ストレイシープ


 昼過ぎ、旧館へ置きっぱなしの荷物を取りに向かうと、雨の気配もないのに水滴がぽたぽたと地面を汚していた。ニキは光る痕跡を目で追って、その先に、最近見慣れた痩せっぽちのシルエットを見つけた。ずぶ濡れですたすたと直進していくその人は、身長は高いのに折れそうなほど細くて、ニキは彼女を見るたび、ちゃんと食事をしているか心配になる。やや小走りになって追いかけると自分に近づく足音に気付いたのか、その人はびくりと肩を揺らして、次いでぱっと素早く振り返った。
「HiMERUちゃん、それどうしたっすか?」
「——雨に降られて」
 HiMERUはニキと目が合うと俯きがちになってそう釈明した。はて、とニキは首を傾げる。空を仰ぐと淡い水色をした秋晴れが見渡す限り広がっていた。HiMERUはいまだ固まったままだ。まずいところを見つかってしまった、とでも言いたげに、居心地の悪そうな風情で目をうろうろとさせている。次に何を聞かれるか身構えているようだった。薄い唇が、プールの入ったあとのように青くなっている。朝から涼しい日だった。衣替え前の薄い夏用の制服が透けて、下着の柄まで丸見えだった。ピンクのチェック柄。かわいいね。高校生っぽい。HiMERUが身構えているから、ニキも言葉を探してみたが、どれも今言うようなことではなかった。だから取り敢えず、見た通りの事実を伝える。
「晴れてるっすよ?」
「ゲリラ豪雨です」
「まじっすか? 洗濯物干しっぱなしっすよ〜」
「おそらく椎名のアパートの付近には降っていないので問題ないかと」
「どういうこと⁉ そんな遠くないっすよ!」
 まぁ降ってないならそれで良いんすけどねぇ。
 ニキは、なははーと笑って、取りあえずと鞄に入れていた新品の布巾を取り出す。バイト先で頼まれて購入したものだったが、持っていくのは次の日でも構わないだろう。
 袋を開けてHiMERUの頬に布巾を押し付けてやると、少し躊躇ったあと「……ありがとうございます」と受け取ってくれた。いつも綺麗にセットされてる髪が水を吸ってぺったりと頬や首筋に張り付いている。身体を拭うたび、毛先やスカートの端からぽたぽた水が落ちる。
「HiMERUちゃん、これからおうち帰るっすか? 今日は寮使おうよ」
「お構いなく。布巾、ありがとうございました。洗濯してお返ししますね。それでは」
 HiMERUは早口で言って、水を吸って重たくなったスカートを翻した。そのまま敷地の外へ向かおうとするので、まってまって! と、細く冷たい腕を掴んだ。
「まだ何か?」
「風邪引いちゃうよ、はい! これ着て!」
 パーカーを脱いでHiMERUの肩に無理やり羽織らせる。ここら辺ほとんどど女の子しか居ないけど、さすがに透け透けは隠さなきゃ。寒そうだし。
「寮が嫌なら旧館行くっすよ。僕と会わなかったら、そのつもりだったんでしょ?」
「ちょっと椎名……っ」
 HiMERUは濡れた鞄と、濡れてない手提げ袋を持っていた。洗濯に出していた練習着でも回収して、人目につかないところで着替えて帰るつもりだったのだろう。ニキが強引に手を引くと、HiMERUは少し抵抗したが、無視してそのまま歩いていると、やがて小さな溜息が聴こえた。抵抗がなくなったHiMERUの手を離すタイミングがわからなくて、繋いだまま中庭を抜けた。

「トイレで上から水をかけられまして。教室でジャージに着替えようとおもったんですけど、ジャージもなくなっていて。途中で買っても良かったんですけど、無駄遣いしたくなくて……何も、大事ではないんですよ。犯人の目星はついていますし、適当に泳がせて処理しようかと」
 旧館までの道中、HiMERUは此処に至るまでの経緯をニキに説明した。ふうんとHiMERUの話を聞きながら、ニキは苦笑する。トイレで上から水って、随分と古典的だ。でも確かに、下着を下ろしてたらドア開けてすぐ確認するわけにもいかないし、バレない嫌がらせとしては有効なのかもしれない。
