がらんどうの唄



「桜河、こちらへ」
 HiMERUが手を広げてこはくを呼ぶ。レッスン室の壁にもたれ、床に足を崩して座り込んでいる。いつでもまっすぐ立っている人なので、床に座っているのも、壁に寄りかかっているのも、変な感じがした。それでもこのところ、HiMERUがその態勢でこはくを呼ぶことが増えたので、多少見慣れたと思う。こはくは大して抵抗もなくそこへ収まり、そうして二人、残りのメンバーが揃うまで、他愛ないお喋りをしていた。最近はいつもそうやって、気を紛らわせてもらっているのだ。

 こはくは月に一度、病院に薬を取りに行かなければいけない。病気ではなく、どちらかといえば怪我の後遺症のようなものだと考えている。
 あれは二ヶ月前だったろうか。曜日感覚などあってないような生活をしていたので、仕事と連休を挟んでしまい、三日ほど薬を切らしてしまうことがあった。
 薬効はしばらく続くものだし、市販薬も一応、効きが悪いのは承知でストックしてある。大丈夫だろうとたかを括ってレッスン室へ向かったは良いが、着いて早々に鏡の前で立っていられなくなってしまった。
 ひとりうずくまって、はくはくと熱い息を逃して、動悸が収まるのを待つ。脈打つたびにずきずきと頭が痛み出して、あぁ、今日は本当に調子が悪い日なのだと自覚する。
 せっかく集合時間より早めに来て、自主練習をしようとおもっていたのに。
 取りあえず、立ち上がらなければ。メンバーが来てしまう。それなりに焦っていたけれど、身体はうまく動かなかった。重くて熱くて、背中を冷たい汗が流れていく。
 そのまま嫌な酩酊をやり過ごしていると、こはくの次にレッスン室にやってきたHiMERUに見つかった。鏡越しに目があって、珍しいな。このおひと、真面目そうな割に遅刻したり来なかったりも平気でしはるのに、そんなことを、余裕がないながら半ば逃避のように頭の隅で考えた。
 学校鞄を床に置いて駆け寄ってきたHiMERUに「病気ですか?」と聞かれて、しばらく、どう答えて良いものか悩んだ。今より互いのことを知らず、つい数週間前に引き合わされて、上から無理やりユニットを組まされただけ、という関係だった。
「いや、違うんやけど……」
 こはくが言い淀むと、HiMERUは怪訝そうに眉を顰めたあと、ああ、と心得た顔をした。それから徐に胡坐をかいて、腕を広げて見せた。
「?」
「こちらに背を向けて座って」
 ぽんぽんと腿や脹脛を叩いて見せる。水色の髪がさらりと横に流れて、あらわになる首筋が色っぽい。じろじろと眺めてしまうのは、不躾でいけない。釘付けになりそうな目を無理やり剥がして、こはくはHiMERUの言う通りにした。何とも落ち着かず、前傾になってHiMERUの足に触れるか触れないかでしゃがむようにしていると「体重を預けて、寄りかかって良いですよ」なんて言ってくる。
 躊躇っていると、細くて白い腕が、やや強引にこはくの身体を包むようにして抱き込んだ。石鹸と柔軟剤と、HiMERUの匂いがした。
「腰回りを暖めると少し楽になります」
 そこまで聞いて、ああ、誤解されたのだとわかった。
 違うんよ、と言おうとして、まあ、そういうことで良ぇかと、思い直した。
 お言葉に甘えて、身体の力をゆっくり抜いた。しゃがんで圧迫されていた足の先までじわりと血が巡って、すうっと冷たい痺れが広がって消えた。背後をちらりと伺うと、HiMERUが満足そうに微笑んでいる。
 ——うん、まあええわ。
 こはくはもう一度、頭の中で繰り返した。
 説明するのは簡単でも、説明したあとが面倒だ。気にするだろうし、気にしないようにするだろうし、そういう、どうせ何もなかったようにしか互いにできないのに、そこへ落ち着くまで疲れるだけのことは徒労だとおもった。少なくともこはくは、この行為以上に無駄に感じた。だから「堪忍」としおらしく言って、大人しくHiMERUの腕に抱かれていた。


 それからというものの、HiMERUはこはくの不調を察して、そっと手招きしてくれることが多くなった。薬を飲んでいるときは、そこまでのことはないのだけれど、調子が悪い中でも良いときは、労りがこそばゆくて、普段より近い位置でするお喋りが楽しかった。本当に最悪なときは腹を撫でる手さえ鬱陶しいような気持ちで、火照っているのに凍えている嫌な発汗を伴う身体を、ざわざわと落ち着かない心ごと縮こまらせて黙っていた。
