春の標本


「邪魔しないでください」
「いや、するっしょ。お前なにやってんの。馬鹿じゃねーの」
「HiMERU個人の問題です」
 腕を組んだ天城に背を向けて、HiMERUは楽屋の鏡の前で帰り支度をしていた。揉めた内容はHiMERUにとっては心底馬鹿馬鹿しいことで、しかし燐音にとっては至極真面目な話だった。
 これ以上の諍いを嫌って、HiMERUはなるべくが色を正して、抑えた声を出した。言葉の意味以上のことを、そこにどうしても乗せたくなかった。なんで今更、こんなことを言わなくてはならないのだろうとうんざりもしていた。最初から最後まで、そういう話だった。わかりきっていて、それなのにわからないのは天城だ。賢い彼女がわからないというのなら、それはわかる気がないということは明白で、価値観の違いとか、方向性の不一致とか、よくあるバンドの解散理由に似た、どうしようもない溝があるというだけだった。
 二人で受けた情報番組の、春のファッション特集というワンコーナーを撮り終わったあとのことだ。鏡越しに睨むように威圧する瞳が鬱陶しい。桜河か、椎名か、あるいは他の誰かが一緒なら、こんなことにはならなかった。
「違うね。お前さあ、今やってたこと、例えばこはくちゃんとかがやってたら、どう思うの」
「桜河は関係ありません」
「あんの。お前がそういうことすると、全員、そういうもんだと思われる」
「HiMERU個人への誘いですから、ユニットは関係ありません」
「それ『HiMERU』が受けても、お前個人の問題なの?」
「……うるさいな。立ち入り過ぎでは?」
 天城もまた、何故こんなことを言わなければならないのかという面持ちだった。HiMERUに負けず劣らずうんざりとしていて、口がへの字に曲がっている。状況としては、助けてもらったと言えなくもないので、礼を言うべきかも知れなかった。けれどHiMERUは、たかがこの程度で、としか思えないのだ。すこしべたべた触られて、舐めるように上から下まで見られて、あり得ないくらい近くで談笑していただけだった。気持ち悪いけれど、それだけのことだった。体液を交換したり、粘膜を触れ合わせたり、そういう生々しい接触ではなかったから、なんてことはないとおもっていた。
 それ以上を要求されたらどうするかと問われれば、躱せる限りは躱すつもりだと答える。七種と何かしら取引をして、事務所に守ってもらうことだってできるだろう。代償はまあ、面倒事を押し付けられるかもしれないが、自社タレントが天城の言うところの『そういうもの』とされるのは御免だろうから、これに関して大して無茶ぶりされることもない。だからなにも、問題はないのに。見られてしまった光景があまりに間抜けだったために、終わったことを帰り支度の最中、ねちねちと詰問されている。
 ——ああ、早く帰りたい。早く帰って、姉の顔が見たい。
 こんなどうでもいい押し問答おわりにして。
「いいじゃないですか。童心にかえって、スカートの中に入りたいなんて、かくれんぼみたいなものでしょう」
「……なァ、言ってて馬鹿みてェーって思わね?」
「わかりました。わかりましたよ。七種に報告します。これで良いでしょう?」
 ——あーうるさいうるさい。今度は絶対見つからないところでやります。
 HiMERUは心中かたく誓った。天城はまだ何か言いたそうにしていたが、疾うに支度が終わっていた鞄を肩にかけて楽屋の出口へ向かう。
「お先に失礼します。お疲れ様でした」
「あ、オイ」
 背後から声が追ってくるのを無視して廊下に出る。
 エレベーターホールで階数ボタンを押して待っていると、いつ支度を済ませていたのか、天城に早くも追いつかれ肩を組まれた。重いと退けようとしたところで、チンッと扉が左右に開き、中から出てきたスタッフに見つかって「仲良しだねぇ」なんて笑われる。二人してにっこり笑顔を作って「お疲れ様です」と挨拶をする。それが終わると、天城の方がHiMERUから離れて、先にエレベーターに乗り込んだ。簡単に距離を詰めるわりに、ふれあいはどこまでも淡泊だった。HiMERUの方が先に待っていたのになんて、幼稚なことは考えるだけにとどめて後に続く。
「車で来てるからさァ、乗ってく?」
「駅までで」
「マンションまででも良いのにィ」
「駅までで」
「ヘイヘイ」
 この女のこういうところが苦手だ。それから天城は、地上に着くまで黙って前を向いていた。HiMERUは、操作パネルの前でやや重心を右に傾けて立つ長身を視界に収めて、苦く腐ったような気持ちになる。
 ほんとうは誰よりも潔癖なのだろうと、言動の端々から伝わってくる。きっとまだ、何かに染まったり、汚されることを大真面目に怖がっている。
 ——この世界長いだろうに、まだ正気を大事にしているなんて、かわいそう。
 ある種の羨望を無視して小馬鹿にしてやるのは、HiMERUなりの気遣いだった。



