性差




「HiMERUくんは僕のこと嫌いだよね」
 ——というよりNormalが嫌い? 苦手? 
 ニキはあしたの天気の話でもするように、しかしHiMERUには理解できない唐突さでそう言った。一体どうして、そのような話になったのかわからなかったが、咀嚼音の間に投げるように続いていたニキとの会話は、HiMERUの間抜けな沈黙で途切れてしまった。舌打ちしたいような気持ちを抑えて「そんなことありませんよ」と笑って言うと、わざわざ笑ってみせたというのにニキはHiMERUを一瞥もせず、「そっすか」で話を終わらせた。返答に窮したHiMERUを置き去りに、そのまま食堂の新しいメニューや、新しくできたパティスリーの話題へと移る。これは流して良い話だったのだろうか。ニキが来週末に果樹園へ旬のフルーツをもぎにいく話をはじめたところで、椎名、とHiMERUは呼びかけて遮った。突然の割り込みにもニキは嫌な顔一つせず、ただ首を傾げた。ソーダ色の瞳がぱちりとまたたき、不思議そうにHiMERUを見つめる。
「何故、そのようなことを」
「んん?」
「食事中に、というのもそうですが、何故そのような結論になったのか気になります」
「食事中……あ、第二性のこと?」
「ええ」
「わー! ごめんなさいっす。僕どれでもないから、そういうの疎くて」
「別に、あなたにそういうつもりがないのはわかっているので、それより」
「あ、嫌いとか苦手とかって話っすか? えっと、そうっすね。えっとね、んん〜……? あれ、なんの話だっけ」
「わからないから聞いているのです」
 頭をぐらぐら揺らしながら唸り出すニキを、若干呆れた心地で待つあいだ、HiMERUもこの先のことを考える。ニキの発言はどうやら本当に考えなしだったようで、頭が落ちるのではというほど首を傾けたあと、返ってきた答えは疑問系だった。
「何となく?」
 HiMERUは肩を落としてため息を吐く。知らず組んでいた腕を解き、放置していたコーヒーを口に含んだ。緊張したのがばからしくて、反動のように脱力する。
 ニキを見ていると、自由で良いなと、安易におもってしまう。そう捉えてしまうくらい、HiMERUはニキのことを理解しなかったし、探りたいとおもうほど興味もなかった。興味深いとおもうこともあるけれど、それは彼の造る料理に対しての敬意で、彼自身に大した謎の気配もない。自分と異なる人間が、ただそこに居て、大飯を食らっているだけのことだ。ニキとてHiMERUに興味はないだろうから、それくらいがちょうど良い。
 手元の食糧すべて飲み干すように平らげて、ニキはやっとHiMERUと目を合わせる。空になった皿が綺麗で、今日の彼は飢えているわけではなさそうだと、HiMERUにとっては至極どうでもよいことを考える。
「HiMERUくんはSwitchなんだよね? 両方できるってどういう感じ? 両方したいっすか?」
「……椎名」
「あっ……わー! ごめんね? もう聞かないっす! 燐音くんとは結構こういう話もしてたから、感覚おかしくなってるかも。ダイナミクスって難しいっすね」
 そう何でもないことのように言って、ニキは「二人とも遅いっすねぇ。追加注文して良いかなぁ」なんて、閉じていたメニューを取り出して真剣な目をしていた。その様子から、先までのことが如何にただの雑談だったのかわかる。天気の話の方がまだ、客商売をするニキにとっては有意義だろう。
 踏み込まれないことは『HiMERU』にとって歓迎すべきことで、ニキと居ること自体は、HiMERUは嫌いではなかった。アイドルとして、他人の興味を惹けないということに軽い屈辱を感じはするけれど、ニキは誰に対しても似たようなものであったし、到着が遅れている誰かのように、ところ構わず藪を突いてまわって、出てきた蛇の首を絞めるような趣味もない。

 食堂の入口から知った声が近づいてくる。遅れて到着した燐音とこはくが、それぞれ食券を持って合流した。こはくはHiMERUの隣に、燐音はニキの隣に座った。いつも通りの並びになって、挨拶がわりに遅刻をとがめた。
「遅いですよ」
「スイマセェ〜ン! こはくちゃんとえっちなことしてて遅れましたァ」
「遅れて堪忍な。このド阿保っ あれのどこがえっちなことじゃボケ」
「照れんなってェ。さっきまで互いに求め合い肌と肌で慰め合った仲じゃねーの」
「いやらしくいうなや。燐音はん、まさかあんなんがえっちや思うとるん? どんだけ大事大事されて育ったか知らんけど初心過ぎて心配なるわぁ」
「ぎゃはは。箱入りの耳年間よりゃあマシっしょ。こういうのは初心な方がウケがいいんだぜェ。なぁニキ?」
「えっ なんでこっちに振るっすか? 巻き込まれたくないっす!」
「何を聞かされているんでしょうね……」
 明け透けな物言いにこめかみを抑えながら、HiMERUは本日何度目かのため息を吐いた。それともこれは健全な社会、というやつなのだろうか。第二性をおおっぴらに話しても問題ない社会、とか。世の中に不平不満ばかりこのユニットとしてはアリなのだろうか、と。