「燐音ちゃん、いじめのドラマとか見てるとすごくテンション高いの。あり得ねーだろ!ってツッコミながらげらげら笑って、オジサンみたいだよね」
「ああ、目に浮かぶようですね」
 頭の中でまで姦しい燐音に呆れて、冷え切ったHiMERUの手を引きながら、ニキはそのときの状況を想像した。しばらく嗅いでいない学校のトイレの、清潔とは言い難い臭いが脳裏によみがえって、それがHiMERUにはあまりにも似合わなかった。ドラマを観ながら、あり得ねェー! と燐音は笑っていたが、どうやら現実にあり得たらしい。それから、やだやだと首を振り、わざわざ説明しなくても良いのにと憂鬱な気分になった。
(何で誤魔化すのやめたの? できてなかったけどさ)
 知らないふりの一つや二つできるのにと嘆息する。HiMERUは明らかに嫌がっていたし、そんな相手に無理に突っ込んで詮索なんかしない。
 それとも、説明するから誰にも言うなってことだろうか。あ、それっぽい。とくに燐音ちゃんとか、こはくちゃんに? それだ。
(燐音ちゃんは良いとして、問題はこはくちゃんかなぁ)
 燐音の場合、大事じゃないなら最終的にHiMERUに任せるだろうが、後々揶揄されたり、説教じみたことを言われるのが面倒なのだろう。問題はこはくだ。普段は落ち着いているけれど、沸点はそう高くない。彼女の仲間想いなところは良いところだけど、怒ると何をするか読めないので、穏便にしたいなら伏せた方が良いだろう。
 その点、ニキなら事情を知っても放置してくれるだろうというのは、それはまあ。
 うん、と納得したところで、ぐぅ、と喉とお腹が鳴った。自業自得だとわかっていても、そこまで薄情だと思われているのは、一体どういうことだろう。良くない。よくないっすよこれ。ニキは少しだけかなしくなって、心配くらいするのにと、言い訳じみたことを考える。
(どうでもいいって言い過ぎた? 違うよ、あくまであれは命に比べればって話で、アイドルに命かける意味がわからない的なあれで——)
「HiMERUちゃんのことがどうでもいいってことじゃないよ」
「……話聞いてました?」
 いつの間にか一歩前を歩いていたHiMERUが、怪訝な顔でニキを振り返る。繋いだままになっていた手をくいと引かれて、目的地に到着したことに気づく。正式な入寮以前、ユニットに割り当てられていた四人部屋だった。ユニットの存続が決定しているので、なるべく早く新しい部屋に移るように言われている。ニキたちは各々、自宅や学生寮で殆どを過ごしていたので、扉を開けるとこの部屋は、いつも余所余所しい古い建物の匂いがする。

 HiMERUは入ってすぐに鍵を閉め、大胆に服を脱ぎ始めた。
 シャワー浴びてきたら、と声をかけようとしたけれど、如何にも何かありましたって状態で動き回るのが嫌なのだろう。仕方がないなと、タオルの追加とドライヤーを持っていくと、今度は素直に受け取って「すみません、ありがとうございます」と申し訳なさそうに眉を下げる。いつも自信満々に胸を張っている子なので、殊勝な態度はこちらが落ち着かない。だからつい、へらっと笑って「下着かわいいっすね」なんて、先程おもっても言わなかった余計なことを言った。案の定、不機嫌な顔をしたHiMERUに睨まれる。それでも怒っているというよりは照れているのか、「これは、姉のと間違えて……」なんて、よくわからない言い訳をする。お姉ちゃん居るんだ。へぇ。
「寒かったでしょ」
「堪えられないほどでは」
 家よりは近くても、HiMERUたちの学校はESから距離があったと記憶している。電車もこの状態で乗ってきたのだろうか。それともバスか、歩いてきたのか。いずれにしろ、目立って仕方がなかっただろう。
 HiMERUは燐音ほどではないにせよ、女子にしては身長が高い。さらに腰の位置が異様に高くて、ちょっと見ないくらいの美人だ。アイドルに興味が無い人だって思わず振り返って見てしまうだろうし、そんな美女がずぶ濡れで歩いているとか、犯罪臭い。
