天国より野蛮


 こはくは波打ち際を歩いていた。
 五月晴れを映し込んだ穏やかな海が広がっている。
 スタッフの声が聞こえる範囲でなら、自分の番まで好きなところに居て良いと、プロデューサーに言われていた。撮影前なのでセットした髪もメイクも崩すわけにはいかないし、漂着物で足を傷つけないためサンダルは脱がないよう言われている。殆ど何もするなと言われている風情だったけれど、濡れた柔らかな砂を踏みしめたり、見たこともない貝殻を拾ったり、次々と襲いくる波に蟹が必死にもがきながら転げていくのを、ハラハラと見守るのも楽しかった。波は単調なリズムを重ねて、ざあんざあんと行ったり来たりしている。世界から風がなくならない限り、この音は止むことがないらしい。撮影後は自由時間にして良いとも聞いていたので、いけないこととは知りつつも、こはくは今日の撮影が、少しでも早く終わることを期待していた。

 首都圏から程近い離島を訪れていた。Crazy:Bにグラビア兼バラエティ番組の撮影が入ったのだ。四人揃って長い時間共にするのは、SSで遠征した関西のライブ以来だろうか。去年の夏から秋にかけては時間が有り余っていたから無駄に固まって過ごすこともあったが、冬以降は誰かしらが別仕事で欠けていることも多かった。
 はじめは先に撮影が組まれていた燐音とニキのツーショットを見学していた。
 こはくは己の経験不足に自覚があるので、他人の撮影は可能な限り立ちあうようにしている。
 視線の先では、普段うるさいだけの年長二人がポーズや表情をくるくる変えてカメラマンの要求に応えていた。水着の撮影ということもあって、媚びた視線で甘えるような、色っぽい仕草をレンズに向けている二人というのは、同性で常態の二人に馴染んだこはくとしてはむず痒い。
 何でわしがはずかしがっとんねん、とひとり突っ込んでみても、何か変わるものでもなかった。データのチェックや小道具の変更などスタッフが行き交うちょっとの間に、ポーズを解いて指示を待っていた燐音と目があう。撮影の邪魔にならない位置で座り込んでいるこはくに「変な顔」と口だけ動かしてニヤリと笑う。なんじゃ、とこはくは少しむっとしたが、自分が今どんな顔をしているのかわからないので、ふいと顔を背けた。
 そのまま立ち上がって、パラソルの下に置かれたパソコン機材の方へ向かう。たった今撮ったものが送られて、大映しにされているのを後ろから覗き見た。拡大された画像と、沢山の二人が並んだサムネイルで画面が別れている。こはくにはどれも良さそうに見えるが、「別パタ撮っとこうか」なんて、アシスタントとカメラマンが話しているので、二人の撮影はもうしばらく続くらしい。これが一度や二度ではなく四度目の確認なので、とてもめずらしいことだった。
 燐音とニキのツーショットが長引くなんて。
「なんや二人とも、調子悪そうやね」
「そのようですね」
「わ、びっくりした。見てたん?」
「HiMERUは今来たところなので、撮影のことはわかりません」
 ただ、朝から普段の三割増し鬱陶しかったのです。
 いつの間にか背後に立っていたHiMERUが煩わしそうな表情をして、ライティングされている二人を見た。こはくもまた二人に視線を戻しながら、今朝の様子を回想する。

 待ち合わせ場所には燐音が一番に待っていた。二番目に到着したこはくは、「時間前に来てえらいでちゅね〜」などと挨拶も早々、湯たんぽ扱いで燐音に抱きこまれた。
 振り払っても良かったのだが、早朝の空気はしんと冷えていたので、こはく自身も暖も取れるしまあいいかとされるがままになっていた。そのあと道すがら合流したらしいHiMERUとニキがやってきて、解放されるかと思いきやそのまま頭上で世間話がはじまってしまったので、目の前のHiMERUに抱き着くようにして燐音から逃れた。
 わざとらしく「ひどい! 冷たい! こはくちゃんの薄情者ォ〜」と泣き真似をした燐音は、「しゃあねーからニキで我慢するっしょ」と今度はニキにくっついていた。全体重かけられたニキが「重い! 骨当たって痛い! 潰れる!」とぎゃあぎゃあ騒ぎ、HiMERUはこはくを抱きとめながら「朝から元気ですね」と呆れていた。

