惑溺




 粘膜がこすれる甘さと、快楽に溺れる興奮が、頭のてっぺんから爪先まで満ちていた。にぶい痛みとシーツの冷たさに、過敏な神経がいちいち怯む。びくりとHiMERUのどこかしらがはねるたび、ニキはガラス玉みたいな瞳をきゅっと細めて、かわいい、とのぼせた声で言った。最中は、自分の身体がどこにあるのかわからなくなる。かたちをおしえこむように、全身をいとおしむ手にばかり意識を持っていかれて、大事な自身の身体のことは、何一つおぼつかなくなってしまう。耳元で睦言の一つでも囁かれると神経が焼き切れる心地がして、遅れて、言葉の意味などたいして理解してもいないくせにと、腹をくすぐるおかしさに頬が緩んだ。そこにまた、上機嫌にキスをされて、あつい身体のまましばらく抱き合った。ただの性欲と、ダイナミクスによる欲求と、達するオーガズムの深さは然して変わらないのに、どうしてどちらも必要なのだろう。どちらかが満たされれば、同じく満たされてくれるなら、どれほど楽かしれないのに。ふわふわと浮き上がって戻らない意識が、HiMERUの思考をあちこちへ飛ばした。
 ニキの肩越しに天井を見あげながら、HiMERUは空からふったような感慨にふけっていた。唐突に、白々とした部屋と、淡い水色のカーテンを思い出した。
 幼いHiMERUはその部屋で頭を撫でられて、むずかるように首を振った。
 澄んだ聴覚に、とろけるような甘い女の声がする。
 母親の記憶だった。
 


