黒点




「申し訳ありませんでした」
「んえっ……? ちょっと、やめてやめて! 頭上げて?」
 ニキがやめてと云っても、HiMERUは頭を下げたまま、その場でこちんと固まってしまった。さぁ、召し上がれと並べた料理は、手付かずで放置されている。一番おいしいときに食べてもらえないことがニキはとても悲しいので、謝るくらいなら早く箸をつけてほしかった。
「……だって、あなたというものがありながら、HiMERUは不貞を働いたわけですから」
「あー、あー! いいっすよ、そういうのは、良いから! ほら、冷めちゃう前に食べよ?」
 神妙さに耐えられなくて、あと食べることも我慢できないので、ニキは気にしてないよと、ぶんぶん手と頭を横に振って伝えた。HiMERUは下を向いたままなので、ニキが必死に伝えていることの半分も受け取ってはくれないようだ。困ったな、とかちょっと面倒くさいな、とか薄情なことをおもって、ただそれよりもお腹がすいていたので、大変気が引けたのだけれど、先にいただきますをして食べ始めた。うん、おいしい。しあわせ。HiMERUも早く食べていつものようにあの長ったらしく丁寧な感想をニキに伝えてくれればいいのに。ニキの料理を食べるHiMERUが話す蘊蓄は、一番ニキが理解できるHiMERUの話なので、純粋に相槌を打てることが楽しい。
「筑前煮もどき、味染みてて美味しいっすよ」
「……」
「買い出し行けなかったからありものっすけど、あとポテサラ、HiMERUくん胡椒多めが好きっすよね」
「……」
「24時間営業のスーパー、やっぱ近くにほしいな」
「……」
「あっ佃煮はね、店長から貰ったの。タッパーにまだあるから、早めに食べて」
 食べて、喋って、食べて、喋って、ぜんぶ一人でやっていると、しあわせも薄れてだんだん寂しくなってくる。黙り込んだHiMERUをちらりとうかがう。HiMERUは微動だにせず、箸は箸置きを枕に寝そべったままだ。あれ、頭は手に持つ方なのかな。浮腫み対策だと、HiMERUがリビングで足上げ体操をしていたのを思い出して、ちょっと笑う。ぴくりとHiMERUの肩が震えて、恐る恐るといったふうにニキを見た。
「ちがうちがう。HiMERUくんを笑ったわけじゃないっすよ? いや、HiMERUくんのことで笑ったんすけど」
「……それは別に、構いませんが」
「構わないんだ⁉ や、そうじゃなくて。なくなっちゃうっすよ?」
 うろうろとまた視線を下げたHiMERUが、食卓の惨状に目を見張った。一緒に暮らすようになってからニキの毎月の食費を聞いて唖然としていたが、二人分用意してもらっているのだからと、律儀に半分払うと言ってくれた。それはさすがに申し訳ないので、今のところ三割を負担してもらっている。別々に摂ることもあるし、付き合いの外食も多いので、こうして二人で食べられるときくらい、きちんと食べてほしい。ニキは咀嚼の合間、息継ぎにこっそりため息を混ぜた。
 みるみる量を減らしていく皿を目の当たりにして、とりあえず、食事だけでも済ませた方が良いのかと、HiMERUが逡巡したのがわかった。
 そうそうその調子、ほらお箸持ってー! と心の中で声援を送る。
 しかしニキの声援虚しく、HiMERUは結局、また俯いて動かなくなってしまった。あーん! 惜しいっ! と声でもあげたくなって、実際、顔には残念さが滲み出ていたとおもう。HiMERUはやはり見てもいないので、気付かれることはなかったけれど。
「ねえ、もういいっすよ、頭上げてください」
 仕方がないのでもう一度促した。
 本当は、腹が膨れてきた今になって、良いのかどうか、少々疑わしくなってきている。けれどもニキの足りない頭でどう考えても、どうにもならないことには違いないので、もう良い、とおもうことにした。
 もういいよ、という自分の平べったい声を聴きながら、腹の中で這い回る黒い虫を潰した。次々にあらわれるよくないものを潰して殺して噛み砕いて、ニキはそれなりに真剣に、その作業に没頭した。
 ニキがなにか言うたび、HiMERUの痩せっぽちの身体が強張るのがわかった。膝のあたりで拳を作って、彼は彼自身の嵐が過ぎるのを待っている。HiMERUの感情は、HiMERUの言葉より随分とわかりやすかった。いまは苦しくて、怒っていて、たぶんかなしい、のだとおもう。怒らないニキにも、自制の効かない自身にも。
(でも、だって、ねえ?)