(——三割り増しかどうかは知らんけど、まあ朝の割にはうるさかったなぁ)
 やれやれと少し呆れた気分になって、いまだ撮影が続く二人を見やる。
 燐音が肌を露出する撮影を嫌っていると、こはくが気付いたのはごく最近だった。ユニットの人気があがって、単体ではなく四人セットでそういう媒体に呼ばれたり、季節が一周して夏が近づき、その手の企画が多くなってから知ったことだ。春先にDoubleFaceでグラビアをはじめて引き受けたときも、あまりいい顔をしなかった。それはこはくのことを子供扱いしているためだと思っていたが、実際それもあるようだけれど、恐らくそれに類する撮影全般が好きではないのだろう。仕事を断ったり、手を抜いたりということはないから、割り切っているには違いない。脱ぎっぷりは良いし、こはくにはどうしたって求められないような際どいポーズも平気で熟す。つい先日も、寮の共有スペースに置いてあった雑誌に燐音のグラビアが載っていて、藍良や一彩と共にわぁわぁ顔を覆いながら捲ったばかりだ。
 以前スタジオで、ユニット単位のランジェリー撮影があったが、「なるほどあれがオカズっちやつやね」と呟いたら、背後に居たHiMERUが焦ったようにこはくの口元を覆った。塞がれたまま口をむぐむぐと動かして、「何やの?」と振り向けば、「アイドルとして、言葉は選ぶべきなのです」と注意された。そのときは「せやね、気ぃ付けるわ」と口では言ったけれど、こはくとしては努めてやわらかく表現したつもりだったので、つまりこういう話はするなということだろうと解釈した。
 しかしまあ、そういう意図で撮影されてるのだろうし、とおもいつつ、だからこの場で云えることは、「寒そう」「調子悪そう」「海きれいやなぁ」くらいのものである。
 余計なことを云ってまた怒られるのも嫌だったので、「ちょっとそこらへん見てくるわ」とその場を離れた。「HiMERUはんも行く?」と聞いてはみたが、HiMERUは少し困ったように微笑んで「交代しそうになったら声をかけますね」と手を振った。べつにえぇよと、こはくも手を振った。無駄に歩き回って日焼けをしたくないのだろう。パーカーを羽織っただけのこはくと違い、HiMERUはパーカーの前をしっかり閉めて、さらに日傘を差している。水着になる前には全裸で身体の隅々まで日焼け止めを塗りこんでいた。HiMERUは着替えのとき誰よりも躊躇いなく裸になるので、そのたびこはくたちの方がどぎまぎとしてしまう。
(HiMERUちゃん! 脱ぐ前に一言言って欲しいっす!)(せめて影になるとこで脱げって!)(HiMERUはん、もうちっと恥じらいってもん持った方が良ぇよ?)
 周りが狼狽えてもどこ吹く風、隠すものなどありませんと言わんばかりなので、いまだに小言を言うのは燐音くらいのものだ。
 慣れっちやつは、おそろしなぁ。
 ソロ時代の早着替えが癖になっているとは本人の弁だが、こはくは密かに露出狂ではと疑っている。

 しばらく海岸線を歩くと岩場に行き当たった。その先には木々が生い茂っていて、山の入り口になっている。手前の小さな岩を足場に乗り上げて、今朝がた船で渡ってきた方角にうっすら小さく見える本土に目を細めた。そのまま視線をずらして今来たばかりの砂浜を見やると、自分の足跡や、燐音たちが撮影している人垣、こはくが居なくなったあと、さっさと休憩用のパラソルに避難したらしいHiMERUの姿まで一望できた。ふうと息を吐いて、海に接している岩の端に腰掛けた。此処なら何かあればすぐ対応できるだろう。
 足先が触れるか触れないかのところを波が寄せては返し、泡をいくつも生んで底に丸い影を落としていた。潮騒とまぶしすぎる光の中で、意識は膨張して白々としている。限りのない場所に居るのだとおもった。それだけで、心がはずむ。おどる。そわそわと落ち着かなくて、頭のどこかがぼうっと鈍っている。一心地ついたところでパーカー越しに皮膚をかりかりと掻く。掻きながらはっとして、跡になってはいけないと意識的にやめる。職業柄、日焼け止めを塗る習慣はつけたが、薄皮一枚増えたような奇妙な心地は、こはくがあまり好むものではなかった。
「桜河さん」
 ふいに声をかけられてびくりと肩を揺らす。
(あかん、落ちそうになった……)