 楽屋でスカートの中に入れてほしいと男に言われたとき、春だなとおもった。頭のおかしいやつが増えて、空気がそぞめいて浮かれている。桜はまだ蕾だというのに、気の早いことだ。
「仕方がない人ですね」と苦笑して、どうぞ、と衣装の裾をすこしあげた。春らしい桜色をしたサテン素材の、ミモレ丈のスカートだった。男の形に盛り上がったレースの上で、小花の刺繍が踊っている。もぞもぞと男が動くたび、太ももを男の髪が撫でてくすぐったかった。
 (——一体なにが楽しいんでしょう)
 HiMERUにはまったく理解できない趣味だったが、減るものでもないしと好きにさせた。手持ち無沙汰にスマホを弄りながら時間を潰していると、やがて男は、今はじめて興味を持ちましたとばかりに、ショーツに鼻先か唇を当ててきた。流石にこれ以上はと制止しようとしたところで、丁度よく天城が帰ってきた。もう少し時間がかかるとおもっていたから、見られたのは誤算だった。入り口ですっと表情を失くした天城が、大股で一気にHiMERUたちのところまで距離を詰め「おい、おっさん何してんだ」と、殆ど反射みたいにスカートから無様に突き出ている尻を蹴り上げた。スカートの中でびくっと男が震え、顔面のどこかしらかが布越しに性器へ押し付けられて不快だった。キャストを一存で選べるそれなりの立場の人だったけれど、スカートから尻だけ出している状態では、なるほどただの不審者に違いない。天城は無言でスマートフォンを構え、不審者がスカートから這い出てくるまでを動画で撮影し、ばらまかれたくなかったら二度と変なことするなと釘を刺した。逃げるように出ていった男を見送ったあと、彼は果たして今後も『HiMERU』に良くしてくれるだろうかと、それだけが気になった。