「じゃあさ、こういうのは、僕とだけしよ?」
 ニキは手に持った肉まんを見せて、にんまりと笑った。頬にくずがついていて間抜けだった。ほかほかと立ちのぼる湯気を見ながら、すっかり冷えてしまったな、と身を縮こませる。風呂上りに、リビングのソファでどちらともなく甘えて、睦み合っていたら、突然ニキが、空腹に耐えきれないと騒ぎ出した。作るにも冷蔵庫の中は心もとなく、冷凍庫にはアイスくらいしかなかったので、寒空の下、自宅から一番近いコンビニへ向かうと言い出した。そういえば飲み水を切らしていたことを思い出したので、HiMERUもそれに付き合うことにした。その帰りのことだ。
「こういうの、とは」
 一体なにを指しているのか。一つ、二つ、三つと考えて、しかしそれは、まるで意味をなさない気がして、HiMERUはニキの答えを待った。察しが良い男ではないけれど、勿体付けることはしない。だからHiMERUは、黙っていれば欲しい答えは大抵得られる。慣れてしまえば、彼との会話は随分と怠惰で、楽なものだった。簡単すぎて味気ないとおもうときもあるけれど、話題振りは突拍子がないので、今のところ飽きてはいない。
「だから、こういう、コンビニ行ったり」
「メンバーともよく使うでしょう。他の誰とだって」
「そうじゃなくて」
 そうじゃなくて、ちがくて、ニキはよく、そんな言葉でHiMERUに訴えかけた。そのたびHiMERUは、ニキが次の言葉を探すのを待った。興味の方向が違うので、意見の相違はしょっちゅうだ。ただそれも、大概のことはどうでも良いことだ。だから、ふうんだとか、へえだとか、感心したり、上の空だったり、無関心で楽しめる範囲のことしか、二人の間で議論は起こらなかった。付き合いはじめてからは、それでもすこし、厄介さが増した。
 例えば、こういうの、とか、僕とだけ、とか、他愛ない柔らかな束縛が増えた。
 ニキはくちびるを尖らせて続ける。
「HiMERUくんが無理なことも、僕が無理なことも、する必要ないっすよねって」
「歩み寄りは必要だと思いますが」
「それならほら、僕がお腹空いたって言ったら、HiMERUくんは一緒にコンビニまで着いて来てくれるし」
 別に用事がなくてもさ。
「HiMERUも買いたいものがあったのです」
 言い切られてしまうと、なんだか悔しくなって、反射的に言い返してしまう。
「えー水? スーパーの方が安いのに?」
「明日の朝、必要なので」
「なは」
「笑うな」
 ふふ、へへ、と息を漏らすように笑いながら、ニキは歩き続ける。HiMERUは自身の顔が熱くなっているのがわかって、鼻先までマフラーに埋めた。ニキはHiMERUを見ず、肉まんと進行方向を見ていた。癪に触って、前を歩く踵をわざと踏む。わっと声が上がり、その場でたたらを踏むので内心舌を出した。
「失礼しました」
「わざとっすよね⁈」
 後ろを振り返ったニキが、不貞腐れた顔をする。HiMERUは肩を竦めて、「言い掛かりなのです」と白を切った。警戒したニキが歩調をゆるめ、隣に並んで歩き始める。最初からそうしていればいいのだ。おもった通りことが運んで機嫌が上向くのを感じる。いつからこれほど単純になったのだろう。
「……まあでも、今日だけじゃなくて、一緒に過ごそうとしてくれるのとか、嬉しいっすよ」
「恋人、ですから」
「だからね、それでいいじゃんって話」
「はあ」
 ニキはそう言って、HiMERUの手を取った。肉まんとは反対の手が、そのままニキのコートのポケットへHiMERUの手を招いた。触れ合った場所から熱が伝わって、いっそう頬が赤くなったように感じた。盗み見たニキの顔も赤いように見えたが、ただの願望かもしれない。丑三つ時も過ぎた道は閑散として、電柱に括りつけられた外灯が、ぽつぽつと不規則に並んでいるだけだった。時折びゅうっと木枯らしが吹いて、露出した頬を無遠慮に叩く。
「HiMERUくんがさ、どこで何してきても、僕の料理食べて、一緒にコンビニに行って、たまに一緒に寝てくれたりしたら、それでいいっす」
 わずかな灯りを頼りに、使い慣れた道を並んで歩く。会話はあってもなくても、どちらでも良い。たまに隣の彼を垣間見る。手に力をこめると、同じくらいの強さで握り返される。そういうとき、別れたくないなと、HiMERUは終わりのことを考える。先のことばかり考えてしまうのは性分なので、HiMERUは割り切って、並行してニキを観察した。ニキはむずむずと口元を動かしていた。その表情はここ数年で見慣れた間抜けさで、今度はHiMERUが笑う番だった。ニキはぷいっとそっぽを向いて、一口残っていた肉まんを完食した。
「あなた、照れとか、ちゃんとあるんですね」
「やだやだ。恥ずかし。はやく帰っていちゃいちゃしよ?」
「——……くっ、いちゃいちゃって、ははっ」
「んも〜! 笑わないで〜」
 ニキはぶんぶんと空いた手を前後にふって抗議する。空になったビニールがガサガサ鳴って、静まり返った住宅街に響いた。おもったよりも静寂が分厚くて、二人して顔を見合わせる。
 そうしてまた、堪えきれず破顔した。
 「酷い」「そっちこそ」と言い合って、それでもふたりして手を離そうとしなかったので、家に着くまでそのままにした。

