モンスターセラピー



「ニキちゃん、今日もたくさんねぇ」
「あ、おねーさん! 元気にしてるっすかぁ?」
 僕の住んでいるアパートから三棟先のマンション、二階の角部屋に住むお姉さんは、道ですれ違うといつもやさしく声をかけてくれる。子供のころお腹がすいて道でうずくまってたら、心配してお菓子をわけてくれたのだ。それから両親が殆ど家に居ないことを知っていて、何かと気にかけてくれている。
「沢山アイスいただいちゃったの。冷凍庫がぱんぱんで、少し持っていかない?」
「わあ良いんすかぁ〜? ありがとうございます」
 僕は買い物ぶくろを三つ下げていたので、持てるかな、と少し考えた。考えたけど、大丈夫、家までそんなに離れているわけでもないしと、うんうん二つ返事で頷いて、僕はお姉さんの後ろを歩く。
「春だから、桜のアイスなの」
「へえ、おいしそうっすねぇ♪」
 僕はマンションの敷地に植わっている背の低い桜を眺めながら、お姉さんに着いてエントランスをくぐった。入ってすぐのところにあるエレベーターを素通りして、奥の階段をのぼる。お姉さんは二階だから、いつもエレベーターは使わない。





 僕はじっと堪えるように震えている燐音ちゃんのあそこを舐めていた。特別おいしいわけでもないけど不味いわけでもない。ちょっとしょっぱくて、濃い生き物の臭いがする。体液って大体ぜんぶそういう味。触感はぬるぬるしてたり、さらさらしてたり、だまになってたり、そこはいろいろだけど、生きてるなぁって味がする。
「なァ、もうイイって……」
「ん? 気持ち良くない?」
「も、ヤダ……!」
「ん〜もうちょっと」
「……っ、しつけェって」
「だってまだイってないでしょ?」
 一番敏感な突起を音を立てて吸った。内股がびくりと震えて、穴からとろとろ粘液が漏れてくる。それを舌で掬って、敏感なところを押し潰すように塗り込める。燐音ちゃんは中が好きじゃないから指はあまり入れない。充分濡らしてから指一本だけゆっくり出し入れしたりはするけど、痛くもないけど気持ちよくもないみたい。最初にしたときは、怖がって泣いてたから、ましになったのかな。そういうの燐音ちゃんは隠したがるし、僕はサディストじゃないから、普段あまりやらない。男じゃないから穴に入れなくても良いしね。初体験が悪いと感じにくいらしいっすよね。知らないっすけど。僕処女だし。くちゅくちゅと穴の淵をなぞるように舐めると、びくりと燐音ちゃんが震える。大丈夫、入れないよ。よしよしと強張った太ももを撫でて、また突起を強く吸ったりやわく食んだりしながら、舌でころころと転がす。喘ぎ声が短く、大きくなっていく。あ、そろそろっすかね。
「あ、あ、あ、ぁあ——……っや、あァ…………ッ」
 プシッと透明な液体が顔にかかって、燐音ちゃんがイったのがわかった。頬を拭った手を舐めると、息も絶え絶えの燐音ちゃんにやめろって顔面を蹴られた。痛かった。なんかいつもこんな感じだなぁと思いながら、僕はお風呂の用意をするために浴室に向かった。燐音ちゃんはよろよろ起き上がって、シーツが濡れてないか確かめている。「ニキのくせに」といつも通りの悪態をつきながら。

 僕がお風呂から出ると交代で先に出ていた燐音ちゃんはリビングで難しい顔をしていた。上下スウェットの色気のないルームウェアを着ている。テーブルの上には企画の書類らしいものが広げてあった。リーダーのお仕事ってやつっすかね。でも僕はそのとき、まだ燐音ちゃんから聞かされていない案件より、燐音ちゃんのスマホの上に置いてあるぐしゃぐしゃの名刺が気になった。