 ずるりと足の裏に感触があって、あっと思ったときには手遅れだった。下を覗くと滑り落ちたサンダルの片方が、水面にぷかぷかと浮いていた。あー、と口を開けて呆然としている間にも、波に揺られて徐々に遠ざかっていく。拾わなくてはと手を伸ばしたが、一度降りなければ届きそうにない。
 その場で回収するのはあきらめて、声のした方に向き直る。「ああ、すみません!」と謝罪しながら若い男が愛想良く笑って、山の方から歩いてくる。スタッフの誰かだろうか。グラビア班とは顔を合わせたはずなので、バラエティ班の誰かか、宿泊先のスタッフだろう。
「あちらでディレクターが探してましたよ。明日の撮影のことで話があるみたいで」
「ああ、すみません。今行きます」
 示されたのは森の方で、おかしいなと首を傾げる。今日の段取りでは、海での撮影を一通り行うということだったから、明日のスタッフと今日撮影しているスタッフはまったく別のはずだ。
(事前の確認か、それともどっきりっちやつやろか)
 不審におもいつつ、こはくの立場では無視はできない。とりあえず着いて行こうと立ち上がったところで、「こはくちゃーん」と反対側から声がした。ああ、燐音だ。少し離れたところから手を振っている。撮影は終わったのだろうか。あたりを見回すと、少し離れたところでニキとHiMERUの撮影が始まっていた。こはくも戻った方が良いのだろうか。その前に、ひとまずサンダルを拾わなければならない。
「すみません、ちょっと待っとってください」と断り、岩場を一度降りる。
 パーカーを脱いで適当に乾いたところにかけ、ざぶざぶと海に入っていく。時期が早いのか、海水は冷たい。流されたサンダルをやっと掴む頃には、それほど岸から離れたわけでもないのに胸元まで濡れてしまった。
 怒られるだろうか。乾かした方が良いならドライヤーを借りるか、替えの水着を借りに行かなければならない。風が吹いて、ひとつ身震いをした。早く砂浜に戻ろうと思ったところで、真横を何かが過ぎった。空よりも海よりも青い、なにかだった。寒さも忘れて、青いそれが飛んでいった方を熱心に見つめていると、ざぶざぶと背後から水をかき分ける音が迫ってきた。振り返ると燐音がすぐそこにいて、ゆるくこはくの腕を引く。
「なァにやってんの」
「今の、なんやろ」
「鳥だな」
「綺麗やったわ」
「岩のあいだに巣があんじゃね?」
 へぇ、と岩場にまた視線を移す。すると燐音が指摘した通り、続けて一羽、また一羽と岩と岩の隙間に吸い込まれるように消えていった。動かないこはくに、燐音がもう一度腕を引いて促す。先ほどより少しだけ強いそれに、再びこはくは振り返る。
「身体冷やす前に上がるぞ。まだ海水浴って時期じゃねーし」
「わしなんや呼ばれてるらしんやけど、燐音はん何か用?」
「は? そうなの? のんびりしてんなよ。上がるぞ」
「うん」
 海から上がってパーカーを回収し、元居た岩場へ戻るとそこに人は既に居なかった。
「忙しかったんやろか。悪いことしたなぁ。はよ行かな」
 こはくが山に向かおうと踏み出すと、燐音が「待て」と遮った。
 何? と燐音の顔を窺うと、何やら思案気に山奥を睨んでいる。不機嫌そうな顔だった。
「こはくちゃん、それどんなやつだった?」
「スタッフの人やおもうで? あっちでわしのこと探しとる言うて」
「今日は海で撮影ってことしか聞いてねえよ。サバイバルの撮影は明日。今行ったら番組の仕込み見ちまうっしょ」
「せやけど」
「テレビ局側の人間とグラビア班、別々に来ただろ? 顔全員と合わせてねぇし、知らないやつに着いて行く前に知ってる奴に声かけろ」
「……嘘やったってこと?」
「マジだったらまた呼びに来るだろ」
「さよけ。燐音はんも気ぃつけや」
「は? いや、何でだよ」
 じっと見上げると、燐音は不可解そうな顔をした。
 話聞いてたか? お前に言ってんだけど? そんな顔だ。
「せやかて、なんや調子悪そうやないの。この島なんかあるんか?」
「何でそうおもうの」
「その言い方、何かあるんやね」
「何もねーよ。お前らが良い子にしてりゃ、燐音ちゃん的にはそれでいーの」
(……ほんま、調子悪そうやね)