 マンションの居室に戻り、洗面所で手洗いうがいをして、冷蔵庫に買ってきた水を寝かせた。リビングを見渡して、随分と生活感が出たものだと、他人事のようにぼんやり考える。キッチンにはニキが持ち込んだ調理器具が並び、テーブルには献立の参考にしたのであろう料理雑誌が置きっぱなしになっている。壁にかけたカレンダーには二人分のスケジュールが書き込まれていて、あまり使われない腹筋ローラーとダンベルが隅に置かれている。ティッシュの箱がなぜ潰れるのか、HiMERUはよくわからない。一人のときには、潰れていなかったので、おそらくニキの仕業だ。
 HiMERUのものは、何一つ此処にはない。そのときが来れば、必要なものはすべて弟の手に渡り、不要とされたものは跡形もなく消えてしまう。きっと、この関係も弟には不要だ。ダイナミクスとも関係がないのだから、真っ先に精算しなくてはならない。弟のプライベートを支える人間は必要だが、完全に入れ替わるには個人として深くかかわり過ぎている。
 だからそのときになったらうまく別れて、関係性が変わったからすべてが変わってしまったのだと、正しく誤解されなければならなかった。その前に別れることになるなら、その方が都合が良いかもしれない、けれど——
「それは、嫌だな」
「えー、なにが」
「こちらの話です」
「ふうん?」
 遅れてニキも洗面所から出てくる。「寝ないの?」と聞かれたので、「寝ましょう」と答えた。それなのに、HiMERUがキッチンから動こうとしないので、リビングの入口で待っていたニキもHiMERUの隣に移動して、同じようにリビングを眺めた。
 ニキは時折、HiMERUの隣に並んで、HiMERUと同じものを見ようとした。無駄なことを、とHiMERUは馬鹿にしたものだけれど、無駄かどうかは僕が決めるっす、と言い返されてから、嗤うこともしなくなった。
 そうして二人とも無言で、自分たちの作った空間を眺めた。しばらくして、ニキが何もない場所を指して、あそこ、と言う。
 コンセントのある、角のスペースだった。HiMERUはニキに視線を移し、あそこ? と先を問いかける。
「ウォーターサーバー入れよっか」
「……あぁ、良いですね」
 水が常に運ばれてくる、というのは便利だ。寮にも事務所にも設置してあったので間違いない。ニキは料理をするし、HiMERUも水はよく飲むのだから、無駄にすることはないだろう。
 但しこれは、どちらも契約はしないなと、HiMERUはなかば確信していた。このような会話をしたのは、実のところ今日がはじめてではないのだ。
 ニキは話した内容を翌日に持ち越さないし、HiMERUはこれ以上、二人で折半するものを増やしたくない。
 家賃と光熱費、それから食費。これだけで、もう十分だった。家の共有スペースにある家電や家具は、お互い寮に入る前の家を維持していたので、それぞれ必要なものを持ち寄って、新しく買いそろえることはしなかった。
 うまく、終わりにできるようにしないと。
 HiMERUは終わりについて考えながら、隣で食器棚に軽く凭れるニキの手を握った。洗い立ての手はしっとりと冷たく、しかしHiMERUも似たようなものなので、皮膚の質感だけが妙にリアルだ。
「行こ」
 ニキは握られた手を丁度良いと言わんばかりに、そのまま寝室へ招く。寝る部屋は分けていたが、二人で眠るときはいつも、ニキの部屋に布団を二つ並べた。
 これからニキの言う通りいちゃいちゃするのかもしれないし、しないのかもしれない。HiMERUは正直、もう眠りたかった。ニキだって、先ほど気分であんなことを言っても、同じようなスケジュールで動いてるのだから、そろそろ眠いはずだ。クローゼットからHiMERU用の布団を出して敷いたところで、あふっと、ニキの口からあくびが漏れた。ほら、やっぱり。
「さぁ寝ましょうか」
「えー」
「朝も早いですし」
「うー」
 『プレイ』ではないのだから、無理をして効果があがるわけでもない。溜めこんでもいないのだし、二人とも眠いなら、やはり今日は休むべきだ。