 そういうの、気にしない子だっけ。頭良いのに変なところが抜けてるから、こんなとこまで濡れたまま帰ってくるんだろうけど。
「何とかなりそうなんすか?」
「ええ。クラスには七種も居るので。これ以上のことは起きないとおもいます。素行不良で所属取り消しなんて、馬鹿らしいでしょう?」
 副所長と同じクラスだったんだ。知らなかった。学校で話したりするのかな。二人が学生やっている姿はあまり想像つかない。教室の二人というものをぼやぼやと思い浮かべながら、今日は知らないことを沢山聞く日だなとおもう。いつまで覚えていられるかわからないけど。
「夏の騒ぎの余波で仕事は少ないですし、学校の設備で使いたいものもあったので、気まぐれにしばらく登校してみたのです。それがいけなかったんでしょうね」
「いけない? 学校に行くのがっすか?」
「ええ、気に障ったんでしょう」
「気に障る……」
 ニキがよくわからないという顔をすると、HiMERUは苦笑する。
「アイドル活動とか、それ以外の進路とか、思春期だとか、皆さんいろいろあるんですよ」
 そうして、まるで自分には関係ない調子で続けた。微笑ましいとでもいうように。そういうときのHiMERUは、何かおかしい。ぬいぐるみにも動物にも文具にも雑貨にも食べ物にも、何にでもかわいいというちぐはぐな子に見える。
 本当はどうだっていいんだろうなっておもってしまう。もしかしたらニキ以上に。でも、それは確かに、皆さん、と呼ばれた学生たちの、気に障る、のかもしれなかった。
 軽んじていることだけは伝わってしまうのだろう。たとえHiMERUに、そんな意図が本当はなくとも。真実なんて誰にもわからないこと、誰も拘ったりしない。
「秀越は優秀な人材が多いので、この程度で済んでいるとも言えます。基本自分のことで忙しいですからね」
 ——ねぇ椎名、だから誰にも言わないでくださいね。あなたを信用して話しました。
 そう言ってHiMERUは、世界中の謎の答えをすべて知っているような顔をして微笑んだ。紙より軽くて、薄っぺらな信用だなぁとおもったけど、虚勢でも何でもなく、そう決めつけてしまったHiMERUが可哀想だったので、やはり深追いしなかった。出来なかった。
 ニキの返答を待たず、HiMERUはドライヤーの電源を入れた。室内にごうっと風の音が鳴る。その話はそこで終わった。





 それが丁度一週間前。
 バイト先のシナモンの電話が鳴ったのが今日。
「お待たせしましたぁ、カフェシナモンです」
『もしもし、椎名ですか?』
「あれ、HiMERUちゃん? どうしたっすか〜珍しいっすね!」
『突然すみません。その……閉じ込められて、出られないのです。バイトが終わったら来てもらえませんか?』
「――とじこめ……え⁉ は⁉ えええ……!」
『落ち着いてください、椎名』
 いきなりのことに思わず声を荒げると、奥に居た店長に「どうしたの?」と目だけで訊かれ、慌てて何でもないとジェスチャーを返す。
「閉じ込められたって、どこにっすか?」
『目隠しをされていたので正確にはわかりませんが、物置のどこかだと思います。人通りが少なさそうな。ボールの打音とシューズの音がかすかに聞こえるので、体育館裏ではないかと』
「うん、うん……電話はできるの?」
『支給されたスマートフォンは取り上げられてしまって、私用のものからかけています。人の気配がなくなってから目隠しは外しました。手足を拘束されていますが前で結ばれているので、簡単な入力は何とか』
「ああ、はい、ちょっと待っててね、もうすぐ終わる時間だから……」
 時計を見ると3時40分ごろだった。あと20分で夜のシフトの人と交代する。そこで、そういえばと思いつく。
「あ、でも副所長に連絡した方が早い? こっちからしよっか?」