 黙っていないと余計なことを言ってしまいそうで嫌だった。
 何も知らないくせにと罵りたくなった。
 何も知らないやさしいHiMERUに、そんなことは絶対に云いたくなかった。八つ当たりも良いところだ。面倒を疎んで不誠実にしたのは自分のくせにと、最良とおもった判断まで遡ってわざわざ自己嫌悪もしたくない。
 聞かされても困るだけの話だ。それならこはくのからっぽの腹に納めて、なかったことにした方が、やはりこのときも最良におもえた。
「身体ができあがってしまえば、もう少し安定しますよ」
 せやね、それは、その通り、と嗤った。
 あと数年たてば身体が諦めてくれる。多分。今はまだ、引きずり出された内臓を探して、うろうろ血管の中でもさまよっているのだろう。何かが。誰かが。女が。こはくが。あるいは、暗い土の中で眠る、赤子が。腹の傷が塞がったあと、相手をした、誰かの精子が。
 そこまで考えると、脳裏におたまじゃくしがニョロニョロわいて、流石にぞわりと悪寒がした。口の中が苦いような酸っぱいような気になって、粘ついて少ない唾を無理やり呑んだ。どこもかしこもひりついて、かさかさして、掻きむしってしまいたい衝動にかられる。
「痛み止め、飲みましたか?」
 HiMERUの言葉に、ただ頷く。
 口をきくのも辛いのだと、そう思ってくれれば良い。願った通り「辛いですね」と、HiMERUが、ぽつりと滴るような声音で労わってくれるので、それにまた頷く。頷くと、ああそうか、辛かったのだと思い出して、こはくはすこしだけ泣くことができた。



「ちょりーっす! お、二人とも早いっすね〜」
「まァたくっついてんのお前ら、仲良しねェー」
「うるさいですよ天城、桜河が休めません」
「ヘーキやで、だいぶ良うなったわ」
 燐音とニキが連れだってスタジオに入ってくると、一気に騒々しくなる。女三人寄れば姦しいというけれど、二人だけでも余程、よくもまあ、同じようなやりとりを毎度繰り返せるものだとおもうけど、こはくもHiMERUと、最近はいつもこんな感じなので、そしてこんなときはたいてい突っ込む気力もないから、わざわざそれを指摘したりなどしない。
「こはくちゃん生理っすか? そんな匂いしませんけど」
「ニキデリカシーなさすぎっしょ」
「椎名、あり得ないのです」
「え、いいじゃん女子同士だし!? でもごめんなさい、嫌でした?」
「ああ、ええて。気にせんよ、おおきにな」
 ぽんぽんとリズミカルに言葉が交わされて、荷物を置いた燐音とニキが各々着替えはじめる。こはくもHiMERUの腕から抜けて、縮こまっていた身体を伸ばす。もう一度、おおきにとHiMERUに言うと、HiMERUは目をきゅっと笑みの形にして、いいえ、と、似合わない胡坐を解いた。火照った身体も、ささくれだった胸の内も、何かに集中してしまえれば、その瞬間だけは、そんなに気になるものではなかった。
「無理しても意味ないから、辛かったら休めよ」
「わかっとるわ」
 さっさと着替えた燐音がこはくの方へ寄ってきてと念を押すので、問題ないと腰に手を当て、柔軟のポーズを取りながらアピールした。頭をぽんと撫でられたのを首を左右に振って払うと「なんだ、元気そォーね」と燐音は笑う。そうしてひらひら手を振ってこはくから離れた。ひらひら離れた燐音の手は、次は立ち上がったばかりのHiMERUの肩で止まった。はらりと前に垂れた水色の一房を後ろに流してやりながら、背を撫でてまた離れる。不意の接触を拒否し損ねたHiMERUが胡散臭そうにその手を見送って、なかったことにするように手櫛で髪を雑にまとめるのがおかしい。こはくといるときのHiMERUは大人っぽいのに、燐音と居るときのHiMERUは、たまに子供っぽい。
 着替えおわったニキが、ジャージのポケットをごそごそ漁って、口の中に素早く何かを放り込んでいる。目が合うと、こはくちゃんも食べる? とおもむろに何かを握らせてくる。手を開いて確認すれば、馴染みあるパッケージの、個包装のチョコレートだった。ニキはよくこはくに菓子を分けてくれる。あとで食べようとポケットに入れて、寮で洗濯物に出すまで忘れてしまうこともあるし、休憩時にお腹を空かせたニキの口にそのまま返してしまうこともあった。今日は何となく口の中の味を変えたくて、礼を言ってその場で食べた。口内がチョコの味一色になると、憂鬱なことなどあとかたもなく消えてしまうような気がした。