「おかえり要。どうかしたの」
「ただいま。いいえ、なにも」
 明かりのついた部屋、あたたかな空気の中で、姉が寛いでいる。おかえり、と微笑んだ顔は、要の返答にむっと膨れっ面に変わる。
「うそ。疲れた顔してる」
「なんでもないよ、いつも通り」
「いつも通り、セクハラされた?」
「……なんでそうなる」
「要はわかりやすいよ」
 今日は調子が良いのか、『HiMERU』は自室のベッドではなく、リビングのソファに座っていた。おいで、とソファの座面を叩いて、要を呼ぶ。手洗いうがいを済ませて呼ばれたまま隣に座ると、ぎゅっと抱きしめられる。おかえりと言われて、ただいまと返す。こうして家に帰ってきて『HiMERU』に抱きしめられると、一日が終わったのだと実感する。
「セクハラとか、どうでもいい。そのあとの方が面倒だった」
「あはは、ばれちゃったんだ」
「ユニットのリーダーがそういうの嫌いなんだよ」
「いい人だね」
「まさか、あれが良い人だったら、世界の大半は良い人になる」
(性善説なんて、流行らないって)
(ただ免疫がないだけでしょう)
 すべて含ませた「まさか」だった。「まさか」とは思うけれど、仮に善人だったら、救いようがないなとおもった。世も末。かわいそうに。確かに、そんなことをたまにあれに対して感じたりするけれど。例えば今日とか。あの夏のときとか。かわいそうにね。しかしどれもこれも、要が勝手に憐れんでいるだけの、自身の感傷でしかないとおもっていた。
(それなのに、本当に? かわいそうなのか、あんた)
 正面切って聞いたら、あの女はどんな顔をするだろう。
 客を煽るときの挑発的な笑みや、不審者を蹴り上げたときに見せた怖いくらいの無表情が、脳裏を過っては消えた。残ったのは、呆れと憐れみを含んだ年長者としての憂慮の顔だった。要が一番つまらないと思う燐音の顔でもあった。
(ああ、鬱陶しい。今呆れているのも憐れんでいるのもこちらだ馬鹿)
 想像して、思わず鼻に皴が寄る。不毛だった。抱き合っているから顔なんて見えないはずなのに、『HiMERU』がくすくすと笑いだす。世の姉というものは、どうして一様に察しが良く、その割に無理解なのだろう。要の姉は、とても優しいので、わかり合えないことくらい、大した問題ではないけれど。
 そう、一方的で良いのだ。要が『HiMERU』を理解して全うすれば、それだけで良いのだから。目の前の『HiMERU』のことだけに意識を集中する。今は見えないけれど、顔色も良いし、元気そうで良かった。熱もなさそう。機嫌も良さそう。
 抱きあったままの『HiMERU』が肩口ですんすんと鼻を鳴らし「ちょっと、おじさんの匂いがする」と言うので慌てて腕から離れた。
「シャワー浴びてきます」
「お風呂あるから、ゆっくり入りなよ」
「そうします」
「うん」
 ソファから離れて、着替えを持って脱衣所へ向かう。要は構わないが、『HiMERU』におじさんの匂いが移るのは嫌だった。背後から、ねえ要と、『HiMERU』の声が追いかけてくる。さっさと脱いだ服を洗濯ネットに仕分けて、なぁに、と返事をする。あのさ、と脱衣所の前で徐々に近付いてきたスリッパの音がとまる。なんだか続きを聞きたくなかったので、あとでね、と言って、急いで浴室の戸を閉めた。シャワーを頭から浴びると水音以外は何も聞こえなくなる。それなのに、ガラス戸一枚向こう側にいるはずの『HiMERU』の声は、やけに鮮明に耳元で響くのだ。
「——ねえ、こんなこと、いつまで続けるつもり?」

 風呂から上がると、リビングの明かりは消えていた。言われた通りゆっくり湯舟に浸かって、身体をあたためて出てきたというのに。要はすこしさみしくて、凍えるような気持ちになった。ちゃんと返事をしなかったから、へそを曲げてしまったのかもしれない。『HiMERU』の部屋の前に立って、中の気配を探る。もう寝てしまっただろうか。ノックをして、もし眠っていたら? 起こしてしまうのは良くない。仕方なく、要はリビングに戻った。クローゼットから最近しまったばかりの冬用の毛布を取り出して、ソファに寝転がる。先ほどまで人が座っていたなんて信じられないくらい、起毛した布地はひんやりとしていた。暦の上では春だというのに、夜の空気は密度を増して、足先からひたひたと要を冷やした。
 全身に巻きつけるように毛布にくるまって、ふと、桜河を抱きしめたいなと、唐突におもった。叶うなら今すぐ、あのぽかぽかとしたあたたかな体を抱えて、穏やかで優しいだけの、他愛ないお喋りをしたかった。桜河との時間は『HiMERU』との思い出を、役割を変えてなぞるようで楽しかった。桜河は素直で、一生懸命で、かわいい。稚さを装った得体の知れなさも、たまに、か弱いものを守るようにしてHiMERUの前に立つ生意気さも、いじらしくて愛らしくて、できることなら何でもやってあげようという気になった。
 あくまで、HiMERUにできることなら、だけれど。
 妹ってあんな感じだろうか。『HiMERU』にとっての要って、あんな感じ、だったのかな。そこまで考えて、あれ? と要は首を傾げた。思い出? だった? おかしいな。
 だって、つい先ほどまで、『HiMERU』はここで、要を抱きしめていた筈だった。それなのに、何故。
 ああ、だめだ。うまく考えがまとまらない。
 眠いからだろうか。
 くるくる、くるくる、まわるまわる、から回る。
 今考えていることは、夢か、現実か。
 わたしはまだ起きているのか、HiMERUはまだ、起きているだろうか。
 ああ、そろそろ落ちると、要はおもった。
 ぷつりぷつりと、身体から意識が剥離していくのを感じる。暗闇に輪郭が溶けて、HiMERUがHiMERUではなくなっていく。深くに沈んでいく『私』は、あしたでいいやともおもった。あしたまた『HiMERU』と、さっきの話の続きをしよう。


