擦過





 HiMERUは必要書類と練習着をバッグに詰め、まだ寝入っている同室者を起こさぬよう、開閉音に気を遣いながら廊下へ出る。南雲は早朝にロケへ向かい、入れ替わりで鳴上が深夜の撮影を終えて帰宅していた。手に持った端末には『AM9:36』と表示されている。事務所はそれほど離れていないので、時間に多少ゆとりがあった。玄関へ向かう途中、共有スペースのウォーターサーバーで水を貰い、処方された抑制剤を飲む。HiMERUのダイナミクスに合わせて調合されたものだった。
(そろそろ予約入れないとな……)
 不調が続いている。秋も深まった頃、ユニットの活動と他事務所と連携した仕事が重なり、不規則なスケジュールが増えてきた。そのためメンテナンスに時間を取れていないことが、あらゆる不調の原因であると気付いている。
 とはいえ、睡眠も食事も、生命維持に必要分はつとめて確保しているので、大方ダイナミクス由来のものだろう。俯瞰して、苛立っているとわかるし、散漫な時間や思考の空白が目立ってきた。どちらかといえば攻撃的になっているので、今の自分はDom性に偏っているようだ。
(10:00打ち合わせ、12:00ライブリハ、合間にコメント取り、18:00雑誌撮影——)
 今のところ、仕事への影響はない。偶発的な何かがなければ、自身の中でやり過ごせる程度の不調だ。念のため燐音や、とくにこはくとは距離を取って行動しよう。打ち合わせはともかく、リハーサルでメンバーを避けるのは難しいから、うまいやり方を考えなければならない。ひとつひとつは瑣末なことだが、行動が制限されることにわずかに焦れる。
今週は、Edenと現場は被っていないだろうか。
他にダイナミクス持ちの同僚たちと入っている現場はないか確認しながら、果たして薬の残数はいくつだったっけと、HiMERUは青白い錠をぽつぽつと脳裏に浮かべた。

 事務所のエレベーターホールは、職員の出社の時間を外したため閑散としている。上へのボタンを押す。待っているあいだ、次の休みに合わせてクリニックの予約を入れた。ESアイドル専用の医療機関なので、融通が効いて機密性は高い。自身の状態が事務所に筒抜けになるのは不便なこともあるが、今のところ利点の方が大きい。
 階数を示す1の数字が明滅して、チンッと鳴きながらドアが左右に開いた。そこに
「おや、HiMERUさん。奇遇ですな」
 中から風早巽があらわれた。
「……巽」
 ——こんな時に。
 間の悪さにおもわず舌打ちしそうになる。あと五分遅いか早いか、それだけで避けられたはずなのに。偶発的な何かの中で最悪なもので、さりとて予想できた最悪だった。こういう小さな奇跡や災厄を簡単に起こしてしまう男だから、HiMERUはやはり、この男が嫌いなのだった。この感情は、弟への感傷とはわき出る場所が違うものだ。もっとプリミティブなところで、HiMERUは極めて個人的に、この男を嫌っている。しかし、どこに目があるともわからない。今は『HiMERU』であるので、HiMERUは儀礼的に笑みを作る。
「お疲れ様です。それでは」
「ああ、お疲れ様です……HiMERUさん」
「まだ何か」
「顔色が少し……いや」
 巽は表情を曇らせながら云い淀み、しかし意を決したように続ける。
「俺に何か、できることはありませんか?」
 脳が理解を拒否して、ドアが閉まるのが遅いなと、気を遠くにやりながらぼんやりおもった。よくよく見れば巽が、エレベーターのドアを止めていた。ボタンを押すでもなく、片方のドアを直に手で止めていて、相変わらず野蛮な奴だとおもう。優しいのかもしれないが、穏やかだとおもったことは、一度もない。今も昔も出会った瞬間から、この男は激情家だった。
(『俺』に、手を差し伸べられても、なぁ……)
 これは弟が求めた半身だ。求めてはいけないものだ。
 嘲りと、わずかな羨望と、それから弟の代理として、HiMERUは巽に微笑む。苛立ちを隠せているかは、もう、わからない。八つ当たりでもなんでも、この男にはなんでも、それこそすべてをぶつけて良いような気になってしまう。そんなわけ、あるものか。そういう理性すら、目の前の男が笑うと、鈍器で頭でも殴られたみたいに、すべて失念してしまうようだった。