「すぐ食べるの、めずらしいっすね」
 ニキが目を丸くしながらにこりと笑い、もう一つあげる、と、今度はこはくのポケットに勝手に手を突っ込んだ。二つも貰ってしまって大丈夫だろうか。ニキの分が足りているのかこはくは一瞬心配になったが、休憩のとき足りなさそうにしていたら、また口に放ってやれば良いのだと切り替えた。


 HiMERUに抱き込まれているのをはじめて燐音に見られたときは肝が冷えた。何せ燐音はこはくのことを、本当に、まるきり全て承知していたので、HiMERUの気遣いに余計なことを言ってしまわないか、こはくはそのとき、酷く狼狽した。こはくの顔色から状況を察した燐音が、いかにもいつも通りといった感じで「こはくちゃんは甘えたでちゅねェ〜燐音ちゃんが頭を撫でてやろう♪」などと、抱き込まれたこはくの頭を撫でてきたので、ほっとして、どっと疲れてしまった。反動で「うっさい触んなやボケどっかいけパチカス」と唸るように悪態をついてしまったので、背後から、何もそこまで、という困惑が伝わるのが決まりが悪かった。「きゃはは♪ 元気じゃん」と、燐音はその時も、ひらひら手を振って離れた。燐音の手は大きくて、表情があってかっこいい。ダンスをするとき良く映えるので羨ましい。過剰に反応してしまった恥ずかしさを更なる悪態で誤魔化しながら、こはくは、早く大人になりたいとおもった。





 ユニットがリストラ候補の寄せ集めとして作られたばかりの頃、こはくを最初に病院へ連れて行ったのは燐音だった。一回目のレッスンのあとに呼び止められ、ちょっと付き合えと、最寄りから電車に乗せられた。副所長の七種から、一通りこはくの事情を聞いていて、どうやら気をまわしてくれたらしかった。

 景色がまたたく間に通り過ぎていく。建物の合間から見える海が、夕日を反射してちかちか光る。
 こはくは睡魔で鈍った頭で、車窓をぼんやりと眺めていた。レッスン後の倦怠感が、ぼうっと四肢に溜まっている。電車はがたんがたんと時折大きく揺れ、それでも止まることはなく、駅と駅のあいだを進んでいく。行き先を知らされてなかったので、あと何駅乗るのだろうと、扉が開閉するたびに、燐音を横目でうかがった。
 そのとき燐音はこはくの視線にはこたえず、長椅子に並んで腰かけながら、確認事項をひとつひとつ潰すように、こはくに質問を繰り返した。
 治療は、薬は、主治医は、どういう症状があるか。それに一つずつ答えながら、やっと、ああそのことか、と思い当たった。行く先も、降りる駅もわからないけれど、何となくあてがついた。
「何で知っとるん」
「蛇ちゃんから聞いてる」
「蛇……ああ、副所長はん、な」
「自分の状態、自分で言えるようにしといて。こっちじゃわかんねーから。医者にも、どういう治療したとか、どう対処したとか、そういうの」
「わかった」
 燐音に云われて、こはくは自分の『怪我』について考える。
 手術のあとは、薬を渡されて、飲んで、ただ休んだ。たくさん寝た。そうしてしばらくしたら、こはくの身体は、子供を作れない身体になっていた。医者の家系ではなかったけれど、囲いの医者はもちろん居たし、毒や薬や、人体に精通したものが多い家だったので、誰かしらがそのときそのとき、こはくの身体に針を刺して薬を入れ、あとはずっと、持て余すあらゆる不調の波が落ち着くまで一人、獣のように丸まって耐えた。面倒な臓器がひとつ無くなってくれたなんて、正直すこし、楽観的なことを思ったりしていたのだけれど、とんでもなかった。
 そんなことを、うまくかいつまむこともできず、歩いてきた道のまま話すと、フゥン、とだけ言われた。燐音がだめとも良いとも言わなかったので、この説明で足りるのか足りないのか、こはくは判然としなかった。

「ここだから、覚えて」
 手を引かれて下車したホームで、燐音は言った。次から一人で来られそう? と聞かれて、頷く。覚えて、と言われたので、あたりをぐるりと確認する。電車が去ったあとの線路が、右にも左にも殺風景に続いている。ホームは地上より高い位置にあり、高架下には商店が密集していて、人がまばらに行き交っていた。
 知らない街から、また知らない街だとおもった。