*


「お前なにやってんの。馬鹿じゃねーの」
 天城が、無表情で吐き捨てた。同じようなことを、二週間前に言われたばかりだった。違うのは、場所が楽屋ではなく衣裳部屋だったり、べろべろと舐めまわされた口の周りが不快だったり、HiMERUが制服を着ていたり、連絡先が書かれた名刺を握らされていたり、男の姿は天城がきたときにはどこにもなかったり、いろいろだ。ユニットの仕事ではなく、天城と二人の仕事だったこと以外は、状況はすべて異なっていた。説明をしなくてはいけない。なにか言い訳を、釈明を。頭をまわす。くるくるめぐらす。それでも一向に、うまく天城を納得させられるだけの言葉が見つからなかった。頭の中が真っ白だった。混乱していた。なにをやっていたの、ばかじゃないの。それはすべてHiMERUが『HiMERU』に聞きたいことだった。

「HiMERUちゃんと、また仲良くしたいな」
 男はそう言って、HiMERUの肩に手を置いた。
 強引に衣裳部屋の隅へ連れ込まれ、布と布の狭間で背後から抱きしめられた。これでは廊下を通る人には気付いてもらえないだろう。男はHiMERUの耳元で囁く。ねぇ、いいでしょ? と言われても、HiMERUには何が良いのか、さっぱりわからなかった。湿った生温い息が首にかかって肌が粟立つ。せめて顔を男と反対に向けて、すこしでも距離を開けようとする。それ以上の拒絶は、今この段階で踏み切ることができない。
 この前スカートに潜った変態より、この男との付き合いは長かった。週刊誌と月刊誌の編集を二誌掛け持ちしていて、どちらとも売り上げがよく、できると評判の男だった。仕事も何度か一緒にしたし、HiMERUをよく褒めてくれて、カメラマンやデザイナーにも顔を繋いでくれた。
 役に立つ男だった。だからにっこり笑って「仲良くしてるじゃないですか」と言うと「そういうんじゃなくてさ」「わかるでしょ?」と立て続けに、焦れたように苛々と続ける。拘束が強くなって、痛みにおもわず呻く。わかるでしょ?って、なんだ。わからない。わかりたくないとおもった。それなのに、HiMERUの願いとは裏腹に、頭はいつも、よどみなくまわる。くるくるくるくる。
 ああ、そう、そういうこと。
 結論はすぐ出てしまったのに、いやだいやだ。わかりたくないと首を振る。子供のように駄々をこねて、いつもと反対に思考をぐちゃぐちゃにかき混ぜて、無理やり頭を混乱させていた。つまり『HiMERU』が、この男と。いやだ。そんなのは、いや。いやだけど、仕事だ。有能な人だと思っていた。権力者とまでは行かないけれど、社交的で、顔も広い。だから、拒絶するならうまくやらなくては。あとで『HiMERU』と話をしなくては。早く天城と合流しなくては。
 幾らでもすべきことがあるのに、もう何もしたくなかった。脱力した身体に、動け動けと脳が警鐘を鳴らしている。無防備に固まってしまったHiMERUに、男は覆い被さるように口付けた。咄嗟に上がった悲鳴ごと呑み込むように、唇と舌を強く吸われる。頭と腰を手で後ろから固定されて、腕を突っ張っても逃げられなかった。無遠慮に舌を入れられて歯列をなぞるようにかき回されると、スカートの中で足や性器を触られるより何倍も気持ち悪い。制服に手をかけられたところで、無理やり身体をねじって何とか留めた。煽ってはいけない。刺激してはいけない。努めて嫌悪が滲まないように。声を出そうと息を吸うと、他人の唾液の匂いが鼻を抜けて吐きそうになった。
「ここでは、だめ、です」
 途切れ途切れに何とか言うと、男はそれにも興奮した様子で「そうだよね」と笑った。それからHiMERUの手に「連絡ちょうだい」と名刺を一枚握らせて、衣裳部屋から出ていった。機嫌良く下手くそな鼻歌を歌いながら足音が離れていくのがおぞましかった。それから、HiMERUは床にへたり込んで、次に扉が開くまでのあいだ、ずっと口元を拭っていた。