「いいえ、何も」
「……そうですか」
 人は誰しも『HiMERU』が笑えば笑うのだ。時に涙を流したり、声を失ってしまう人や、恋に落ちてしまう人も居る。それはさておき、HiMERUが笑えば風早巽もHiMERUに微笑む。当然の返礼である。それにしても、ああ、朝から嫌なものを見た。
 HiMERUは拳をそっと握る。痛くも痒くもないのに、何かを堪えるような気持ちになった。
「手、退けていただけますか? 予定に遅れてしまいます」
「ああ……、これは失礼しました。それでは、良い一日を」
 当然のようにHiMERUの幸福を祈り、巽はドアから手を退けた。恥じらうように笑って、手を軽くあげる。そんなだから利用されて、挙句ボロ雑巾のように捨てられるのだと、HiMERUは心の中だけで嘲った。
 (懲りろよ)
 拳を開いて、十八階のボタンを押す。そのあと閉じるボタンを、勢いあまって二回押した。放っておけば閉まるのだから、わざわざ何度も押す必要はなかったのに。自嘲して、会釈のために下げた視線のまま、ドアの縁が左右から迫る様子をじっと見ていた。完全に閉ざされ、床が如才なく上昇し始めたところで、はぁ、とおおきく息を吐く。
 顔をあげても、そこにはすでに風早巽は居ないので、HiMERUはやっと、どんな表情をしても許された。
 このドアが再び開く前に、HiMERUは『HiMERU』の顔に戻らなければならない。
(——仮に、風早巽を支配したとして、虐げたとして、虐げられたとして、支配されたとして……)
 HiMERUは思考を遊ばせる。どうとでもなってしまえと、半ば自棄を起こして奔放になろうとした。気分を変えたいのだ。悪い兆候だと、冷えた部分で判断する。本能性に引き摺られているから、こんなことを考えているのだ。満たされるわけもないのに、どうしようもなく不毛だった。
(薬を飲んできて良かった)
 七種に口を利いてもらって、クリニックの予約を今日ねじ込んで貰おうか。時間外になってしまうが、これは早めに対処した方が良いだろう。『HiMERU』を損なうなんて、万が一にもあってはならない。そのためなら、恥などかき捨てて、使えるものはすべて使ってやる。



 通しのリハーサル中、強い眩暈を覚えた。曲が鳴り止んだタイミングで舞台袖に捌けて、奈落へ降りてから座り込む。ポケットから抑制剤を取り出し、用意していたペットボトルの水で嚥下する。一日の摂取量は守っているので問題はないはずだ。
 次の曲が始まるまでに、壇上に戻らなくては。本番さながらの練習による疲労とは別種の、いやな動悸をHiMERUはやり過ごす。演出や、照明の角度を確認するためか、曲は止まったまま、ステージが赤や青にくるくる染まっている。燐音とこはくが、蓄光テープを目安にしてそれぞれ舞台の端と端に立ち、一つずつ中央までずれ、それを前から後ろまで順におこなっている。途中マイクに何か語りかけながら、身振りで遠くのスタッフとやり取りをしているのが見えた。
 そこで気付く。ひとり、足りない。
「大丈夫っすか?」
「…………椎名」
 ぼうっと眺めていた壇上の光景にぬっと影が割り込む。どうやら同じタイミングで降りてきたらしいニキが、HiMERUの意識を確認するようにひらひらと手を動かしている。
「調子悪いなら抜けちゃえば? HiMERUくんなら後からでも大体わかるでしょ」
「いえ、少し眩暈がしただけで」
「そう? 僕も休憩するっす!」
 そう言って隣に座り込み、壁際にまとめていた個人の持ち物から、食料の入った大袋を取り出した。中を確認もせず手を突っ込んで、手当たり次第に包装をやぶって口に放り込んでいく。勢いよく咀嚼と嚥下を繰り返しながら、視線をちらりとHiMERUに寄越す。
「ちゃんとごはん食べてます? だめっすよ〜忙しいからって抜いちゃ」
「あなたの基準で言われましても」
「まぁ僕は異常っすけど」