「これなんすか」
「ああそれ。メルメルにちょっかい出してたおオッサン。前にお前の胸もじろじろ見てた」
「胸は大体じろじろ見られるんでいちいち覚えてないっす」
「ハッ だろうなァ」
 靴で踏んだような跡がある汚れたそれを見ながら、誰だっけと記憶を探ってみる。役職と名前の横に、個人的なものであろうLINEと電話番号が手書きで書かれてる。雑誌の名前は、ESのアイドルがよくグラビアを飾る週刊誌だった。ああ次の号、HiMERUちゃんと燐音ちゃんなんすね。
「HiMERUちゃん、しっかりしてるけどなーんか危なっかしいっすよね」
「痛い目見たし、ちっとはマシになんじゃね?」
「あれ、叱った?」
「さァてね」
 これは今日なんかあったな。いや、なんかあった日しかえっちなことしないから、あったのはわかったけど。僕がフーンと名刺を摘まんで眺めていると「割りに合わないこと理屈で納得しようとしても無駄だっつの。合ってねーんだからさ」と吐き捨てるように続ける。HiMERUちゃん何やったんだろう。アイドルとして意識高過ぎ、やる気ありすぎ、 頭良すぎの二人が何を言ってるのか、僕はいつもよくわからない。わからないけど、お互いに気を遣ってるなっておもうことは多い。不可侵が多いっていうか、だから燐音ちゃんがHiMERUちゃんのやり方に口出したってことは、HiMERUちゃんが明らかに悪かったのか、この『オッサン』の性質が相当悪いのか。両方かな。一応名前だけでも憶えておこう。明日には忘れちゃうかも知れないけど。
 燐音ちゃんは露出の多い撮影があまり好きじゃない。苦手か嫌いかは知らないけどオファーが入るとテンション下がったみたいな顔するし、終わるまでア〜怠いって一日に何回も言うし、まあ受けた仕事はきっちりやるんですけどね。大人の身体って言うんですかね。細いのに寄せれば谷間は作れるから、結構そういう仕事も入る。というより、こはくちゃん以外は露出する撮影も多い。
「こはくちゃんって脱ぎNGでしたっけ」
「いんや? でもまァーちっぱいだしなァ」
「それはそれで需要ありそうっすね」
「ロリコン気色ワリィー」
「なははー、まぁいろんな人が居るっすね」
 燐音ちゃんやHiMERUちゃんはバランスよくって感じだけど、僕なんかは胸が目立ち過ぎて服着るより脱ぐ撮影の方が多い。もちろんアイドルだから、ハードなのじゃなくて健全な感じのだけど。健全ってなんだろうね。女の子の下着とか水着とか、面積広かったら健全って、変な感じ。そういえば、今日食堂で給仕しているときに聞いたことを何となく思い出した。
「こはくちゃん、あっちのユニットでそういう仕事入るらしいっすよ? 三毛縞さんと今日それっぽい話してたっす」
「ハァ? 聞いてねェけど」
「食堂でなんか真剣に話してるな〜って見てたんすけどね。お冷出したら『ニキはん、水着グラビアってどんな感じやろか』って」
 露骨に嫌な顔をする燐音ちゃんにおもわず笑ってしまう。燐音ちゃんはちょっとこはくちゃんに過保護だ。事情も複雑みたいだし、心配なのもわかるけどね。先月やっと十六歳になった末っ子ちゃん。自分の好物ばかり並ぶテーブルの前をうろうろしながら、沢山ありすぎて迷ってまうわぁって嬉しそうにはにかんでいたかわいいこ。そうして僕の料理をお皿に少しずつ盛って、主役なのに端の方の椅子にちょこんと座って黙々と食べていた。見兼ねたHiMERUちゃんがそれとなく真ん中の席へ移動させてた。HiMERUちゃんも、あれは過保護というか、本当にかわいがってるなぁって感じ。