『借りを作ると面倒です。状況が変わったら考えます。今のところ身の危険は感じません』
「とりあえず、無事なんすね。了解っす。僕のスマホの番号、今表示されてる番号に送るんで、何かあったら電話できるように画面開いといて欲しいっす。着信一回でもあったらすぐ副所長と燐音ちゃんに連絡するんで」
『……………………わかりました』
 わぁー嫌そう。でも、そうだよね。誰にも知られたくないから、事情知ってるニキに連絡してきたのだろう。
 先週、星奏館の中庭で会ったHiMERUを思い浮かべる。悪戯が見つかった猫みたいな顔をしていた。被害者なのに、何かを害されたなんて思ってなさそうな、全部どうでも良さそうな顔をして笑っていた。諦めているのとは違う。相手にしていない。実際、大切なものは極一部で、それ以外のことは何だって誰だって、ぜんぶどうでも良い、みたいなことなんだろう。ニキも食事以外のことは似たようなものなので、そういうのはちょっとわかる。
 今だって、ニキが駆け付けたところでどうせけろっとしているんだろうと思えば、それはそれでちょっと脱力した。心配は心配だけど、そういうところ、お互い直していった方が良いと思うんすよね。いや、ほんとに。
 このあと消費するカロリーがどれくらいかわからなくて、賞味期限近いから食べていいよと店長に言われていたパフェ用のクッキーを接客の合間に頬張った。腹が減っては戦はできぬってやつ。何だかなとは思うけど、助けを求めてくれたことは、純粋に嬉しかった。
 
 バイトが終わってすぐ、最寄りから電車に飛び乗って秀越へ向かった。あんまり慌てて調理場を出たから「デート?」なんて、冗談半分に茶化されてしまった。急いでいたので「そんな感じっす!」と答えて、エプロンのまま上からジャケットを羽織って店を飛び出した。店長は奇妙なものを見る目で、お疲れ様と送り出してくれたけれど、なんだろう。自分で聞いたくせに、失礼っすね。まあ曲がりなりにもアイドルがその格好でデートはないだろうって、それはその通り。気は進まないけれど、今度詳細を聞かれたら、きちんと説明しようとニキは思った。
 秀越学園の場所は、学生たちが食堂でぼやいているのを聞いてぼんやりと知っていた。曰くアクセスが悪いだの、登校に時間がかかるだの。ホームで待ち時間に調べたら、ちょっとした山奥にあって、なるほど文句を言いたくなる立地だなぁとおもった。
 到着した駅のホームに降りると、木と土の瑞々しい濃密な匂いが満ちていた。街中より気温が低いく、ジャケット一枚羽織っていてもやや肌寒い。夜になれば一層下がるだろうとおもうと、駅に着いた安堵に早くも焦燥が混じる。道なりに、駅へ歩いていく下校中の生徒たちとすれ違う。
 みんなアイドル、もしくはその卵たち。
 この子達は事務所の寮に帰る子たちなんだなと、見るとはなしに横目で制服の集団を窺うと、目が合って挨拶されたり、会釈されたりするので、こちらも適当に笑って会釈する。この中に、HiMERUに危害を加えた人間が居るかもしれないと思えば、なんだか落ち着かない気分になった。日没までは時間があるけど、HiMERUちゃん、大丈夫かな。駅の時計は4時半手前を指していた。いつ着信があっても良いように、スマートフォンは手に持ったままにしている。

 正門に到着すると、あたりは橙に染まっていた。夜間用のライトが点灯して、敷地内を照らしている。ニキが門の前でうろうろしていると、間も無くして訝しげな顔をした警備員に呼び止められた。慌てて事務所から支給されたスマートフォンと、ホールハンズの入室画面を確認してもらう。すると態度を一変させた警備員に来賓用の玄関に通され、書類に記入して提出するよう案内を受けた。要項を記入して、入校証を首から下げる。校舎内には入らず、グラウンドを横切って体育館裏に回った。
 体育館まわりには人気がなかった。どうやら部活動も終わったらしく、あたりは静まり返っている。ぐるりと半周まわったところで、屋外用の物置きが四つ並んでいるのが見えた。急いで駆け寄ると、その中に一つだけ外側につっかえ棒がかけられた引き戸があった。