 HiMERUが気にしていることは、異性との交際であったなら問題になるのかもしれなかった。あるいはダイナミクスによる結びつきであれば、より深刻だったかもしれない。そのどちらでもないニキたちの「好き」と「好感が持てる」と「いっしょに住もう」と「食費出します」が、果たしてどう意味を持つのか、ニキはまだ正確に理解できていない。子供ではないので、一応これが自分たちなりの交際として成り立ち、関係として始まっていることはわかる。だから謝るHiMERUを「なに言ってるの?」と笑うつもりはなかった。ただ世間的に当てはまる関係が少なく、手引きのようなものが不足しているので、何がいけないことで、何がよいことで、そういう線引きは、正直よくわからないのだった。
 それでも、付き合いはじめて三ヶ月もしない間に起きた今回の出来事で、HiMERUなりに頭を悩ませて、結果こうして頭を下げているということは、彼にとってはいけないこと、という結論なのだろう。ニキにとってはすこし違うので、このようなちぐはぐな現状となっている。
「ねえ、HiMERUくん。例えばさ、僕がそれやめてって言って、やめられる?」
 食事の合間、ついでのついで、くらいの雑談として、ニキは続ける。なるべくあっさりと、何も考えないようにして喋った。いつもそうしているのだから、できるとおもった。ニキはこの話を、深刻にするつもりがなかった。
「やめられないでしょ? なら、何言ったって、仕方ないじゃないっすか」
 それからいつも通り、ニキは口角をあげた。笑顔はよく褒められるので、意見を通したいときや困ったときは、とりあえず笑っておく。笑っていると、何だかどうでもよくなるし、機嫌も良くなるし、周りもつられるように笑うし、お得なのだ。そろそろ食べるのをやめないと、本当にHiMERUの食べる分まで手を付けてしまいそうだ。目測で、これくらいとした分量を、最後自分の取り皿に入れて、名残惜しくそれを箸で摘む。艶のある味の染みた筍を、かわいいな、とおもう。かわいくてたべちゃいたいとは、まさにこのこと。
「HiMERUくんのこと好きでも、僕もほら、HiMERUくんよりご飯優先することなんてしょっちゅうだし、今もそうだし、だからそういう命に関わることはさ。お互いノーカンってことで」
 言い終わると同時に、手持ちのエネルギー源を口の中に放る。
「ねえ、本当に全部たべちゃうっすよ?」
 意地の悪いことを言って、上目遣いでHiMERUを見つめる。こういうニキのことを、HiMERUはかわいいとはおもわないだろうけど、笑ってもどうしようもないときの癖になっていた。燐音に何か頼み事をしたいときとか、ファンの子に向けてだとか、こうやって幼い仕草をすると喜ばれるので、やはりこれも、話が早いのでやっているだけだ。すっかり身体が大きくなってからは、燐音にはかわいくないと云われるし、ユニットではこはくが後を継いでいるので、最近はあまりやっていない。
 HiMERUはすこし遠い目をして、ゆっくりと肩の力を抜いた。それから閉じたように、ふっと『HiMERU』の顔をした。いつも通りを装っているけれど、まだ落ち込んでいるのはわかる。それも含めて、ニキからすれば、いつも通りだった。いつも通りHiMERUは、かっこよくて、おもしろくて、かわいかった。かわいくて食べちゃいたいとは、まさにこのこと。だけどいなくなってほしくないから、ニキはHiMERUを火で炙ったりはしないのだ。
「……食事の前に、つまらない話をしてすみません」
「うん、召し上がれ。先食べちゃってごめんね」
「いえ、HiMERUが、悪いので」
「真面目だなぁ」
 仕方ないなぁ、と笑う。HiMERUもまだ居心地悪そうにしていたが、口の端をにわかにあげて、「いただきます」と手を合わせた。やっとごはんを食べてくれる。箸を持ったHiMERUにニキは目を細め、口の中のものを飲みこんだ。咀嚼されて跡形もなくなった筍が、どろどろになって胃に落ちていく。腹の中を潰したはずの黒い虫が、うぞうぞと這いまわる心地がした。落ちる先には亡骸は見当たらなかったので、身体を半端に潰されたまま命からがら生き延びたのだろう。きっと回復するまでニキの内側のどこかしらに隠れ住み、いずれ大きく硬く進化して、油断しきったニキの前に再び姿を現すのだ。そうなってしまうと、ニキにはどうすることもできない。
 それがわかっているから、本当なら、今この場で腹をさばいて、始末した方が利口なのかもしれなかった。でもそんなことをしては死んでしまうし、HiMERUはもしかしたら泣いてしまうかもだし、折角の栄養も垂れ流しになってしまうので、ニキは笑って味噌汁を啜る。
 笑っていれば何とかなるし、腹がいっぱいならどうにでもなる。その上で、傷ついた恋人が自分の作った煮物を食べて、ほっと息を吐く姿など見られたなら、ニキはもう何も要らない。ごはんはおいしくて、恋人はかわいくて、おなかがいっぱいで、しあわせだ。だからそれ以上のことは、今は考えなくて良い。