「お肉かき集めて寄せて上げてテープ巻かれてってされるから、驚いても殴ったり蹴ったりしちゃ駄目だよって言っておいたっす」
「ああ、アレ笑うよな」
 仕事の人どついたりせんわ!って言ってたけど、どうかなぁ。確かにジャケット撮影のときとか借りてきた猫って感じだし、大丈夫なら良いんだけど。
 こはくちゃんたちはその後もやけにシリアスな顔をしながら「結構目立つ傷あるけどどうやって隠すん?」「そこはファンデと加工頼みか、いっそサバイバルな撮影にしてもらうかだなあ」「サバイバルな撮影ってどないやの」「森ガール、山ガール的な」「それ意味ちゃうやろ。良くてサバゲ―女子とかやない?」「はっはっは☆ ガチ過ぎて引かれそうだなあ!」なんて、テンポよく漫才みたいな会話を続けていた。
「いいじゃないっすか。前より積極的になったし、燐音ちゃんが発破かけたんでしょ」
「そうだけどさァ」
「大丈夫っすよ。三毛縞さんもいっしょだし」
 あの二人なら嫌なこととか腕っぷしで何とかしちゃいそう。なんか物騒なことばっか言ってたし。     
 燐音ちゃんは考え事が終わったのか書類をファイルにまとめ始めた。すごいね。話しながらできちゃうの。話してる間もずっと赤入れたり、線引いたりしてたもんね。商店街で貰った卓上カレンダーを指差して「日程ここ入るからバイトのシフト空けとけ」と言うので了解する。いつもこうやって前もって言って欲しいなっておもうけど、燐音ちゃんにそんな権限ないもんね。仕方ないよね。
「あ、そういえば近所のお姉さんにアイス貰ったんすよ〜燐音ちゃんも食べる?」
「あー『二階のお姉さん』?」
「そうっす! 会ったら燐音ちゃんもお礼言っといてね」
「おう」





「そう、上手。いい子ねぇ」
「僕じょうずっすか?」
「うん、ニキちゃんとっても上手」
「よかったっす」
 最初はそういう遊びだと思っていた。お姉さんからしたら、やっぱりそれは、ちょっと背徳感のある遊びだったんじゃないかとおもう。舐めてって言われて、汚いから嫌だなってふつうにおもった。はじめて女の人のあそこを見たときはぐろいなっておもった。でもお姉さんは知らない人ではなかったし、良くしてくれるし、その日もアイスをくれたし、まあいっかと思った。あとで知ったんですけど、ペットをそういう風に躾ける女のひと居るらしいっすね。怖くないのかな。牙がある動物に、あんな無防備なとこ舐めさせるの。噛まれたら痛そうなのに。僕は勿論、そんな下手はしないけれど。だってお姉さんは、ぼくにお菓子をいっぱい与えて、おなかを満たしてくれているから。そう、ねこっかわいがりというより、犬の様に可愛がられていた。お姉さんは僕が上手にあそこを舐めたあと、ご褒美みたいにまたお菓子を出して、あたたかい紅茶を淹れてくれた。お姉さんはいつも、僕がおやつをみるみるうちに胃袋へしまっていくのを、物珍しげに見ていた。そうしてもう帰ろうというころになると、決まってこんなことを言った。
「ニキちゃんは怪獣みたいだね」
 ——ネズミも、ネコも、イヌも、ウシも、ワニも、ライオンも、ゾウも、クジラも、ぜんぶ食べちゃうはらぺこのかいじゅう。
 夢を見るみたいな目をして、歌うような声でお姉さんは話した。ソファに浅く腰かけて、ティーカップの音を殆ど立てず紅茶を飲む。僕はおなかが空いていたから、気まぐれに頭を撫でる手をちょっと邪魔だなとおもっていた。お腹が空いたら好きなだけ食べにいらっしゃいというので、子供のころは何かにつけてあそびに行っていた。ぼくはその家で贈答菓子と紅茶と女のあそこの味をおぼえた。