 ニキは食べるついでのように喋る。ごくごくと水を飲み、空になった袋を元の大袋に適当に放り込み、また新しい菓子パンを取り出す。投げっぱなしの自虐に、HiMERUは閉口してしまう。どう返したところでニキは気にもとめないだろうけど、HiMERUがただ、この手の乱雑さに慣れていないのだ。
「……HiMERUは個人差の話をしています」
「なはは〜フォローしてくれたっすか? ありがとね」
 あるいはもっと醜悪であれば、それは見慣れたものだったけれど、どこまでも軽やかに雰囲気だけは友好的なので、HiMERUがひとり、きまりが悪くなっているだけだ。ありがとう、と言われるような正しい返答ができたとはおもえない。他の可能性を頭の中だけに並べていると、ニキがはっ、と声に出して、おもむろに顔を近付けてきた。
「もしかしてダイナミクス系の不調っすか?」
 ふんふん、とあたりを嗅ぐような鼻を動かして、ニキは上目遣いでHiMERUを窺う。匂いでわかるものなのだろうかと、HiMERUはやや目を見開いて、それとは別に、汗の臭いが伝わるのを忌避して後ろへ下がる。見合って数秒、何も答えないでいると、ニキは一人で「あ、そうなんだ」と勝手に納得した。否定するのも今更なので、HiMERUは首肯する。
「辛そうっすね」
「薬は飲んでいるので、そこまででは」
「スイッチの人ってどうすると楽なんすかね」
 首を傾げるニキの隣で、HiMERUは小さく息を吐いた。楽になる方法なんて、適切な相手と欲求を解消する以外方法はない。決まった相手がいればその相手を呼べば良いが、生憎HiMERUにそういった相手はいない。
「お気遣いなく。今日の夜か、明日の朝か、どちらかでクリニックの枠を融通してもらうので」
 放っておいてほしい、と伝えるために、HiMERUは言葉を重ねる。担当医師の紹介で常駐のカウンセラーに疑似的なプレイを施してもらい、処方薬を頓服で服用していれば、いつもは問題なく生活できている。今までは時間があったので、必要なときに通院が可能だった。
(今後は難しくなるだろうけど)
 新曲のリリースやライブ活動に加え、バラエティ収録、雑誌撮影、映画やドラマは長期でESを離れることもあるのだから、対策が必要だった。現場が増えれば、外部のダイナミクス持ちとの接触もおのずと増える。Switchはいずれの性にも対応するため、良くも悪くも影響を受けやすい。幸い、HiMERUの欲求値はそれほど高いものではなかったが、もっと即効性の高い薬を貰っておくべきかもしれない。
 薬がまわりきるまで、汗をぬぐいながら先を思案していると、ニキはHiMERUの顔を覗き、難しい顔をした。またひとつ食べ終わった菓子袋をくしゃりとまるめて大袋に入れなおしている。
「やっぱ休んでなよ」
「そんなに悪いですか……?」
 自分の顔や首を触って確かめていると、バッグを元に戻していたニキが、「そうだ!」と声をあげる。
「こはくちゃんと燐音くん、どっちの気分すか? 呼んでくるっすよ」
 一瞬、意味がわからなかった。
 反芻して、怒りと羞恥が染み出すようにじわりと溢れた。今にも駆けだして、檀上の二人を呼ぼうというニキの脚に縋りつく。
「やめてください……っ そんな言い方」
 絞り出した声は震えて、情けなく上擦っていた。
 心臓がばくばく血を吐き出して、視界が貧血を起こしたときのように白んだ。ニキを引き留めるHiMERUの手はさらに白く、肌は冷たい汗をかいていた。座っていただけなのに、全速力で走ったあとのようだ。ああ、なるほど。情緒が乱れやすくなっている。確かに、状態としては悪いのかもしれない。
 自覚できていなかったことに動揺して、うまく落ち着くことができなかった。大きな声を出したからか、足音が近づいてくる。聞きなれた靴底の摩擦音がキュッと頭上で止まり、まもなく声が降ってくる。
「オメーら何かありましたかァ〜? ……って、どうしたよソレ」
「あ、燐音くん……」
 声の位置的に、燐音は階段の上から奈落を覗き込んでいるのだろう。それ、というのはおそらくHiMERUのことだ。一瞬むっとして、何か言ってやろうかと逡巡した。実際は、いま顔をあげるなんて到底できやしないので、唇を噛んでやり過ごす。こんな不安定な状態で、Dom性の人間と相対したくない。掴んだままのニキの脚が揺れて、手振りで何か伝えているのがわかった。