 燐音が良い子にしてろなんて言うときは、大抵自身に余裕がないときだ。博打ばかり打っていた昨年、果たして余裕があったかといえばそんなことはないだろうけど、燐音のやり方は派手だし、実際行き当たりばったりなことも多々あるが、ここぞというときは用意周到で狡猾だった。勝算がなければ乗らないという慎重さも持っている。その燐音が大人しくしてろということは、勝ち目が見えないか、割に合わないか、先が読めないか。いずれにせよ、燐音自身が全く気乗りしないということに他ならない。
「なんやできること、ある?」
「目の届かないとこに行かないこと。知らない人に着いて行かないこと。身体冷やさないで待ってること?」
「わ、悪かったわ。別にそんな離れてないやろ」
「クソ真面目に見てる必要もねェーけどな。行きたいとこあんなら後で付き合ってやるから声かけろ」
「ほんま?」
 こはくが目を輝かせるので、燐音は苦笑する。「あんまはしゃぐなよォー」と燐音が云うので、こはくは口元だけで笑う。燐音はもう前を向いているので、それには気付かない。こういう距離がいちばん落ち着くと、燐音に断りなく、こはくは勝手にひとりになる。
 そうしてこはくの中だけで矛盾なく、燐音のことを思いやる。
(それなら燐音はんは一人にならんね)
 精彩を欠いた燐音を、あまり放っておきたくない。
 弱っている人間に、この世は優しくはないから。
 こはくは握られた手を、もう一度つよく握りなおす。振り返る燐音に「楽しみやねぇ」と、なるべく屈託ない笑みで応える。燐音は呆れたように笑って、「そうだなァ」と間延びする声で返事をした。子供のことがわからない大人が、よくする仕草だった。それからゆるく手を引かれる。どこまでも優しく程良く、甘やかされていると、こはくが感じるときだった。
 燐音とは、何故だかいつも手を繋いでいるように思う。これはこはくではなく、燐音の癖なのだろう。それを受けとるこはくは、繋がれたものをうまく解けないから、結局いつも、燐音が手を離すまで大人しく繋がれている。大人しく、良い子にしている。
 ——どこへ行くつもりもないのになぁ。
 触れあったところで籠る熱を互いの掌で閉じ込めながら、こはくは目を細める。仮にどこかへ連れていかれたとして、必ず戻ってくるつもりだった。戻らないのも行方をくらますのも、いつだって燐音の方だ。だから繋いでおいてやるのだと、こはくは丸きり子供の理屈で、引かれる手をそのままにしている。





 荒い息遣いと、衣擦れの音、それから、ばさりっと、空を切る音。
 そのあとしんと静かになったので、音の主は寝直したのだろうと、HiMERUは判断した。寝苦しい季節でもないのに、おかしなことだ。居室をともにするどちらかが、ただ寝相が悪いだけだったのか。まあどうでもいいか。HiMERUはしばらくうとうとしていたが、もう一度意識が沈みきるわずか手前、小さく扉の開閉音が聴こえて、殆ど無意識に舌打ちをした。
 なるべく音をたてないように起き上がると、並べて敷いた布団のひとつが空になっている。
 気付かなかったふりをして寝直してしまおうか。思ったのも束の間、「HiMERUはん、お願いがあるんやけど」と、今この部屋には不在の、あざとくも可愛らしい末っ子の頼み事が脳裏を過ぎる。しばしの逡巡をおいて、結局HiMERUは、傍迷惑な深夜徘徊に付き合うことにした。
 それほど時間を空けたとは思わなかったが、既に廊下に人の気配はなく、わずかに焦燥を感じた。寝起きの時間感覚は曖昧で頼りない。ふむ、と行きそうな場所を思案して、ひと先ず外出の確認をするために玄関へ向かった。すると整頓されているはずの備え付けのサンダルが不自然に一つ欠けていたので、屋内を探す手間が省けた。問題は外のどこにいるかだが、玄関を出て辺りを見渡せばビーチに向かう階段を下っていく人影が見えた。
 ——居た。
 腹立たしいような呆れたような気持ちで、HiMERUはそのあとを追った。

 サンダルと足裏の隙間に歩くたび砂が入り込んで不快だ。いっそのこと素足で歩いた方が気持ちいいだろうが明日もロケだ。夜道で変なものを踏んで怪我でもしたらとおもうとその気も失せる。波打ち際には遠い砂以外何もないようなところに燐音は体育座りで大人しくしていた。座高が低いからか、普段の大ぶりな仕草がなりを潜めるからか、座った燐音は何だか小さい。沈み込む足を雑に払いながら近づいていくと、それなりに距離のある段階で振り返り、暗がりでもわかるほど動揺した顔でHiMERUを見た。