 ――ここかな。
 どんどんと戸を叩いて中に聞こえるように声をかける。
「HiMERUちゃん? 居るっすか⁈」
「……椎名!」
「待っててね、すぐ開けるから!」
 高跳びに使うバーのような棒を退けて、扉をがらがらと引く。差し込んだ光に目を細めたHiMERUが、手足を縛られて地べたにぺったり座り込んでいた。見たことないスマートフォンが地面に置かれている。通話で言っていた私用のやつなんだろう。ちゃんと発信画面で置いてある。
「HiMERUちゃん、いいこにしてたっすね〜」
「椎名……すみません」
 安心させるようにと、ニキはなははーといつも通り笑った。倉庫の中は太鼓とか玉入れ用の篭とか、季節のイベントに使いそうなものばかり置いてあって、これでは誰も気付いてくれなさそうだった。
それにしても、仕事用だけ取り上げて私用の方を探さないって、迂闊というか詰めが甘いというか。手だってそうだ。後ろに結んだ方が確実に出られないのに。それとも、ただの嫌がらせだから? 遊び程度の感覚でだれかをこんな風に閉じ込めるなんて、さっぱり理解できないけど。
「遅くなってごめんね」
「いいえ、ありがとうございます。すみません」
「無事でよかったっす。それ、切っちゃうね」
 とりあえず持ってきたフルーツナイフで腕と脚の拘束を切る。紐は刃を入れたらすぐに切れた。何処にでもあるビニール紐でぐるぐる巻きにされていたHiMERUの手首は圧迫されて赤くなっている。足首は靴下に隠れてて見えないけど、大丈夫かな。
「変な感じしない?」
「少し痺れてますけど、無理に動かしていないので問題ないかと」
 そう云いながら、HiMERUは掌を開いて閉じて、手首を摩りながら感覚を確かめた。暗い中でも赤い手首を、ニキは忌々しい気持ちで睨んだ。HiMERUはやはりけろっとはしているけど、普段より顔色が悪くみえる。暗いからだろうか。
「HiMERUちゃん」
 呼びかけると、いつもよりぼやけた色合いの金色が、逆光で影になったニキを映す。HiMERUの瞳からは感情がすっかり抜け落ちたようで、ニキには何も読み取れなかった。
「怖くなかった?」
「……一人じゃないから」
「んえ?」
「——ああ、いえ。椎名が来てくれると、わかっていたので」
「あは、それは、ありがとうっす」
「こちらこそ、ありがとうございました」
 HiMERUは、まるでニキのこと信じているみたいなことを言う。これは前に、そう言ったから、なのだろう。そして多分、ひとりじゃない、というのは、ニキが居るからとか、これから来るからとか、そういうことじゃない。どういうことかはわからないけど、HiMERUはきっと、ひとりではなかったのだ。
 いいよ、とニキは笑った。
 今度はちゃんと誤魔化してくれたから、誤魔化されてあげる。
「とりあえず無事でよかったっす。こんなとこ早く出なくちゃ」
 物置の中は土埃と、古いゴムや皮の匂いで満ちていて、長い時間人が居るような場所ではなかった。そこで微かに違和感をおぼえる。ふんふんと鼻から息を吸い込む。ニキが鼻を動かしてあたりを確認していると、HiMERUは不思議そうに首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「血の匂いがする。HiMERUちゃん、怪我してない?」
「? いいえ………………——あ、」
 HiMERUは何かを思い当たったように自由になったばかりの手を後ろに回した。その仕草でニキも遅れて気付いた。
「え、嘘。ごめん、お腹痛いよね? あっためないと」
 着てきたジャケットをHiMERUのお尻が隠れるように巻くと「汚れますから!」と慌てて返そうとするので「黒だし、洗えばわかんないよ」と言ってお腹の前で結ぶ。それまで淡々としていたHiMERUの顔が、そこではじめて、泣きそうに歪んだので、ニキはごめんねと、もう一度頭の中だけで謝罪した。