 まだ二人で活動していたときのこと、三日間撮影で孤島に泊まることになったと燐音ちゃんは言った。燐音ちゃんはめずらしく緊張してるみたいだったけど、写真集を出してもらえるって嬉しそうだった。燐音ちゃんはその撮影に向けてちゃんと身体を万全に整えて、ぴかぴかにしていた。写真集が出せるなんて、売れて良かったねと、僕も芸能なんて興味ないけどすごいのはわかるからお祝いして、ダイエット頑張ったから、帰ってきたら好きなものなんでも作ってあげるなんて言って送り出した。
 帰ってきた燐音ちゃんは、いつもの燐音ちゃんだったけど、真夏の影みたいなくっきりした鋭い輪郭がゆるんでいて、何かあったんだなってことはすぐにわかった。だけど燐音ちゃんは、弱いところを見せたがらないので、最初は気付かないふりをした。
 でも夕食に好物を並べてもあまり箸が進まない段になって流石に「何かあったっすか?」って聞いた。料理を食べて貰えないのは、僕としては一番かなしいことだったから、その理由はちゃんと聞いておかなければとおもった。
「何なら食べられそう?」と聞くと、しばらく黙って「食欲がない」と言った。それは一大事だと思ったので「病院行こう?」というと「大袈裟」と笑われる。酷いよね。真剣なのに。
 それから、撮影でいろいろあったと、少しだけ話してくれた。とっても怖いことがあったみたい。ぼかしてるわけじゃないっすよ? 燐音ちゃんが云いたがらないから、詳しく聞いてないだけ。ただ怖いことっていうのは性的なことで、燐音ちゃんは見た目の派手さと正反対にそういう貞操観念はしっかりしてたから余程ショックだったのはわかった。
「都会って怖いなァ」
 燐音ちゃんはそうおどけて、この話はこれで終わりという風に口の端をあげた。そのまま寝ようとしちゃうから、僕はその日はじめて、燐音ちゃんとえっちなことに誘った。お清めえっちってやつっすかね。俗っぽい? でもね。そういうことがぜんぶ嫌なものってなっちゃうよりは、気持ちいいんだよって教えてあげたかった。燐音ちゃんの無駄に賢い頭が、眠るまでのあいだ嫌だったこと繰り返して、燐音ちゃんが大事にしている白くて柔らかいところに焼きつけちゃうよりは、下僕だか奴隷だかニキのくせにだかが馬鹿やった記憶で上書きしたほうがましなんじゃないかとおもった。
 僕はお姉さんが云ったことを思い出していた。
 ぜんぶたべちゃうはらぺこのかいじゅう。
 寝室にしてる居間に入って行こうとする燐音ちゃんの腕を掴むと、怪訝な顔をされた。ぼくははらぺこのかいじゅう。怪獣になろうと、決めた。よくわからない暗い熱が、腹の中でぐるぐる渦を巻いていた。かいじゅうっぽいなとおもった。
「ニキ?」
「ぜんぶ食べてあげる」
「飯ならさっき燐音ちゃんの分までぺろっといったっしょ?」
「ぼくははらぺこのかいじゅうなんだって」
「まだなんか食べんの?」
「燐音ちゃん、僕と気持ちいいことしよ?」
「ハ?」
 抵抗は、それはもう物凄くされた。蹴られたし、ひっかかれたし、髪を引っ張られた。それまでで一番、本気で痛かったし、燐音ちゃんも本気だったとおもう。ただ疲れていたから、それはもう疲れてへとへとだったから、最後に「お前、怖いよ……どうしちゃったんだよ……」と肩で息しながらぐちゃぐちゃの布団の上で消えいるような声で言って、僕を受け入れた。
「怖がらせちゃってごめんね」「気持ちいいことしかしないから大丈夫」自分だけに都合の良い男みたいな台詞を吐きながら、きっと人生ではじめて、女に生まれて良かったとおもった。僕は女だから、燐音ちゃんを本当に怖がらせるものには、どうしたってならないのだ。
