呼吸っちヤツやね。追い詰め過ぎたかわいそうな獲物がたまになって、暴れたり、うるさかったりで、少し面倒だ。酸素の取り過ぎでなるらしいから、自分の息を吸わせると良いのだ。口を割らせなきゃいけない相手に、応急処置としてやったことがある。そのときはビニール袋でやった。ほんとうは紙袋の方が良いらしい。収まればなんでもよかった。だいじょうぶや、言う通りすればなんもせんよ。ええこやから、知ってること、ぜぇんぶ、わしに話して? 鎮静剤を持ち歩いていることも多いから、そちらを使うこともあったけれど、薬を残していけないときは、そうして落ち着くまで待ってやった。何もしないは大嘘だったけれど、おさまれば何でもよかった。さて、どうしよう。ここに手近な袋はない。薬も、今回の仕事では使ってない。首の神経を圧迫すれば意識を落とすことは可能だけれど、燐音は標的でもないのだし、できるだけ穏便で、やさしいやり方が好ましい。しようがないので、燐音の頭を抱きしめていた。大丈夫、大丈夫。よしよしと背を撫でながら、こはくは少し前のことを思い出す。空中庭園で鉢合わせた流れで、自主練習をともに行っていた藍良が、はっはっ呼吸を粗くして倒れ込んでしまったときがあった。こんなとこでも起こるものかと、少々驚いたものだった。藍良は慣れた様子でジャージを口に当てうずくまり、こはくはその時も、ずっとその背を撫でていた。ここにおるよ、大丈夫やよ、ラブはん。吐いて、吐いて、吐いて。吸って吐いて吸って吐いて。藍良は「たまになるんだァ迷惑かけてごめんね、びっくりしたでしょ?」と、その場に居合わせたこはくの方を気遣って、まだ回復しきらない息遣いで謝った。迷惑なんかじゃないというと困ったように微笑んで「動き過ぎて、でもうまくできなくて、不安で、パニックになっちゃうの」そんなことを淡々と説明した。パニック。混乱。あのとき何が、藍良を追い詰めたのだろう。燐音は何にパニックを起こしているのだろう。ひゅうひゅうと気道が狭まい苦し気な息遣いが聞こえる。縋る手が重たい。大丈夫、大丈夫、ずっと傍にいるっすよ。なるべく、ニキが喋る調子を心掛ける。ここに居るのはニキなので、こはくは己がおもったことを、この場で音にすることを禁じた。頭の中でできそこないの言葉が、浮かんでは消え浮かんでは消え、最後には、標的を追い詰めたときと同じ、嘘みたいに色のない哀れみしか残らなかった。かわいそうに。ただ苦しいだけで、死ねないんやて。生き地獄っちやつやね。今すぐ楽にしてやりたいんやけど、堪忍なぁ。片方の手で燐音の背を撫でながら、もう片方で、燐音の首を抱いていた。簡単に壊せてしまうものを、大切に扱うのは、難しい。こはくは、嵐が過ぎるのを待っている。