 ごめんね。
 もっと早く来られれば良かったね。
 誰がこんなことしたんだろう。嫌だな、こういうのは嫌だ。可哀想だ。
 あ、なんか苛々してきたかも。
 やだやだ。お腹減っちゃう。

 俯いてしまったHiMERUの背中に腕をまわして、連れ立って外に出た。外灯に照らされたHiMERUの顔は、思った通りいつもより白くて心配になる。貧血を起こしているかもしれない。
 そこでバイブ音が鳴った。HiMERUが拾ったまま手に持っていた私用のスマートフォンからだ。HiMERUは億劫そうに画面を確認して、おや、と呟いた。
「この番号は……事務所からですね。失礼」
 律儀に断りを入れてからHiMERUは電話に出た。コールが切れて早々、ニキにまで届くような溌剌とした声が電話口から響いて、首を竦めたHiMERUが耳から一回スマートホンを離した。
『突然のお電話失礼いたします! コズミックプロダクションの七種です。こちらHiMERU氏の携帯でよろしいでしょうか?』
「——はい、HiMERUです」
『やあやあHiMERU氏! ご無事でいらっしゃいましたか! 何よりであります』
「何かありましたか?」
『社用のスマートフォンが落とし物として事務所に届きましてね。持ち主がHiMERU氏と判明したので、確認のため。いやぁプライベートのナンバーにお掛けしてしまい申し訳ありません!』
「構いません。少々トラブルがありまして、説明は後日でもよろしいでしょうか」
『緊急性がないのであれば』
「お手数おかけしてすみません」
『ははは、これくらいのことは仕事の内ですよ』
「助かります。それでは、失礼します」
 通話を終えたHiMERUは短く舌打ちをした。
 治安悪! っていうか副所長とはプライベートな番号交換してるの⁈ なんかちょっと意外。そんなに仲良しなら普通に助けて貰えば良かったんじゃ。
 思っていることが顔に出ていたのかHiMERUは「事務所に書類を出すとき、個人情報を記載したでしょう? 緊急時はかかってきますよ。あなたにも」と、暗に、別に教えたわけじゃないと説明した。
「そっか。あ〜びっくりした」
「——騒ぐほどのことでもないでしょうに」
 それから入れ替わりでニキのスマートフォンも鳴り始める。HiMERUの紐を切るときエプロンのポケットに突っ込んでいたのを思い出して慌てて取る。着信の画面は燐音だった。気付かなかったとかないよね。何回目だろう。燐音ちゃんは鬼電癖あるから、着信履歴見るのが毎回ちょっと怖い。
「はーい、どうしたっすかぁ?」
『あ? さっさと出ろよニキのくせに』
「理不尽! で、何の用っすか⁈」
『なあ今日メルメルお前のバイト先行った?』
「HiMERUちゃんなら今一緒に秀越に居るっすよ」
『は? どうやって入ったの』
「ホールハンズの画面見せて認証してもらったっす! メンバーに用事って言ったら大丈夫でした。ねえ燐音ちゃん、今どこっすか?」
『寮の共有スペース』
「じゃあちょうど良いっすね」
『は?』
「椎名?」
 HiMERUが怪訝な顔をしている。ごめんね、約束破って。でもニキは、そもそも納得していなかった。あの日も、今日も、一度も。
「今ね、体育館裏の倉庫なんですけど、HiMERUちゃんの練習着と下着持って、車で迎えに来て欲しいっす。あとナプキン買ってきて!——あいたっ」
 ニキの口をむんずと掴んで、HiMERUはニキのスマートフォンを奪い取った。それから「必要ありません」と通話先に早口で言った。その瞬間、ニキもカッとして「ばか‼」と怒鳴りつけてしまった。HiMERUが吃驚した顔で固まってるうちに、スマートフォンを奪い返して勢い任せに叫ぶ。
「早く来て燐音ちゃん! 待ってるっす!」
 通話口の向こうで燐音が笑う声がして、それから了解の返事があった。