「ううん、休憩してるだけっす。お腹すいちゃった」
「……フーン、あっそう。いま照明と音響の調整してっから、曲かかったら戻って来いよォ」
 燐音は深く追及せず、次第に足音は遠のいた。あまりこちらに構っていると、こはくまで来てしまうので、それを止めてくれたのだろう。不審におもっただろうに、迷惑をかけている事実が、じくじくとプライドを突いて、より惨めな気持ちになる。
「ほら」

「燐音くん行ったっすよ。立てる?」
「……」
 HiMERUが首を横にふると、ニキはもう一度その場でしゃがみこんだ。HiMERUの頬を両手で挟むようにして覗き込み、うーんと唸る。顔をじろじろと見られるのが不快で、HiMERUはまた下を向く。
 「……どうしよっかぁ」
 たずねるというよりは、嘆くふうにニキがぼやいた。HiMERUは床を見つめたまま、どうもなにも、と失笑した。ほんのすこし、一人にしてくれさえすれば持ち直せることはわかっている。薬効も高まる頃合いだし、ニキはダイナミクス持ちではないのだから。

 一度は爆ぜた感情の波が、いまではすっかり凪いでいた。身体が追いついていないだけだ。深呼吸して、それから伏せていた顔をあげる。ニキはしゃがんだまま眉を八の字にして、HiMERUの様子をうかがっていた。むにっと閉じられた口のあいだから、ん〜だとか、い〜だとか、変な鳴き声が漏れている。
 ああ、もう大丈夫だ。問題ない。
 じっとニキを見つめ返しても、ニキは首を傾げるばかりで察してはくれないので、HiMERUはきちんと言葉で示さなくてはならない。
「もう大丈夫ですから、先に行っててください」
 言いながら、彼らなら、と思考がそれた。ニキは燐音と、どのようにやり取りしたのだろうと、そんなつまらないことが気になった。アイコンタクトと、ジェスチャーと、あとはなんだ。読唇? いずれにせよ、ニキは燐音に放っておくように伝え、燐音もそれを了承したのだ。ステージでも日常でも、彼らのコミュニケーションは言葉にばかり依らない。ニキは感覚的であるし、燐音は言葉巧みだが率直さに欠けるので、共有するツールとしては不全なのだろう。
「仕方ないなぁ」
 他所事を考えて気を紛らわせていると、汗で冷えた背中に熱を感じた。HiMERUの身体を、ニキの腕がそろりと覆うように触れたのだ。
「……何ですか?」
 抱くというには些か他愛ない、HiMERUが拒絶すれば簡単に解ける拘束だった。
「いいこ、いいこ、ええと、ぐっどぼーい?」
 ニキの言葉がぎこちなく肩口にくぐもって、云い慣れないコマンドをなぞる。眉間に皺が寄るのがわかった。
「……あなたのそういうところ、不愉快です」
「んぁ、ええ? じゃあ僕になんか命令する?」
 おもわず舌打ちが漏れて、ニキがヒッと声をあげる。そっと離れて行こうとするので、今度はHiMERUからニキを抱き寄せた。躊躇いがちに、またニキの手が戻ってきて、ぽんぽんと背を叩く。
 いいこいいこ。ぐっどぼーい。
 ニキの言葉は、身体の芯がじんと熱くなる高揚も、奥底から満たされる幸福ももたらす力はなかった。
「ごめんなさい。さっきの言い方、乱暴だったよね」
「死んでください」
「なはは〜、なに言われても仕方ないっすね」
 ニキは、ごめん、と繰り返した。謝罪はすでに聞いていたので余分だ。いくら謝られても、HiMERUは気が済むまで詰るし、死ねと願うし、今このときには過ぎたことで、ただ放っておいてほしかった。第一、Normalに怒りをぶつけても仕方ないのだ。それでも、ニキが気遣ってこの場にいることがHiMERUにはわかる。それだけで、二人の間では了解されるものであるべきだ。
「ごめん」
 HiMERUが折り合いをつけてる最中、ニキはもう一度、ごめん、と虚ろに繰り返した。表情が見えないので、言葉まで色を失くすとそれは音の羅列であった。無意味さに、またうんざりとした気持ちが戻ってくる。呼吸も脈も、とうに正常に戻っていた。
「何に謝っているんです?」
「……なにもしてあげられないから」