「げっ 何、着いてきたの?」
「あなたを一人にしないようにと桜河に頼まれたので」
「きゃはは! 燐音ちゃんのこと何だとおもってンのよ」
 こはくは急な仕事が入り、本土に一度戻ってまた翌朝に合流することになった。関東からアクセスの良い離島なので、そういう強行なスケジュールも組まれる。日中、物珍しげに海岸をうろついていた少女を思い出す。撮影が終わったら島の周りを見て回るのだと言っていたけれど、丁度撤収作業が始まったころにパラパラと羽音を立てながらES専用ヘリがやってきて、中から飛び出してきた斑に高笑いとともに連行されていった。その場にいた誰もが不憫そうに見送って、こはく自身、もう何も言うまいという面持ちで「ほな、また明日なぁ」と手を振った。ドナドナだった。子牛ではないが。どちらかといえば、牛を一人で食い止める子供だ。あの小柄な身体のどこにそんなパワーがあるのだろうと、HiMERUは真剣に謎におもっている。ニキの胃袋と同じくらい謎だ。
「心配させるような仕事をするからでしょう。自業自得です」
「仕事はきっちりやったっしょ⁈」
「あなたはね。でもあなたの不調に引き摺られて椎名がミスを連発しました」
「言い掛かり! 理不尽!」
 こはくちゃんナマイキ〜メルメル過保護〜毒親〜とふざけた口調で適当に続ける様子に、HiMERUは閉口する。こはくに頼まれなかったら無視していたものを。
 ——あんなぁHiMERUはん、お願いがあるんやけど。
 大きな瞳を不安げに揺らして上目遣いで強請るこはくは、HiMERUに頼みごとをするため完璧に装っていて、それはそれは忌々しくも愛らしかった。
「良いじゃないですか。いつも暴虐の限りを尽くしてるんですから」
「エェー……納得いかないンですけどォ……」
 口を尖らせて不満をあらわにする燐音は、とはいえ心当たりはあるのか、強く反論する気はなさそうだ。
 ニキの個撮やツーショットが押すなんて珍しいことだった。四人の中で一番と云っていいくらいこのような撮影は慣れているし、相手をリラックスさせるのもうまいので、彼女の撮影はだれよりも恙無く終わる。
 だからだろうか、本人もうまくいかないことに焦りと苛立ちをおぼえるようで、普段より間食を余計に繰り返した結果、腹を膨らませてしまい、ポーズが限定されてしまった。ボディラインを隠す小道具を使ったり、撮影の順番を変えたりと現場は終始ばたばたとしていた。明日の番組企画はそれなりに覚悟していたが、まさか前日の撮影が日没直前まで粘ることになるとは、というのが本音だった。
 何をやってもうまくいかないニキが半泣きになって謝罪を繰り返すのも、燐音が苦笑しながらフォローに回ってスタッフといつも以上にコミュニケーションを測るのも、恐らく早く終わることを期待していたこはくが諦めの顔でそれを眺めているのも、何だかすべて気の毒だった。
「……はぁ。まあ良いでしょう。早く部屋に戻りましょう。明日は体力勝負ですよ」
「わァーってるよ」
 先に帰れと手を振られるのを無視して隣に座りこむ。
「オイ」
「推理しても良いんですけど、暴かれたくは無さそうですし、どうしましょうね」
「やめて。まじやめて」
「ですよね。椎名にも話してなさそうですし」
「そんなことわかんの」
「きちんと話していることなら彼女は取り乱さないでしょう。だから、解決してないんだろうなと」
 お伺いを立てるように横顔を覗くと、苦虫を嚙み潰したように歪むので、HiMERUは少し愉快になる。やり合うと丸め込まれることが多いので、明らかに分があるのは気味が良いものだった。
「此処に嫌な思い出でも?」
「……まぁそんなとこ」
「——ふぅん」
 喜色は抑えていたつもりが、「愉しそォね」なんて拗ねた声で咎められて、仕方がないから声に出して笑ってやった。燐音は本格的に拗ねて、「あーヤダヤダ。見んなよ」と、顔を腕で隠してしまう。見るなと言われたので、HiMERUは景色に視線を移した。