「あ! 燐音ちゃんだ! こっちこっちすよ〜 あれ? こはくちゃんも居る」
「お待たせェ〜燐音ちゃんを呼びつけるとはいイイ度胸してんね、お前ら」
「HiMERUは呼んでいません。桜河まで」
「何や、わしがおると都合悪いんか」
 こはくは片眉を上げてHiMERUを睨んだ。燐音がおいおいと呆れた顔をしている。
「そういうわけでは」
「ありますけどっち、顔に書いてんで」
「——書いていないのです」
 HiMERUは否定するだけ否定して、そのあとふいと顔を背けてしまうので、こはくがさらに苛々と眦を吊り上げるのがわかった。ニキは慌ててフォローに入る。
「わー! こはくちゃんっ HiMERUちゃんも、ちょっと疲れてるだけだから、ね⁉」
「きゃはは! メルメルはこはくちゃんの前ではしっかり者のお姉ちゃんで居たいんだよなァ〜? で、こはくちゃんは勝手に着いて来て喧嘩売んなって」
 到着して早々、めずらしく険悪な雰囲気の二人を燐音が笑って諫める。
「居合わせたんやからしゃあないやろ! 穏やかでもなかったしな」
「余計なことを言わないでください、天城。桜河も、すみません。すこし疲れているだけなのです」
「何や、お疲れさん。災難やったね」
「良いから早く着替えて来いよォメルメル」
 深く溜息をついて、HiMERUは差し出された着替え一式を受け取った。
「中に入れてあるもん好きに使って」
「——お手数をおかけしました。支払いますので、レシートありますか?」
 HiMERUが尋ねるのをしっしっと燐音は追い払って、さっさと着替えろと倉庫に押し込む。HiMERUは一瞬不服そうな顔をしたが、状況に負い目があるのか「すみません、失礼します」と頭を下げて、扉の影に隠れた。二人のやり取りを、ニキは何だか新鮮な気持ちで見ていた。
 HiMERUは燐音に対して、特に最近は、反抗的な態度を取ることが多くなっていた。悪巧みなどは、相変わらずニキやこはくを蚊帳の外に置いて、二人で好き勝手仲良くやっているようだけど、こういう殊勝なふるまいは多くない。従順なHiMERUはかわいいけれど、それはそれで心配になってしまう。
(燐音ちゃん、ナプキンのついでに衛生用品とか買ってきてくれたのかな)
 ティッシュとか、タオルとか。燐音のそういう機転の効くところは、ニキは素直に凄いとおもう。ニキの財布から札を抜かなかったら、尊敬してあげても良いのにと、物凄く残念な気分になる。
 HiMERUが奥に引っこむのをやれやれと見送った燐音が、ニキに向き直った。自分の頬を指差して、それ、と言う。
「ん? どれ?」
「引っ掻いたあとみたいになってんぞ」
「え……、あ! さっき電話の時にね、多分ぼくの口を塞がなきゃって焦っただけだと思うんで、気にしないで。痛くないっすよ」
「割とすぐ手ェ出るよなアイツ」
 燐音はぐっと近づいて、ニキの頬をまじまじ見る。
「ああ、指の痕が赤くなってるだけだわ」
 これなら大丈夫そうだな。そう言いながらニキの頬をなぞる燐音の指は、ささくれやひび割れがあって、ちょっと擽ったい。ニキより燐音の方が痛そうだった。ハンドクリームとか、買ってあげたら使ってくれるかな。ニキも料理や洗い物をよくするので手荒れはするけど、酷くなると見栄えも衛生的にも嫌がるお客さんも居るから気を付けている。
「なははー大丈夫っすよ」
「HiMERUはんも、変なとこで乱暴なお人やね」
 こはくは溜息を吐いて、でもまぁ、とフッと笑って意地の悪い顔をする。
「ぬしはんらが悪さするからやろうけど?」
「ひどいっ! 自分で言うのもなんですけど今回僕はイイコだったとおもうっす!」
「こはくちゃんだけよ? メルメルに甘やかされてんの」
「わしHiMERUはんの前ではお利口にしとるもん」
「かわいこぶってさぁ」
「コッコッコ♪ 美人は怒ると怖いからなぁ。優しくされたいわぁ」