 力ない言葉を補うように、ニキの腕に力がこもるのがわかった。声は頼りなく、発声は幼い。なにもしてあげられない。それはそうだ。ニキはNormalなのだから。何かして欲しいなんて頼んでいないのに。おかしいな、とHiMERUの口角があがる。
 誰に謝っているのやら。
 ニキは過去に対して謝罪しているのではないかと考えた。先程のHiMERUだけではなく、今までの近しいDomやSubに、何か悔いることがあるのかもしれない。それはなんだか、とても不誠実なことだと思った。自分の存在自体が、そもそも誠実さとは無縁であるのだけれど、あくまで代理として、そこにいる限りHiMERUは、HiMERUとして正しく機能しなければならない。
 HiMERUはニキとの密着を解いた。背にまわった腕は抵抗なくHiMERUの意に沿って力をなくした。ニキはいま、どんな顔をしているのだろう。先程のお返しに覗き込んで観察してやろうかと、意地の悪い考えが過った。結局は行動に移さず、その代わり危なげなく立ち上がって、『HiMERU』にはもはや何の問題もないことを示す。壇上のこはくと目が合って、早く上がってこいと手招きで急かされた。苦笑して一つ頷く。子供に気を遣わせたことが申し訳なかった。
「椎名、ステージに戻らないと」
「うん」
 しかし今度は、ニキが座ったまま動かなくなった。どうしたものかと、HiMERUは腕を組み重心をやや後ろにやって、ニキが立ち上がるのを待った。こういうとき、どうすると良いのか。項垂れたニキは、なんだか落ち込んでいるようにも、いじけているようにも見えた。何にしても、原因不明なので、扱いに困る。今こそ燐音を呼ぶべきなのかもしれない。その前に、そろそろこはくがしびれを切らして様子を見に来そうだ。
 うーんと唸りはしなかったが途方に暮れて、HiMERUは顎に手を当てる。先のやり取りを思い返してニキの浮上の目を探す。
 何かしたいのだろうか、この男は。
 ニキがさきほど言った、子供のような訴えを思い出す。ついでに今朝がたの風早巽のことまで思い出して、邪魔だからすぐ消えてもらった。巽を迅速に排除して、ニキにしてほしいことを考えた。HiMERUが困らないことで、できれば有難いことで、ニキが得意なこと、できること。
「……何かしたいなら」
「——んぃ?」
「このあと料理でも作ってください」
「このあと?」
 愚策とも言えない、苦し紛れのあてずっぽうだ。
 脈絡のなさにニキがあんぐり口を開けて、間抜けな声をあげている。相手の反応を無視して話を進めるのは得意なので、HiMERUは開き直って、自身の要求を告げる。
「雑誌撮影までの合間に」
「鬼! 僕の休憩時間は⁈」
「なら、結構です」
「いや、良いっすけど〜……」
 そんな時間あります? とか、キッチンどこかで借りられるかな? とか、眉を寄せながら、どうしよう、を考え始めるので、本当に何かしたかっただけなのかと、HiMERUはあっけなくおもった。雑誌の撮影は確か自社ビル内に戻るので、移動兼休憩時間にキッチンを借りることは可能だろう。それよりも、とHiMERUはニキに手を向ける。
「それは後で良いですから。さぁ立って」
「あ、ごめん。行こ」
 差し出されたHiMERUの手を取って、ニキはそのまま壇上へと駆け出す。これ以上、時間を取るのが嫌で、振り払わずニキの好きにさせた。ステージに戻ると繋がれた手を目ざとく発見した燐音が揶揄してきたので、HiMERUは丁寧に無視して、自分の立ち位置についた。ニキが何やら燐音と言い合っていたが、間もなく曲がかかり、そこからは何ごともなかったかのように練習が再開された。

 その後、移動途中スーパーに寄ったニキは、食材を大量に買い込み、ESに着いて早々キッチンに駆け込んだ。黙々と手早く調理を進めるニキを見て、事情を知らないメンバーが「あかん、鬼神のごときや。そない腹減ってたん?」「いや、休憩中ばくばく食ってたっしょ?」とひそひそやる中、HiMERUは我関せずをつらぬき、食事ができあがるまで読書をして時間をつぶした。リハーサル中、ニキの耳元に口を寄せる振りをするとき、リクエストは既に伝えてあった。