 最寄りから何駅ぶん乗っていたのか思い出そうとしていると「八駅目な」と、燐音はこはくの顔も見ず、スマートホンの画面を操作しながら告げた。地図を確認しているらしかった。繋がれたままの手がぬるくなっていたので、ついと引くと、燐音は何だかばつが悪そうな顔をしてこはくの手を離した。そうしてふたり改札を出て、微妙な距離を取ったまま病院まで歩いた。
 賑やかな駅前を過ぎて二つめの細い道を右に曲がると、コンクリート剥き出しの古いビルが三つ並んでいた。その中の真ん中、三階が目的の病院だった。提携している芸能事務所の人間か、紹介でしか患者の出入りがないらしく、意図的にわかり難くするために看板の類も出されていない。ESにも医療施設はあるが、より専門的な検査のためには、設備が足りないのだと燐音は言った。
 こはくは燐音の説明を聞きながら、この人は何故、わざわざ自分の世話を焼いているのだろうかと不思議におもった。あまり深く関わる気がないのだろうと初対面で感じていたし、此処までの道中も、その印象は変わりがなかった。体調が安定しなければパフォーマンスにも影響が出るだろうし、これから事を起こすにあたり、他のアイドルに弱みを見せないようにというのもあったかもしれない。その後を考えれば、日常生活は随分と楽に送れるようになったので、感謝はしているけれど。
 燐音はひねくれた物言いをする。本音染みたことは、それこそこはくには明かさないので、そのときも、聞かれたこと、言われたこと以外は、想像するしかできなかった。ただ、断続的なやり取りの中に、出会ってから数日のふざけた言動とは異なる配慮と寛容を感じて、ああこの人は、きっと誰かの姉なのだろうと、殆ど確信したことは覚えている。

「弟か妹、おる?」
 薄いクリーム色をした病院の待合室でこはくが尋ねると、燐音はすこし目を丸くして、「ああ、いるよ。妹」と答えた。へぇ、と顔を覗き込むこはくから逃れるようにして、燐音は正面を向き直った。それから「こはくちゃんは上が居るんだっけ」と、やはり当たり前のように、話したこともないこはくのことを話した。
「うん、兄はんたちやね」
「なんか、それっぽい」
「なんやそれ」
「上目遣いでこっち見てくるところとか」
「チビ言いたいんか」
「言ってない言ってない」
 燐音は吐く息に混ぜるような音で、静かに笑った。そのあと隣に座ったこはくをあらためて見て、懐かしむように目を細めた。こはくも燐音を見ていたので、しばらくじっと見つめ合うことになる。普段より静かにしているのに、いや、静かにしているからこそ、面差しの華やかさが際立っていた。なるほど、アイドルと言われて説得力のある顔をしていると思った。差し込んだ夕日を赤い髪が吸って橙に光っている。ターコイズの目がちかちかと光を映すのを見て、車窓から見た海を思い出した。
 おもえば、仕事以外のことを話したのは、あれが初めてだったように思う。あのときはじめて、燐音の手が、こはくの頭上に乗った。こはくが呆気に取られていると、燐音はその手を慣れた様子で左右に揺らした。撫でられているのだと、気付くまですこし時間がかかった。こはくはまったく慣れないことだったので、首をがくんがくんと大袈裟に揺らしてしまって、それを見て燐音は、また笑った。




 ぴちゃりぴちゃりと水音がする。粘着に響く音を聞きながら、泥濘んだ暗い場所に心を沈めていく。下の方で溜まって、澱んでいくけれど、視界も不明瞭だからどんな状態でも気にならない。その代わりに、からっぽの身体は水に浮かせて、誰の手も届かないところへ追いやってしまう。乖離したままの意識と肉体を、暴力的な熱に内側から掻き混ぜられて、揺さぶられるたびに息が漏れる。目の前には天井と、男の興奮した顔。叩きつけられる欲望と、男の体液とこはくの体液が混ざった匂い。前戯で雑に扱われた入口や陰核がひりひりと痛くて快楽なんて程遠い不快感が胃を押し上げている。叫ぶように母音を吐き出す。男がぺちぺち腰を打ちつけるリズムに合わせてただ喘ぐ。早く満足して出て行ってほしいので、強請るように力を込めて脚を男の腰に絡めた。男がぐっと一際大きく腰を押しつけて果てる直前、乳房を乱暴に掴まれて息が詰まった。こはくが顔を歪めると、男は愉しそうに喉奥で笑ってこはくの中に出した。この男は無自覚なサディストで、こはくが行為中に苦悶を浮かべると悦ぶくせに、少しでも拒絶を口にしようものなら、つまらない気持ちにさせた仕置きと言って、より嗜虐的なことを愉しんだ。最後の一滴まで塗り込めるように抜き差ししながら、男はぎりぎりと手に力を込めた。