 テンポよく会話が進んでいくのを眺めながら、ニキは身体からふっと力が抜けるのを感じた。何故だろう。ずっと不安だったのかもしれない。HiMERUに打ち明けられてから、胸の奥の方がざわざわと鳴っていた。
 何もするなと言われて、今日まで何もしなかったくせに。
 だけど、本当は、はやく誰かに打ち明けて、さっさと解決してしまえばいいのにって願っていた。だってHiMERUは誰のことも相手にしていなかったから、それは取り返しのつかないことになりそうで怖かった。だからといって、ニキが何を言っても、誰も相手にしていないHiMERUは、聞く耳を持たないとおもっていた。
 そんなことは、なかったのかもしれないけど。
 ニキは燐音との通話を切ったあと、HiMERUと話したことを思い返す。

(心配したんすよ)
——ごめんなさい。椎名、あなたに負担をかけてしまいました。
(いいっすよ。かけていい。頼ってくれて嬉しかったっす)
——ありがとう。本当に助かりました。
(もっと早く来れたら良かった)
——いいえ、HiMERUはこの通り無事です。
——何もなかったのです。あなたのおかげで今日も家に帰ることができます。
——だから、あなたが気にすることは何も……
——ああ、椎名、泣かないで、

 HiMERUは言葉を重ねながら、どうしたら良いかわからないというふうにニキの頬や頭を撫でた。あやすような手つきはうろうろと拙い。ニキは泣いてるつもりはなかったけれど、鼻が詰まってる感じがしたので鼻を啜った。寒いなとおもって、目の前の寒そうなHiMERUを抱きしめた。少しでもHiMERUをあたためたくて、隙間なくぎゅっと密着した。HiMERUはためらいがちにニキの背に腕を回して、ぽんぽんと慰めるように手を動かした。優しい子だなとおもった。抱きしめた身体がまだ小さく震えていたので、ニキは、こんなことしたやつみんな地獄に堕ちてしまえばいいのにと、そんな狂暴なことを願った。


 HiMERUは早着替えの要領でさっさと倉庫から出てきた。袋の中にぐるぐる巻きの制服が雑に詰まっていて、どうせクリーニング出すからという横着が垣間見える。周囲に頓着しないのはそうだけれど、生来大雑把な気質なのだろうとニキは踏んでいる。
 しかし着替えとは別に、ニキが勝手に巻きつけたジャケットを腕にかけて、どうしようという顔をしている。ニキが、ん? と思って手を差し出すと「汚してしまったかもしれないので、洗って返したいのです」と、これまた律儀なことを言う。こはくがHiMERUの横に寄っていって、羽織っただけのパーカーの裾を引く。
「ほんなら練習着のパーカーニキはんに着てもろぉて、ニキはんの上着をHiMERUはんが着たらよろしいやん。わからんくらいなんやろ?」
「——ああ、そうですね。着てください、椎名」
「気にしないのに。でもじゃあ、お言葉に甘えて」
「オラ、さっさと帰んぞォ」
 安心したところで、ニキは空腹を思い出した。持ってきた鞄の中を漁ると中身のない殻の包装しかなかった。ニキががっくり項垂れていたら、「貰いもんやけど」とこはくが苺の飴をくれるので、お礼を言ってすぐ口に放り込む。堪え性なく噛み砕くと、中から酸味のある液体が口内に広がった。
「燐音はん、なんか食べ物買うてなかった?」
「ん、アァ、そーだったわ」
 ホレ、と燐音が小さなビニールをニキに差し出す。中にはレジ前のお菓子を適当に突っ込んだのだろうというラインナップで、チョコレートやらカロリーバーやらが無造作に入っていた。
 有難く受け取って、早速フィルムを空けながら、次々と口の中に突っ込んでいく。
 あまりの勢いにHiMERUが少し引いたような顔をしているが、食べ始めると気にしていられなかった。ゴミ落とさんようになぁとこはくが笑い、燐音は職員玄関前は一応隠せよーと、何のためかわからない隠蔽を指示する。ニキはお菓子は誰にも渡さないっす! と宣言して、やはりいつも通り、なははーと笑った。
 まだ何も解決していないのに、もう大丈夫だとおもった。