 こんなとき、ニキがダイナミクス持ちなら良かったのにと、付き合いはじめてから幾度もおもった。医者もカウンセリングも薬も必要なく、どちらか、あるいは二人ともが首輪をつけて、契約という保証を得て、そんな生活を気まぐれに夢想した。『俺』は残忍な俗物なので、そうしてうまくかみ合ったなら、別れることばかり考えなくて済むのにと、仄暗く卑しいことを、平気で妄想して愉しむことができた。
(何が、弟のために、なんだか)
 この関係を維持して、『HiMERU』にとって良いことなど、一つも思いつかない。ただ二人で居ると楽で、かみ合わなくて、それでも良くて、別れがたくて、無意味で、それだけのことが、にじむように幸福だった。余剰を楽しむのが人生だとしたら、間違いなくHiMERUは、『俺』は、いま人生を謳歌している。
 それがこんなにも後ろめたい。
「一緒に住んでるんですから、いつでもできるじゃないですか、いちゃいちゃなんて」
「それはそうっす」
「ね」
「うん」
 ニキが電気を消したので、HiMERUは布団を被って目を瞑り、手だけで隣にあるはずのニキの手を探した。ニキがこちらに身体を寄せる気配がして、うろうろとさまよっているHiMERUの手を掴んだ。その手がおもったよりも力強くて、HiMERUは暗闇の中、うっすらと目を開いた。
 乾燥でかさついた指が、甲の皮膚をやぶけない程度に刺激する。もう乾いてしまったんだなぁとか、加湿器は付けたっけとか、いろいろおもったはずだけれど、もう布団から出たくなくて、だから考えるのをやめてしまった。
 枕に頭を乗せたニキが、静かにこちらを見ている。目はとろんと眠そうに溶けていたが、奥のほうが何か言いたげで、HiMERUはその深淵をじっと見つめた。それでも何も言わないので、ああ、言葉が見つからないのかと察した。ニキが言葉を見つけられないと、HiMERUにはニキの考えがすこしもわからない。推理には材料が必要だった。ニキの情報だけ、いつもHiMERUには足りない。
 仕方なく、何を言おうか、と逡巡しながら、HiMERUは自身の本心を探って、上澄みのいちばん綺麗なところをニキに差し出す。
「……寒い、から」
「うん」
「眠るまで、離すな」
「なんで命令……いいけどさぁ」
 りんねくんみたい。
 殆ど眠っているみたいな声が、不名誉なことを平気で言う。高圧的にすれば『燐音くんみたい』で、あざとく振舞えば『こはくちゃんみたい』で、どうせその二人にだって『HiMERUくんみたい』と云っているのだと、いささか面白くない想像をする。眠いから機嫌が悪いなんて、幼子のような自身がおかしい。
 ニキと寝所をともにすると、とうに忘れたはずの母親との時間を、おぼろげな執着のかたちを想起した。
 共寝をした朝、ひとり目が覚めると申し訳なくて、隣に眠る彼女が起きるまで、何時間でもぼうっと天井を見あげていた。ぴったり身体を添わせ、どんなに退屈しても片時も離れず、そうして彼女が起き出すときをひたすら待った。あの言いようのない寄る辺なさを、思慕を、哀惜を、ニキの手を握っていると思い出した。
 そういう感情を思い出すことができた。
 愛しているとすらおもった。
 母が死んで、弟が壊されて、もう二度と戻らない心の在りようだとおもっていたのに。

「おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
 ニキが目を閉じるのを待って、HiMERUもまた目を閉じた。繋いだ手が、やがて真綿の上に溶けるように弛緩する。

 眠りに落ちるまえ、忘れたくないと、強く願った。できることといえば、大抵のことが、それくらいのことだった。HiMERUは覚えることが得意だったので、その気になれば、ニキのすべてを記憶しておくことができる。記録だって膨大にある。だからこれという思い出は、いつまでも褪せることなく、HiMERUの奥深くに留まり、HiMERUが見たいときにはいつだって、取り出して一日中、なんどでも、好きなだけ眺めることができる。

 ニキは忘れることが得意なので、この生活が終わってしまえば、HiMERUのことを過ごした日々ごと、すっかり忘れてしまうのかもしれなかった。

 それでも良かった。
 それならどちらも、寂しいおもいはしないだろうから。