乳房が千切れるように痛んで、こはくが思わず声を漏らすと、鬱血した胸元に口を寄せ、歯を見せびらかすように笑う。真っ赤で美味しそうだね。噛まれるのとどっちがいいと、突起を舌で転がしながら軽く食む。擽ったさと痛みへの恐怖で震えていると、男は満足そうに胸に吸いつき始めた。散々弄られたあとの身体が限界を訴え、ひきつけを起こしたようにびくびくとはねる。どこを触られても痛いだけなのに、男はこはくの全身を撫でまわし、より敏感なところばかり丹念に虐めた。痛みに震えるこはくが絶頂から降りてこられないものだと勘違いして、まだ子供だというのに、淫売な身体だと謗る。先程まで貫かれていた秘所を広げるように指を入れられ思わず悲鳴をあげると、声をあげたことを咎めるように剥き出しの陰核を潰される。ごめんなさい、いやや、いたい、堪忍して。男の手から逃げようとする腰を捕まれ、今度はひっくり返されて腹這いになる。背後からまた硬くなった男のものが押し当てられ、予備動作なく挿入された。腹を破られるのではないかという角度で抜き差しされて痛みと恐怖で半狂乱になる。男は暴れるこはくの頭を枕に押さえつけ、また律動をはじめる。呼吸もままならないまま、朦朧とした意識の中で、こはくは明日のレッスンのことを考えていた。胸は痣が残ってしまうだろうか、顔が腫れてしまわないだろうか、うまく誤魔化せるだろうか。斑が相手なら見ないふりをしてくれただろうが、明日はCrazy:Bでのレッスンが入っていた。




 練習室の重い防音扉を開くと先客が二人居た。
 声をかけようとしたところで、鏡を背に凭れるように座り込んだHiMERUが、しいっと口元に人差し指を当てる。その流れるような所作を、燐音はわずかに焦れた気分で見送った。決して遅いわけではなく、知覚が遅れるくらい動作の粒が滑らかなのだ。そうしてそれは、いまこのときとても意味のあることのようだった。HiMERUは自身の膝に鴇色の頭を乗せたまま目を一度伏せた。挨拶がわりということだろう。
 燐音は背負っていたリュックを壁に寄せて、なるべく音を立てぬよう二人へ近づいた。HiMERUはスマートフォンを取り出し、手早く何か打ち始める。やがて画面を、「見ろ」というように、燐音に向けて突き出した。先とは比べるまでもないぞんざいさに思わず吹き出す。何を笑うことがあるのかと、不機嫌そうに睨むHiMERUは、画面に焦点を合わせているせいでぼやけている。
『今日は駄目かもしれません。熱が高いです』
 駄目なのも、熱が高いのも、HiMERUのことではないだろう。HiMERUは燐音にスマートフォンを向けたまま、母が子供を慈しむような穏やかな顔をして、横たわる小柄な少女に視線を落とした。頬にかかった髪を避けて耳の後ろに流してやり、脈を測るように首筋に手を当てている。甲斐甲斐しいことだが、こはくはHiMERUの腹側に顔を向けて横になり、身を守るようにして背を丸めて身じろぎもしない。燐音の入室に気付いているのかいないのか、どちらにせよ反応を返す余裕がないということだ。あらわになった横顔は若干浮腫んでいて、頬がのぼせたように赤く染まっている。
「こはくちゃん」
 そっと頭を撫でると平素より随分と熱く、髪が汗で湿っていた。ゆっくり目を開けたこはくが、顔を上へずらすように傾けて、声の主を探るように目玉をわずかに動かした。潤んだ瞳の奥が暗く揺れて、蛍光灯を反射してきらりと光る。目の淵も、やはり赤い。うっすら隈もできている。
「こはくちゃん、今日は帰ろっか」
「……り……ね、はん」
「ハァイ、燐音ちゃんです。起きれる?」
「…………あ、?」
「無理そうだな」
 この体調なら休むことも考えただろうに、こはくはレッスン室にやってきた。
 見学くらいならできると踏んだのか。それにしても、今日は一段と調子が悪そうだ。咳などはしていないようだけど、風邪やインフルエンザも疑った方が良いかもしれない。ここ数日でにわかに冷え込んだので、身体が追いつかないだけかもしれないが。
 表情を険しくした燐音に「来たときはまだ座っていられたんですよね?」と、動けないこはくの背を擦ってやりながら、HiMERUがフォローを入れた。それから、顔色を窺うように燐音を見るので、別に怒っているわけではないと、軽く肩を竦めてみせた。
 こはくには自身の体調について留意するよう常々言いつけているが、慣れない外での生活と術後殆ど放置されていた後遺症の抑制、これらを一朝一夕にできないことは理解している。