「……くっ……ぅ…………」
「声出してよ」
「……さ、なんで」
「大丈夫っすよ。ぼくじょーずなんで」
「どこで、覚えてきたんだよ」
「あれ、そーいうの気になる? 野暮っすねぇ」
「ハッ……誰が!」
「じゃあいいじゃないっすか」
 燐音ちゃんが気持ちよさそうにあえぐのを聴きながら、お姉さんに教わったとおり、優しくたっぷりと時間をかけて舐めた。全身くまなく舐めて、いっぱいキスをした。それから股の間に顔をうずめて、燐音ちゃんの頭がぐずぐずに溶けちゃうまで、吸ったり転がしたりして舌で遊んだ。一際おおきく震えた燐音ちゃんがイってくれたときは、僕も達成感でイっちゃいそうになった。舐めただけで興奮していて、おまたがぐっしょりなんてことも初めてだった。
 燐音ちゃんはいい子とも上手とも言ってくれなかったけど「大丈夫?」と僕が顔を覗きこめば、気怠げに頭を撫でてくれた。終わったあと気恥ずかしさを紛らわすためにへらりと笑ったら、急にかっと赤面した燐音ちゃんに勢いよく顔面を蹴られた。顔洗ってこい馬鹿と怒鳴られて洗面所に行くと、頬に燐音ちゃんの陰毛が一本ついていた。なははー燐音ちゃんも恥ずかしかったんすねーって一安心して、軽くシャワーで濡れた下半身を洗った。
 そのあとは一緒の布団で寝て、翌日燐音ちゃんは何ともない顔をして朝ごはんをしっかり食べた。それから燐音ちゃんとは、嫌なことがあった日はそういうことするのが流れになっている。





「結婚することになったの」
 親戚の人が持ってきた縁談が進んでね。お姉さんは玄関先でアイスを僕に差し出してそう言った。お姉さんは近所の音楽大学卒業したそれなりの家のお嬢さんらしかった。駅前の音楽教室で先生をしているらしい。家にはピアノと楽譜用の棚があり、ピアノを触らせてくれたこともある。
「へえ、おめでとうございます」
 じゃあ引っ越しちゃうっすか。寂しいっすね。
 僕は思った通りのことを言って、お姉さんからアイスを受け取った。
「近所なの。というか、下の階の、ファミリー用の間取りの部屋に移るだけなの」
 親のマンションなのよ。ここ。そう続けて、お姉さんは困ったように笑う。
「じゃあ、また会えるっすね」
「うん、でもね。でももう、お家には呼べないとおもう」
「なははー仕方ないっすよ。旦那さんとお幸せに」
 そりゃあこんなお遊びはもう無理だろう。だからこれは別れ話みたいなものだとおもった。付き合ってないけどね。新しい家にペットは連れていけません、みたいな話だよね。うんうんわかってるっすよ。そんなことは馬鹿な僕だってすぐわかる。
 それなのに、言い出したお姉さんが、縋るみたいな目を一瞬だけした。だけど次の瞬間には何もなかったみたいに、ありがとうと薄く微笑んだ。いつものお姉さんの笑顔だった。でも僕は見てしまった。だから殆ど無意識に、じゃあね、ばいばいの手を掴んで、言った。いつものように。お姉さんの股のあいだに潜るときと同じように。
「食べてあげましょうか、その人」
「え……」
「嫌なんすよね、結婚」
 言いながら、僕は何を言ってるんだろうとおもった。でも、本当に嫌なら、僕はお姉さんに無理にその人のお嫁さんになってほしくなかった。だってお姉さんはいつも、僕に優しくしてくれたからだ。ただの悪戯だとしても、ただのペットだとしても。珍獣を観察して楽しんでいただけなのかもしれなくても。お姉さんがぼくにかいじゅうになってほしいなら、なってあげたいなとおもった。