「邪魔、しないでください」
「するって」
「邪魔しないで」
「報告するからな」
「やだ」
「オイ、いい加減に」
「もう嫌です……!」 
(——ねえ、こんなこといつまで続けるつもり?)

 気付くと『HiMERU』の腕が要の身体に巻き付いていた。
 『HiMERU』の腕が、そこにあるはずだった。
 『HiMERU』の声が、耳元で響いているからだ。
 さらに言えば、もっと近くで聞こえているような気さえした。
 例えば、耳の奥とか、頭の中とか。HiMERUの中の、どこからか。要の心の、どこからか。だって抱きしめられているはずなのに、こんなにも寒い。
 今は制服を着ているから、露出しているのなんて足くらいのもので、震えるほど寒いはずなんてないのに。
 まだ日も落ちていないのに。
 もう春なのに。

 燐音は『HiMERU』には気付いていないようだった。
 動こうとしないHiMERUに焦れてその場でしゃがみ、下から覗き込むようにして首を傾げている。HiMERUと目が合うと、天城は、意外なものを見たというように、口をぽかんと半開きにした。間抜けな顔だなとか、パンツ見えてるとか、揶揄しようとして、何故だか声が出なかった。ぐっと異音が喉のあたりで鳴って、熱が顔に集まるのがわかった。HiMERUが内側からせりあがる何かに動揺していると、天城はあの面白みのない年長者の顔になって、呆れたように口の端をあげた。長い指がぬっと伸びて、HiMERUの目元を拭うように接触する。
「やっぱヤなんじゃん」
 ——早く言えっての。
 左右の頬を、交互に指の腹で撫でられて、HiMERUは初めて、自分が泣いていることに気が付いた。気付いてしまうと止められなくて、目の淵から続けざまに水が溢れるのがわかった。泣き顔を見られるのを嫌がって俯くと、涙は重力に従いぼたぼたと落ちる。カーペットの染みをぼやけた視界にみとめながら酷くみじめな気持ちになる。HiMERUが、自身が、在らねばならない理想とかけ離れた、薄汚く滑稽な人間におもえてならなかった。