 自立を促した頃と状況も異なる。燐音はしばらくこはくを見てやれる位置に居るし、ユニットを続ける腹も決まっている。
「病院連れてくわ。ニキ来たら先に練習しといて」
「わかりました」
 聞いているか定かではないけれど、こはくの負担にならないようにと考えて、そういう言い方になった。全体で合わせなければフォーメーションの確認はあまり意味がないだろう。燐音が病院へ付き添ったあと練習室の時間が余っているとも限らないが、HiMERUも心得たというふうに頷いている。こうなることを半ば見越していたのだろう。どう有意義に時間を使うか思案していたようだ。そうですね、と、今日やることを順序立てていく。
「今回の曲は椎名とユニゾンが多いので、そこを重点的に合わせておきます。あとは細かい振りの確認を。録画しておくので、あとで共有しましょう。気にせず行ってください」
「さっすがメルメル! 頼もしィ〜♪ 時間になったら帰って来なくても上がって」
「荷物、置いて行けるものは置いて行ってください。戻らない場合は寮に返しておきます」
「任せるわ」
 まったく、はじめに比べるとえらく協力的になったものだとおもう。
 燐音はスマートフォンを取り出し、アドレス帳を呼び出した。かかりつけの病院まで電車で連れて行くのは厳しいだろうから、タクシーを呼ぶなり事務所の車を借りるなりしなければならない。仕事が増えてきている時で良かった。こういうとき、つくづく稼げるときに稼いでおくものだと実感する。
 助けを求めれば誰かしかが助けてはくれるだろうが、外に借りを作るのも弱みを見せるのもなるべく避けたい。いまだ自分達の立場が危ういことは承知している。
 HiMERUが脇に置いてあった和柄の巾着袋を燐音に差し出す。寮からジャージを着て来たのだろう。最低限の持ち物しか入っていないそれを漁り、こはくの財布を取り出す。保険証と診察券を確認してから巾着に戻し、燐音は自分の黒いバックパックに突っ込んだ。前に提げて、浅い息を繰り返すこはくをHiMERUから背で引き取る。力の抜けた身体をどうにか担ぐと、服越しにも伝わる異様な熱に少し怯んだ。
 ——40℃近くあるんじゃねえのこれ。
 何でこれでいけると思ったんだよ。思わず苦笑してしまう。HiMERUと話しているうちに回復するかもしれないと考えたのか。確かにいつも通りなら、その判断で良かったのだろう。
 燐音は残留し、HiMERUは以前よりユニットの活動に積極的になり、ニキですら、最近は真面目にレッスンを受けている。忙しくなってきたところで、自身の足りないところが気になって、焦りを感じるのかもしれない。あるいはもっと単純に、一人で部屋に居たくなかったか。同室のジュンは多忙で、部屋を空けていることが多いようだ。学校に通っていないこはくの日常は地続きで、誰に会うにもこはくが自主的に動かなければ難しい。仕事やレッスンがない日は自室に籠っていることも多く、誰もが知っていることを後日たずねてきたりするので、ユニット内でも意識して声をかけるようにしていた。
 いずれにせよ、まだ時間はある。
 幸い今日は練習で、次も、その先も、こはくには用意されている。
 そういうことを、ちゃんと覚えていけたらいい。


「桜河さんの付き添いの方ですか?」
「はい」
「先生からお話があるようですので、診察室へお願いします」
「わかりました」
 呼び出された診察室にこはくの姿はなかった。椅子に座るように促されて、前提げのままにしていたリュックを抱える態勢になる。こはくとの関係を聞かれて、「ユニットの、仕事のリーダーです」と答える。改めて聞かれると、どう答えたものかわからなかった。関係性の希薄さにそぐわず、こはくの内情を知っている不自然さが、清潔な白い部屋で浮き彫りにされる気がした。
 医者は、なるほどと、特に気にした様子もなくレントゲンを見て、説明書を読み上げるような抑揚のない声で続ける。こはくの主治医は、燐音からしても親ほど年が離れているように見えるが、母親のようなあつみを感じない線の細い女医だった。
「骨に異常はありませんが、胸部と腹部に人為的な痣がありました」
 そう告げられて、ああ、それでか、と納得する。それでレントゲン。なるほどね。