 お姉さんは目を丸くして、そのあとすこし嬉しそうに、殆ど泣いているみたいな顔で笑った。僕もつられてへらりと笑った。お姉さんと僕はよく笑った。ふたりしていつも、どうしようもないねという顔をした。笑うしかないことばかりだった。お姉さんが首を横にふると、お姉さんが使っている香水の匂いがした。甘いのに、食べたらお腹を壊しそうな人工的な香り。お姉さんに言ったことはないけれど、僕はその匂いが嫌いだった。
「無理だよ」
 小さく、けれどきっぱりと断言する。
「だってニキちゃんは女の子だから」
 ——いつかニキちゃんもだれかに食べられちゃうんだよ。
 そんな予言を残して、彼女は玄関の戸を閉めた。

 締まったドア前でしばらく立ち尽くしたあと、はっと我に返った。それからアイスが溶けてしまうと焦って、一気に階段を駆け降りた。数日前から急に春めいて、桜がいたるところで満開になっていた。入学式まで持つだろうかと、食堂で先生たちが天気予報を確認しながら、今年の新入生の話をしていた。エントランスを抜けると、夕陽に透けた花びらが、あたたかそうなクリーム色に染まっている。空気がぼんやり濁っているのが見える。春だ。春がアイスを溶かしにやってきた。日が暮れるとまだ肌寒いくらいなのに、おかしなことを妄想して僕は走る。なんだかすごく空っぽで、それなのに、胃の下の方がずんと重かった。買い物袋が手に食い込んで、身体が地面に引っ張られてるみたいだった。
 自宅まで走って帰ると、玄関には燐音ちゃんの靴があった。リビングには仕事から帰ったばかりっぽい燐音ちゃんが居て、不機嫌そうな顔をして「おかえり」と言った。それから片眉をあげて「どうしたよ、息切らして」と聞いてくる。僕はアイスを冷凍庫に一つずつしまいながら「何でもないっす」と答えた。桜のアイスは六つ、種類は三つ、それぞれ二つずつ入っていたので、燐音ちゃんと分けても全部の味を試せるので有難かった。





「『二階のお姉さん』死んだって」
 ベランダから落ちて、打ちどころ悪くて。
 バイトから帰ってきた僕に、僕より先に帰っていた燐音ちゃんがそう告げた。そういえば、お姉さんのマンションの前に人が少し集まっていたけど、お腹が空いてて早く帰りたかったからあまり気にしていなかった。僕は食材の入ったエコバッグをキッチンに置きながら、燐音ちゃんの言っている意味を理解するまで時間がかかった。
 え、なんすか。とか、そんなことを最初に言って、そのあと、ええ? とか、びっくりしたぁ! とか、事故だったんすかね? とか、いろいろ云った。僕がリアクションすればするほど、燐音ちゃんは変な顔をした。不思議と何の感情もわいてこなかった。実感できていないのだと、それだけはわかった。
「おい、ニキ」
「なんすか」
「大丈夫か」
「大丈夫じゃないっすよ〜! いや僕は大丈夫ですけど、びっくりしましたねぇ。燐音ちゃんこそ大丈夫?」
「あたしは別に。お前、仲良かったっしょ」
「うん、そう、そうっすね」
 流石燐音ちゃん。落ち着いてるっすね。落ち着いてないのは僕。そうだよね。
 どうしてベランダから落ちてしまったんだろう。布団でも干していて、とりこみ損ねたとか。何か必要があってベランダの手摺によじ登ったとか。用事ってなんだ。そんな馬鹿な。まさか自殺? まさかね。それならもっと上の階から飛び降りないと確実じゃない。
 かくじつ、かくじつじゃない?
 すこし考えて、僕はふと、アイスを渡されたときのことを思い出す。最期に見たお姉さんの笑顔を思い浮かべる。
 もしかして、確実じゃないから? 