 穏やかな海だった。天候も味方して、都会では見られないような星が無数に見えた。折角夜更かししているのだから勿体ないとしばらく見上げていると、急に風が吹いて知らず肩がふるりと震えた。夜風はまだ冷たくて、暖をとろうと気まぐれに燐音の肩に凭れる。密着すると、一瞬人肌がひやりとして、次第に熱が籠もっていく。
「え、めずらし。何」
「寒くないですか」
「戻れよ」
「ほら、星が綺麗ですよ。わざわざ寒い思いしてるんです。見ないと損します」
「寒いなら部屋で布団入ってりゃいいっしょ」
「風邪を引いたら燐音のせいです。椎名と桜河に告げ口します」
「………………あーーっ 戻る! もどりますぅ〜」
「ふふ、よろしい」
 まだ面白くなさそうな顔をしている燐音が急に立ち上がるので、HiMERUはバランスを崩して砂浜に倒れ込みそうになった。待って待ってと脚にしがみついて何とか堪えると「きゃはは! メルメル間抜け〜」と笑われてむっとした。ほら、と差し出された手を取るふりをして、後ろに転がるようにして思い切り引くと、わっと声がして燐音が倒れ込んでくる。
「っ……おまえさァ、」
「ふふ、あはは、間抜けですね」
 HiMERUの足を自分の膝で踏みつけないように、燐音は横に倒れて思い切り砂を被った。運動神経の無駄遣い。ばかみたいだ。もうとっくに風呂も済ませているのに。
「なァ、帰るんじゃないの?」
「帰りますよ」
 今度はHiMERUから手を差し出して、燐音を促す。やり返されるかと少し警戒したが、きりがないのでやらないだろうと思い直した。予想通り素直に立ち上がった燐音が、HiMERUの背中に腕を回して後ろに倒れたときについた砂を払おうとする。お返しに、HiMERUも燐音の砂を払ってやる。ぱんぱんと叩きながら、自分で自分の砂を払えばよいのではないかと気付いた。おかしくなって、またふふっと笑ってしまう。燐音も同じことを考えたようで、笑ってHiMERUから一歩離れて、自分の身体を払いはじめた。HiMERUもそれに倣う。
「風呂入ったのにさァ、ひょっとして馬鹿なの?」
「あなただって」
「誰のせいだよ」
「燐音」
「ヘイヘイ、全部燐音ちゃんが悪うございましたァ〜」
 そこで波の音に、パラパラとどこからか羽音が混ざった。
 こはくが帰ってきたのだろうか。燐音も音に気付いて、辺りを探るように目を細めた。もし帰ってきたのなら、一緒に連れて帰りたいのだろう。夜道を一人で歩くのは危険だ。それだからHiMERUも燐音を追ってきたのだ。
(HiMERUもそう思います——けど、)
 あなた、変ですね。いつも自分のためにしか生きてないふうに振る舞う癖に。
「——他人事ばかりですね」
「あ?」
「別に」
 HiMERUは燐音が特段やさしい人間ではないと知っている。
 案外優しく、意外と面倒見が良いだけだ。食い違うから良く見えるだけで、平均化したら人間性はマイナスだろう。貪欲で自分本位で、ずる賢い大人の女だ。人間なんて多かれ少なかれ皆そうだから、それに幻滅したこともないだけだった。
 やりたいからやっているし、してほしいからしているし、与えられたから与えている。
 役割は都度持ち回りで入れ替わる。そしてすべては自己満足だ。頼まれたわけでもないのだしと、HiMERUはその点においては割り切っている。一方通行で構わないとおもっている。
 対してHiMERUの目に映る燐音は、報いるために犠牲も奉仕も厭わない人間だが、結果がともなわないことを割り切るでもなく、この世のあらゆる不条理に怒りと憎しみを煮詰めている。裏切ったことも、裏切られたことも忘れない。そういう人間は面倒で、生物としての矛盾に苛々するから苦手だった。嫌な人間を思い出しそうだ、と思った。もう思い出しているくせに、と、誰かの声もする。最近では滅多に聞こえなくなってしまった懐かしい姉の声だ。大丈夫。『私』はまだ、だいじょうぶ。
 感傷が胸の隅々に満ちて馴染むまで、HiMERUは努めて笑顔でいた。燐音がため込んだ心の澱が伝染して、笑顔でいないと何か余計なことを言ってしまいそうだった。こはくの気配を探る横顔を眺めながら、これと同じものを抱えるのは死んでも嫌だなとおもう。運命共同体ではあるのだけれど、そういう、依存のような関係は燐音も望まないだろう。