 いや。
 やだ。
 もういやです。

 殆ど無意識に、HiMERUは繰り返した。何もかも否定したくて頭を振ると、頬にとどまっていた水滴がまた一つ二つ落下した。天城が笑う気配がした。馬鹿にするなと怒鳴りつけるには、安堵の色が強すぎて、だからただひたすら俯いていた。下に向けたままの頭を無遠慮に撫でられる。天城が、桜河によくする仕草だった。
 天城はHiMERUの手の中でひしゃげてる名刺を取り上げて、げ、と顔を歪めた。
「このオッサン、この前ニキのおっぱいじろじろ見てたやつだ」
 ゲロゲロ〜なんて、誰かの口真似をしながら、それ自体が汚物みたいに名刺の端をつまんで床に叩きつける。そのあと一回足で踏んで、スマホで撮影をはじめた。七種に送るためだろう。
「顔洗いに行ける?」
「大丈夫、なのです」
「ほんとかよ」
「HiMERUはひとりで、完璧なので」
「顔まっかですけどォ」
「うるさいのです」
 立ち上がろうとしてふらつくと、天城が慌てたように隣に立った。しゃあーないからついてってやるよと、腕を組むようにして身体を引かれ、揃って廊下に出た。天城たちと居るとき、『HiMERU』の声はあまり近寄ってこない。なんだか気が緩んで、それが誰にともなく後ろめたい。
「まァ、どうとでもなるっしょ」
 組まれた腕と反対の手で冷えた指先を握られる。本当に、姉という生物は、察しが良くて、どこまでも無理解で、わかっていない。HiMERUはHiMERUのことで泣いているわけではないのに。HiMERUがいやだから、泣いているわけではないのに。すべて『HiMERU』をおもっての涙なのに。
 口を舐め回されて、身体を触られて、気持ち悪くて、でもだからって、そんなことで泣いたりしない。汚されたなんて、嘆いたりしない。顔も身体も洗えばいいし、口は濯げばいいし、今更、欲望をぶつけられたって怯んだりしない。あんたらみたいにいちいち傷付くほど繊細じゃない。
 でも確かに、嫌は嫌だった。
 なにも望んでしているわけではなかった。気持ち悪いし、吐き気がするし、いつだってこんな悪い夢、早く終わってくれと願っている。そうでなければ、HiMERUも、あるいは要も、早く正気など失くしてしまいたかった。

 なにやってるの。
 ばかじゃないの。
 やっぱりやなんじゃないの。
 ねえいつまで続けるの。

 内耳の渦の向こう、鼓膜のさらに奥で声がする。髄液に脳の模型がぷかぷか浮かんでいて、皴の合間から『HiMERU』が、要に手を振って笑っている。早くそれに応えたいのに、此処に要は居ないのだ。要は何処にも居ないことになっている。
 要は、早く姉に抱きしめて欲しかった。家に帰って、二人だけで話がしたかった。玄関にも、洗面台にも、浴室にも、自室にも、もう随分と前から、人ひとり分の気配しかしなくても、それでも、わたしたちは、わたしは、『HiMERU』だから。
 あれ、おかしいな。
 おかしいのかな。おかしくはない。いや、おかしいよ。
 要はおかしいね。
 『HiMERU』が要を笑っている。
 要だって、本当はすべてわかっていた。
 『私』だけがおかしいのだ。

 HiMERUが自身を抱きしめるようにして歩いていると、組まれていた腕が外されて背にまわった。天城が、制服越しにHiMERUの腕を擦って「寒いの?」と訊ねる。そういえば、ずっと寒かった。いつだか秋空の下、冷水を浴びたまま歩いたときのように。身体の芯まで冷えてしまって、空調がいくら適温を保っていようと、もう関係がなかった。
 そうかも、とHiMERUが呟くと、まわされた腕の力が強くなった。そこにしっかりと腕はあった。『HiMERU』ではなく、天城の腕だ。天城の熱を感じるには、冬服が厚く隔たっていた。殆ど無意味だったけれど、スタッフと何人すれ違っても、天城は離れていかなかった。HiMERUを自分の身体で隠すようにして、へらへら挨拶をして追及を躱す。それからトイレで顔を洗って、楽屋で化粧を直してるあいだも、何だかんだとくっついていた。
 あまりに甲斐甲斐しくて笑ってしまうと、後ろから抱き込まれて「なァ落ち着いたァ?」と間延びした声で訊ねられた。それはもう甘やかす声を使うので、あんたにそうしてほしいわけじゃないと、恥も外聞もなく喚きたくなった。
 『HiMERU』の笑い声は、もうどこからも聞こえない。そのことに少し安堵して、安堵したことに失望した。