 僕に遊びを持ちかけたときみたいな、ちょっとしたスリルと好奇心。お姉さんは、物静かで穏やかな人だったけど、変化への賭けをするような人だった。そういうところがちょっと、燐音ちゃんと似ていた。違うのは、燐音ちゃんが自分自身を燃やすようにして周りを巻き込んで滅茶苦茶にしちゃうのと反対に、ひっそりとそのときを待って、冷たい水の中へ手招きするような人だということ。どこかへ連れ出してくれるような人を待っているけど、最初からそんな人は居ないと諦めている。そういうところは、こはくちゃんと似ていた。僕と話しているはずなのに、自分とだけ話してるみたいなところは、HiMERUちゃんに似ていた。
 お姉さんは、僕の知っている色んな女の子に似ていた。誰とも似ていて、誰とも違った。いつも甘い匂いを纏って、すべてを拒絶しながら誘っている。柔らかくて綺麗で凶暴で毒々しい、まるで女の子そのものみたいな人だった。
「お姉さん、お見合いで結婚するって言ってたんすよ。でも嫌そうで」
「……へェ」
「いつも親の言い成りって、たまに言ってたっす。それが嫌だったんですかね?」
「自殺だと思ってんの、お前」
「やっぱり食べちゃえばよかった」
「……は、」
 見ず知らずの子を家に迎え入れてみたり、急所をその子供に晒してみたり、いけない遊びを教えたり。そんなのバレたら世間的にやばいのはどう考えたってお姉さんなのに。お姉さんは男じゃないから、腕力で従わせるとか、そういうことも難しいだろうに。子供だから大丈夫っておもったのかな。子供だから、だれに言いふらすかもわからないのに。僕がひとりだったからだろうか。でも、かいじゅう、なのに? 違う。違った。違うって言われたじゃないか。お姉さんは、ぼくに怪獣になってほしかっただけで、誰かに怪獣になってほしかっただけで、最後はきっと、自分が怪獣になることを選んだのだ。二階から落ちて、死ぬか生きるか。それさえも、賭け事にしてしまったのかもしれない。
 自棄だったのかな。
 何となく投げやりな気持ちって、わかるよ。僕も、そういう気持ちがないわけじゃない。ただ自分にどこまでも価値がなくて、世界にもほとほと愛想が尽きていて、そんなとき、地面に引きずり込まれるような感覚。暗い場所から、だれかに呼ばれてるっておもうとき。バイトとバイトの空き時間、買い物かごに大量の食材を入れているとき、雑踏でも、誰かといっしょでも、一人歩く帰り道でも、朝も夜もなく、それは影のように寄り添って、離れてくれない。どこへ行っても、どこに居ても、逃れることができない。あれをきっと、空虚とか、孤独とか、絶望と呼んだりするのだろう。
 今は燐音ちゃんが一緒に居るから、そういうのあんまないけど。
 冷蔵庫に食材も入れずに固まっていると、燐音ちゃんが後ろから中段の冷凍庫を開けた。
 中からアイスを取り出して、僕に差し出す。
 僕は燐音ちゃんの手を目で辿って、顔をのろのろと上げた。
「アイス、食っちまうぞ」
「燐音ちゃん、あのね」
「これ、最後の一個だろ」
「……うん」
 アイスを貰ったのは一週間前のことだった。





「ねぇ、いいっすよ……そんなことしなくてぇ……っ」
「なんで」
「だって……汚いでしょっ」
「お前いつも汚いって思いながら舐めてたの」
「っ……そんなんじゃ、ないっすけどぉ」
 その日はじめて燐音ちゃんに舐められた。いつも僕が勝手に燐音ちゃんを舐めまわしてるだけだった。最初のとき「あたしはしなくていいの?」って涙目で聞いてきた燐音ちゃんに「そんなことしなくていいよ」と言ったからだ。僕に散々舐めまわされてぐったりしてる燐音ちゃんが、いつも何か言いたそうにしてるのは知っていた。それでも、そういう雰囲気になると無視していた。お風呂に行ったり、シーツを替えたり、さっさとそんな空気を消し去って、ないことにした。潔癖な燐音ちゃんが、僕のことを舐めるのを、何となく見たくなかった。今日も無視しようとおもった。無視して寝ちゃおうとおもったのに、燐音ちゃんは許さなかった。燐音ちゃんは僕の手首を締め上げて自分が使ってる布団に押し込んだ。
「黙って食われろよ」