(そういうことは、椎名に任せておけば良いのです)
 この島には、HiMERUもソロ時代に何度か訪れていた。首都圏からアクセスの良い離島は限られているから、ロケ地が被るのはよくあることだった。日帰りの撮影が多く、顔馴染みのスタッフとばかりだったので問題が起きたことはなかった。ただ、この島を好んで使う上の人間に、よくない噂を聞いたことはあった。番組を私物化しているとか、若いアイドルを食い物にしているとか、笑えないドッキリをしかけてトラウマレベルでタレントを追い込む、だとか。
 そしてその噂があるディレクターは、明日の番組の企画書にも名が連なっている人物だ。日中、こはくが一人になったタイミングで、番組のスタッフに呼び出されたらしい。燐音が合流したときにはスタッフは消えており、その後もう一度呼ばれることはなかった。用事なくなっただけなんちゃう? と首を傾げるこはくの頭を小突いて、燐音はなるべく、顔を知っている人間と行動するように厳命した。情報を組み立てていけば、仔細がわからなくとも大要を察することはできた。
「——ねぇ、天城」
「ンあ? 呼び方、急に戻さないでよ」
「あなただって人のことふざけた名前で呼ぶ癖に」
「ハイハイ、なァにHiMERUちゃん」
 本土から直進してきたヘリは二人の頭上を越えて、そのまま島の裏側へ旋回していく。宿泊施設はこちらの海岸が近いので、乗っていたのはこはくではなさそうだ。大方追加の資材でも運ばれてきたのだろう。
「一度しか言いませんけど」
「うん?」
「あなたのそういうところ、鬱陶しいなって思いますし、面倒に感じることも多いですけど、数少ない美点だとも理解しています」
「え、何が? つーか燐音ちゃんの美点そんな少ない? もっとあるっしょ?」
「真面目に聞いてください」
「ヤダ」
「照れなくて良いですよ」
「照れてねー急にデレられて薄ら寒いだけですゥー」
「そうですね。変なこと言いました。忘れてください」
「意味わかんねーよお前」

 砂だらけで借り物の布団に寝るわけにもいかないので、フロントでタオルとバスセットを借りて、外付けの簡易シャワーで砂を落とした。足音を抑えて部屋に戻ると、眠っていたニキが突然起き上がったので、おもわず「ひっ」とどちらともなく声を上げてしまう。
「し、椎名……?」
「……脅かすなっつの」
「うぅ〜……二人とも、こんな時間に、どこ行ってたんすかぁ……?」
 ニキが目をごしごしとさすりながら唸るように詰るので、HiMERUと燐音は顔を見合わせた。憤るニキの身体を布団に倒し、左右で挟んで寝かしつけのようなことをはじめる。
「むぅ……何すかぁ、ふたりとも……」
「明日も早いですから、もう寝ましょう」
「……夜のお散歩……楽しかったすかぁ?」
「あー楽しかった楽しかった」
 殆ど寝言のような声でニキがたずねるのに、燐音がはいはいと笑いながら応える。寝言にこたえて良いのだろうか。HiMERUは、ニキの肩でとんとんとリズムを取りながら、早くも訪れた睡魔に小さくあくびをかみ殺す。
 燐音が「メルメルの貴重なデレも聞けたしィ?」などと続けるので、ニキから一度手を離し、燐音の頭を加減なく叩いた。イテ、と声をあげるのを無視して、またニキの肩をとんとんと叩く。
 ニキは両側からあやされ、最初は訝し気だったはずが、次第に機嫌を直したようにふにゃふにゃと笑った。それから「良かったねぇ燐音ちゃん」とだけ言い残して、すぅすぅ寝息を立て始めた。
 いや全然よくねェっしょ。暴力振るわれてンだけど。燐音がぼやく声をおぼろげに聞きながら、HiMERUも徐に力を抜いて、ニキの肩口に頭を預けた。リズムをとる場所は肩から二の腕に下がり、瞬きの回数が増え、次第に目が開かなくなる。
 「寝るならちゃんと布団戻れ」という誰かの声も、やはり眠そうにぼやけていた。無理、もう動けない。甘えたことを最後、思ったのか、言ったのか、定かではなかった。
 やっと一日が終わる。

 明け方、寝苦しさにHiMERUが目を覚ますと、いつの間にか帰っていたこはくが、背中にぴったりとくっついて眠っていた。目の前にはニキが、その向こうには燐音が寝ていて、布団は三枚並べて敷いてあるのに、一枚半ほどのスペースにぎゅうぎゅうに固まっているのが不思議だった。