 DoubleFaceの仕事でついたものだろうか。最近のこはくのスケジュールを思い出そうと記憶を辿っていると「本人に確認したところ、性行為によるもので間違いないようです」と続き、思わず「は?」と声をあげてしまう。
 聞かなければいけないだろうか。というより、聞かれたくないのでは。こはくは承知しているのか。
 燐音の逡巡が伝わったのか、女医はカルテから顔を上げて「付き添いの方へ話すことは本人に伝えてありますので」と付け加えた。
 ——なに了承してくれちゃってんのよこはくちゃん。
 頭の中で、しゃあないやろ、と肩を竦めるこはくが過ぎる。確かに事情は知っている。知ってるけどさァ。
 あまりこういう、生々しいことを聞きたくはなかった。
「発熱は膣や尿道の粘膜が傷つき、そこから炎症を起こしているためです。奥の処置室で解熱剤と抗生物質を打っています。熱は三日前後続くかとおもいますが、一週間ほどで落ち着くでしょう」
 お大事に。そう締められて、いつもの薬と、今回の処方の注意点をこはくの代わりに聞いておく。燐音が礼を言って頭を下げると、今までの機械的な物言いから俄かに年配の憂慮を滲ませて「親元を離れて生活しているようですが、必要があればご家族や、近しい人と相談してくださいね」なんて言われてしまう。年若い人間に寄り添うような目で見つめられて、居心地の悪さを感じながらもう一度頭を下げた。
 相談って、誰にだ。上役にあたる蛇ちゃんか、もう一つのユニットのリーダーか、親戚のお嬢ちゃんか。誰にでも言いやすいことではないし、こはくとて、本当なら誰にも知られたくなどないだろう。知られてしまうなら仕方ないと、諦めているだけで。とりあえず、同室のジュンには、看病を理由にしばらく部屋を変わって貰った方が良いだろうか。どちらにせよ、詳細なことなど話せやしない。燐音だってこはくのことなど、本当は何も知らないのだから。
 診察室の奥へ通されると簡易ベッドがあり、こはくはその上に仰向けに横たわっていた。黄色と透明のボトルが一つずつ吊り下げれて、管が剥き出しの腕まで伸びている。小柄な身体を、看護師が用意してくれたパイプ椅子に座って眺める。運び込んだ時より幾分顔色が穏やかに見える。額に手を当てると、瞼が震えて持ち上がった。
「少し下がったな」
「……迷惑かけたわ」
 先より幾分はっきりとした応えがある。
「こはくちゃん、昨日なにしてた?」
「家の用事やったんよ」
 聞かれることをわかっていたのだろう。こはくは目を潤ませながら、用意した回答を燐音に渡した。頑なな顔をしているなと、燐音は苦笑した。
 嘘は言っていない。これ以上は言えない。
 偽らないこはくは強かったが、それは正しさとは裏腹に歪みを伴った強度だった。そういう、脆さと一体のものにどうやって介入するか、最初を間違えてしまったから、燐音はいまだに掴めていない。これはすこし、燐音自身が情けないとおもっていることだった。大人気ない。相手は妹よりも年が離れた少女だというのに。
「言えないこと?」
「うん」
 こはくは短く返事をして、小さく苦し気な息を吐く。こういうときに何もしてやれないのは、無力感で気持ちが翳る。妹が病に伏せったとき、周囲の大人に近寄らせて貰えなかったときのことを思い出す。実際近くに居ても何もできないのが今なので、どうしようもないことだと頭ではわかっているけれど。
 手慰みに、練習用に持ってきたタオルでこはくの汗を拭っていると、襟ぐりから見えるか見えないかの肌が変色していた。暴力のあとを形にして見せられて、すっと冷えた気持ちになる。
 どうしてこはくがこんな目に合わなければいけないのだろう。こはくでなければならない理由が、燐音にはわからない。
 きっとこはくも、正しく理解しているわけではないだろう。ただ、そういう仕事、役目だと割り切って、それを受け入れてしまっている。嫌々どころか、まるで誇らしいことのように胸を張って見せたりする。燐音はそうされると、無性に腹立たしくて、我慢ならない。一層、こはくが大切にしているものすべてに毒を流して、内側から腐らせて機能不全にしてしまいたくなる。それでこはくがどれほど苦しもうが知ったことではない。壊してしまえと、頭の中で声がする。こはくのためではない。誰のためにもならない。全て燐音が気に食わないというだけのことだった。
 胃の腑が焼けるような不快感を呑み込んで、今はまだだめだと自制する。燐音はこはくに笑いかける。
「こはくちゃん、何かしてほしいことある?」