 そう言って、腰の辺りに乗り上げた燐音ちゃんが凶悪に笑う。腕も身体もがっちり固定されて逃げられない。碌に抵抗させてもらえなくて、ああ燐音ちゃんは、僕のことちゃんと受け入れる気があったからさせてくれてたんだなって、焦りながらちょっと感動した。
「……っ僕と、するの、嫌じゃなかったんすね……!」
「はァ? 嫌がらせしてたのかよ」
「うぐ……っやだ、やあ、そこだめぇ……!」
「きゃはは。良いから鳴いてろ」
 ねっとりいやらしく、燐音ちゃんが僕の気持ちいいところを舐めてる。赤い唇が薄暗い部屋でつやつやしてるのがえっちだ。変なの。お姉さんに舐められたことは一度もなかった。あ、あ、あ、あ、あ、勝手に声が出て恥ずかしい。燐音ちゃん、恥ずかしかったよね。仕返しかな。そうだよね。燐音ちゃんは負けず嫌いだ。あ、あ、あ、あ、あ、燐音ちゃんは上手だった。お姉さんに褒められたみたいに、いいこって言った方が良いのかな。じょうずってほめたほうが、いいのかな。でもなんか、それは、違うのかな。あ、あ、あ、きもちいい、きもちいい、きもちいい、燐音ちゃん、あ、あ、あっあああ――……
 身体が勝手にびくびくと痙攣する。抑えようとしてもふるえがとまらない。布団をぎゅっと握りしめて、真っ暗なのに、真っ白だった。真っ白な世界で僕は裸で、息が苦しくて溺れそうになった。夢中で手を伸ばしたら、誰かに引き戻されるように掴まれた。燐音ちゃんだ。燐音ちゃんしか居ない。僕にはいつも、燐音ちゃんしか居なかった。
「り、ん……ちゃん、くるし」
「ニキ」
「ぁ、……たすけ、止ま……、ない……っ」
「こっち見ろ」
「あ、あ、あぁう……やっ」
「なァ、ニキ。ニキ。ね、あたしだけ、見て。何も考えないで」
「りんね、ちゃん、りんねちゃ……」
 それからどちらともなくキスをした。軽いリップ音が恥ずかしくて、僕はねだるように舌を入れた。ぐちゃぐちゃ水音が頭の中いっぱいに響いて安堵する。燐音ちゃんの舌は女のあそこの味がした。僕の味だ。そうおもったら、ちょっと気持ち悪かった。僕は女だ。どこまでも女だった。いつか食べられちゃうんだよって言われたけど、まさか一週間後に食べられちゃうとはおもわなかった。お姉さんもおもわなかったと思う。男だったら、ぼくはかいじゅうになれたんだろうか。捕食者で居られたんだろうか。でもそしたら燐音ちゃんは、僕とこんなことしてくれなかったかもしれない。僕といっしょには居てくれなかったかもしれない。それは何だか、すごくかなしかった。鼻がつまって、顔があつくて、喉がひくひく鳴っていた。皮膚と皮膚がぴったりくっついて、舐めて舐められて擦って指を入れてみても、それ以上ぼくたちは近くならない。同じにはなれない。それがどうしようもなく、もどかしい。君が他人で、僕はかなしい。ずっと、きっと、これからも。
「ふぐ……うあ。ああ……」
「……泣くなよ」
「へ……? ひぐっ」
「あー……いい。泣け泣け」
 燐音ちゃんはそう言って、僕の顔を自分の胸に押し付けた。あったかくてやわらかくて、燐音ちゃんの汗のにおいがした。
 さみしい。
 かなしい。
 いとしい。
 くるしい。
 女の子同士でするえっちは、柔らかくて、優しくて、気持ちよくて、ただひたすらに寂しかった。きゅうっと胸が苦しくなって、行き場がなくなった想いだけが膨らんでいくのがわかった。それなのに、身体中穴だらけで、そのせいで一生満たされないのだとおもった。
 だから食べちゃいたいって、いつも考えていた。
 一つになりたかった。
 本当に、僕が怪獣で、ぜんぶ食べちゃっていたのなら、世界にたったひとりになるまで食べちゃっていたのなら、お姉さんも燐音ちゃんも食べちゃっていたのなら、ぼくだけが寂しくて、でもおなかはふくれて、一つになったぼくらは幸せと言えるのだろうか。
 そんなのは、だめだ。
 嫌だ。
 嫌だよ。ねえ、燐音ちゃん——……

 泣きながら、燐音ちゃんの背に腕をまわして甘えた。衝動的に縋って、どこにも行かないでと泣いた。燐音ちゃんはどこにも行かないと言って、必死にしがみつく僕を宥めるように、頭を押し付ける力を強くした。燐音ちゃんの胸が、息ができないくらい顔に密着して、いっそこのまま窒息してしまえたら幸せなのかもしれない。そんな馬鹿なことを想像して、泣きながら少し笑った。
 どうしようもなかった。