 何故だろう。何でだっけ。しかしこのままだと、少し苦しい。
 かけ布団も半端に被っていて、脚が少し寒かった。部屋の時計を確認すると、収録時間まではまだ三時間ほどあった。布団と布団の狭間で寝ているこはくを、ごろりと後ろに転がして、もう一つの布団の方へ乗せる。そこへHiMERUも一緒に寝転がった。元々この布団がHiMERUの寝床だ。こはく用の布団を改めて敷いても良いのだけど、押し入れ側には燐音が寝ているので出しづらい。四人で固まっているよりはましだろう。向き合うような形で薄い身体を抱き込むと、寝ぼけ顔のこはくと目が合う。
「——おかえりなさい、桜河」
 薄く目を開いたこはくが微かに笑って、「何や、仲良しやね」と、むにゃむにゃ不明瞭に口を動かす。HiMERUは適当に、「そうですね」と相槌を打って、また目を瞑った。嗅ぎ慣れたこはくの匂いがする。覚醒を待たず、睡魔がとっぷりと全身に満ちていく。
 夢か現か、「もう何も心配せんでええから、安心してなぁ」と、そんな穏やかな声を聞いた。

 次に意識が浮上したのは、燐音が部屋の入口でスタッフと話し込んでいる声を聞きながらだった。
 HiMERUが身体を起こすと、ニキが隣の布団の上で着替えをしている最中だった。
「おはよ〜HiMERUちゃん」とゆったりと微笑むニキは、すっかりいつも通りで、「お腹すいたっす〜」と云いながら、大きなあくびをしている。「——おはようございます」とHiMERUも擦れた声でそれに応える。目を開けたり閉じたり、しばらくぼんやりしていると、「あっ」と小さく声が上がって、「収録午後からになるみたいっすよぉ」と続く。
「はぁ……?」
「なんかね。失踪しちゃったんだって、ディレクターさんと、現場のスタッフさん、あと宿のバイトの子? 三人」
「失踪……?」
 ああ、それで燐音は話し込んでいるのか。
「うん。夜のうちに居なくなっちゃったって。だからちょっと段取り悪いみたいっす。もしかしたら別日か明日まで延長になるかもって」
「なんでまた」
「さぁ?」
 ぽつりぽつり寝ぼけながらも雑談していると、少しずつ意識がはっきりしていく。
 ニキがちらりとHiMERUの後ろに目をやって、「こはくちゃん、いつ帰ってきたんすかね?」と首を傾げる。
「明け方には帰ってましたよ」
「ふぅん。良く寝てるっすね」
「そうですね」
 こはくはHiMERUの寝間着の袖をきゅっと握ったまま、枕に半分顔を押し付けるようにして眠っていた。腕を少し持ち上げて動かしてみても手が離れる気配はない。
(——かわいい。でも、どうしよう。顔洗いに行きたいんだけどな)
 仕方なく掴まれていない方の手でボタンを器用に外していく。HiMERUの様子を、ニキは苦笑しながら眺めていた。そっと袖から腕を抜いて、下着のまま洗面台に向かうと、扉を閉めて振り返った燐音が「げっ」と失礼な反応をする。「素っ裸でうろうろすんなって云ってんだろ」と小言が続くのを遮って「おはようございます。延びたんですって?」と話を変えた。
「おう。午前中は自由時間」
「おかしな話ですね」
「……そォね」
 燐音が面白く無さそうな顔をしているのを放って、今度こそHiMERUは洗面台に向かった。
 着替えを終えたニキが立ち上がって、「朝ごはん何かなぁ」とお腹のあたりをさすっている。きゅるきゅると悲壮感をあおる音を立てているので、そろそろ限界のようだ。腹具合はさておき、それでもニキは、昨日と打って変わって晴れやかな顔をしていた。
「腹の虫黙らせろニキ。うるせェ」
「ひどっ でもまぁ、時間遅くなって良かったっすね〜」
 ニキが腹に手を当てたまま燐音に笑いかける。眠るこはくに気を遣って、いまだ声をひそめているようだが、依然として腹は鳴りっぱなしだ。燐音は何か言いたげにそれを見つめ、しかしニキには何も言わず、こはくの枕元に立って鼻をつまんだ。
「コイツ、いつ帰ってきたんだよ」
「さあ? ていうかもう! 起こしちゃだめっすよ〜」
「起きねーっしょ。爆睡じゃん」
 鼻をつままれているというのに、こはくの寝顔は安らかで、そこはかとなく満足げに緩んでいる。