「はよ戻って、練習してほしい」
「きゃはは! 燐音先輩はみんなより覚えるの早ェーから問題ないのよ」
「……覚えが悪ぅて、すまんかったな」
「餓鬼が妙な気ィ遣ってないで休みな。そんで治ったらせっせと練習しろ」
 こはくは瞬きとともにわずかに頷いた。子ども扱いするなと怒る気力もないのか、現状反抗する材料が見つけられないのか、悔しげに引き結ばれた口元を見て、どちらもだろうなと少し呆れる。負けん気が強いにもほどがある。それでも目元を手で覆ってやれば、されるがまま瞼をおろした。
 こはくの身体は中も外も傷だらけで、燐音はどうやって触れて良いか、不意に惑ってしまう。そのため、普段はHiMERUがうまくやっているようだから、殆ど任せてしまっていた。
 こはくのように粗末に扱われてきた人間を燐音は知らない。子供を産むことができる女は、故郷では大切に扱われていたから、女だからという理由でそういう道具にされるなんて、都会に出てくるまで考えたこともなかった。しかしこはくは、汚れているとは言っても、傷ついている自覚はないようだった。肉体的なこと以上に精神的な面で、こはくはどこまでも痛みに無頓着だ。頑なで、強かで、そこに揺らぎは微塵もない。大概のことは顔色一つ変えずこなしてみせた。限界はあるのだろうが、それがいつ訪れるのか、燐音には見当がつかない。そう遠くないことかもしれないし、ただの杞憂で終わるかもしれない。
 それでも燐音は、こはくと過ごす時間の大半、いつかのそのとき、どう対処すべきかを考えている。本人が自覚していないものを癒すことは難しい。何が慰めになるのかも。燐音がニキとやっているようなことが救いになるともおもえない。あれはあれで歪んでいると思う。流されている自分も大概だけれど。
(それは、いい。今は)
 今はただ、この子供を少しでも楽にしてやりたかった。壊したいと守りたいは、燐音にとっていつだって矛盾なく、一番近いところに隣り合っている。
「……なぁ、燐音はん」
「ん?」
 掌を睫毛が擽る感覚に退けると、熱に潤んだままの瞳が訴えるような切実さで燐音を見上げる。
 何だ。何を伝えたい。
 こはくの手が、何かを探るように施術用の固いベッドの上を動くので、先を促すように握ってやる。こはくはそれに、ほうっと息を吐き、ゆるゆると口を開く。
「わしのことで、怒らんでな?」
 燐音はわずかに目を見張り、やがてゆっくり細めた。乾いた笑いが自然と漏れて、それを誤魔化そうとして、失敗した。ア〜と声を出して頭を乱暴に掻く。こはくは何だか、呆れたような、仕方のないものを見るような顔をしている。そうだった。この子供は、まだ自身のこともわからないくせに、他人を見透かすようなことを言うのだ。
 やめろやめろ。そんな目で見るな。だから虐められんだよ。
「場合によるっしょ」
「怒らんで良ぇよ? ぜんぶ、自分で決めたことや」
「……こはくちゃん、逆だったらキレんじゃん」
「それはそれ、これはこれじゃ」
「ふはっ 勝手過ぎ」
「ぬしはんには言われたないわ……」
 巻き込んだ子供。
 無論、こはくが自分で云った通り、望んで巻き込まれた飛んで火にいる働き蜂なので、過剰に負い目を感じたことはない。責任は取るつもりだったし、段取りは慎重に組んだ。それは結局、こはくの意志で無駄になってしまったけれど。
 それでも、感謝しているのは本当だった。引き留められたときは、正直なにがそこまでこはくの怒りに触れたのかわからなかった。それでも詰られて、怒鳴られて、ああ多少は懐かれていたんだなと、すべて捨てて逃亡しようとしていた己の勝手が、そのときは今更にばつが悪かった。やり切ったつもりで、随分と半端なことをしてしまった。
 こはくの手が、燐音の手を握り返す。燃えるように熱く、強い手だった。
 ああ、この手だ、この手が悪い。
 燐音は確信した。
「なぁ、怒らんで」
「……わかったから。もうちょっと寝てな」
 きっと最初に手を繋いでしまったからだ。
 電車からホームに降りるとき、手を引いてしまった。燐音にとっては最低にしか思えない行為や仕打ちを、辛いことだとも自覚できぬまま話すこはくがあまりに幼くて、故郷に置いてきた妹と重なった。傲慢に憐んで、捨てるはずのものに寄り添ってしまった。
 あれがいけなかったのだ。
 縁があそこで繋がれた。
 そうして繋いだものを、燐音もこはくも無碍にできない。