 離れた席から遠巻きにこちらを窺う視線を感じる。ESがいくら第二性に配慮した企業だろうが、Normalの第二性に対する偏見は、そう簡単には覆らない。その他のジェンダー論と同じことで、いまだ法律だって追いついていないのだから。そもそも日本は恥じらいの国で、云々。異性間のことですら食事どきにそれはどうなんだ、云々。かんぬん。後略。
 さて、と思考に区切りをつけて、メンバーたちを観察する。燐音はわかっていてこの言動だろうが、こはくはどうなのだろうか。口汚く応戦しているこはくは、不機嫌に顔をゆがめたかとおもえば、次のときはにやにやと悪い顔をしているので、それなりに愉しんでいるのかもしれない。それならそれで結構だが、プライベートの話は正直よそでやってほしい。すうっと息を吸ったところで、三人から視線を感じた。突っ込み待ちしてんじゃねーよ。
「うるさいですよ天城。周りの方に迷惑です」
「急にまともなこと言うじゃんメルメル大佐」
「すまんなぁ、HiMERUはん。そろそろ息の根止めとくわ」
「エエ、俺っちこんなとこで死ぬの」
「黙れば良いのでは? あと桜河、釣られない」
「……ハイ」
「キャハッ……っと」
 燐音のふざけた笑い声を皮切りに、テーブルの下で無言の攻防が始まる。HiMERUは冷めきったコーヒーを飲み干し、ニキは巻き添えを喰らって「いった! 燐音くんのノーコン!」と騒いでいる。桜河の可能性もあるのでは? とは思ったが、面倒なので今度は突っ込まなかった。誰かが黙れば誰かが騒ぐのでどうしようもない。託児所じゃないんだから、と睨んだって気付きもしないし、気付いたところで誰もその程度では怯まない。
 追加注文を空にしたニキが勢いをつけて席を立つ。
「もー知らないっす! 中ちょっと手伝ってくるから食べ終わったら呼んで!」
「アイヨ」
 入れ違いで二人分の注文が運ばれてきたので、そこでぴたりと喧騒が止んだ。どちらも妙なところで行儀が良いので、食べながら話す習慣があまりないのだろう。
(——まったく、最初から大人しくしていれば悪目立ちすることもないというのに)
 手遅れ感が否めないことを憂いながら、隣のこはくと、斜め向かいに座る燐音を盗み見る。プレイ後というだけあって二人とも調子が良さそうだ。現金なものだと、自分の性を棚上げして、第二性というものの厄介さに辟易とする。
 ダイナミクス持ち同士であれば、相手の機嫌が良いか悪いか、その程度のことは何となくわかってしまう。人間も動物の端くれらしく、大なり小なり持ち合わせている能力だけれど、基本情報がひとつふたつ多いようなものだから、それはより正確になる。
 こはくも燐音も、おそらくHiMERUのことを同程度には理解しているだろう。勝手に伝わってしまうものだ。それがニキに対しては働かないので、HiMERUの態度がニキに、あるいはNormalに対して異なるとすれば、それは確かにそうなのだろう。
(Normalに悪感情なんてないのに)
 付き合いが短いのだから当然で、それが本来、人と人との適切な距離だ。第二性なんて持っていなければ、長期的、または閉鎖的に密に過ごさない限り、他人の情動に影響を及ぼすなんて稀なことだ。
「それ取って」
「ん……」
 燐音が横着して、それ、を取るようにこはくに頼むと、こはくがろくに見もせず、それ、を渡す。どれだよ、とHiMERUはおもったけれど、それとは醤油のことらしい。受け取った燐音が何も言わずそれを小鉢に垂らすので、間違いないようだった。
(同じメニューを頼んだわけでもないのに)
 こういう場に居合わせると、気味が悪さに怖気が走る。行為の話をされるより余程、信頼や甘えが、契約をしただけで仕草に滲みでるようで嫌だった。パートナー持ちがどうとか、目の前の二人がどうとか、そういう話ではない。
 HiMERUが自身の問題として不都合なだけだ。
(異常だ)
 出会ってたかだか数ヶ月、殆ど仕事とプレイだけの関係で、契約して一ヵ月も経っていないのに。
 こんなことは人間の営みから外れている。これ以上、自らの出自より他に、他者と、最たるは弟と、異なるものになりたくなかった。HiMERUが嫌悪しているとすれば己の欲求そのものに対してだ。
「HiMERUくん、これどうぞ〜」
「……頼んでいませんが」
 とんっと目の前に置かれた赤い瓶と、それを持ってきた男を見比べる。蓋をオープナーで開けながら、ニキはHiMERUにへらりと笑った。
「おわび? みたいな。コーラ好きでしょ?」
「おいニキ、何でメルメルだけなんだよ」
「あんたらが遅れてきたうえにうるさいからっすよ」
「まとめられた……屈辱や……」
 燐音とセットで詰られて不服そうなこはくに、瓶ですから分けましょうか? と提案する。ええの? と遠慮がちに首を傾げるので、空になっているこはくの水用のグラスに注いでやった。おおきに、と機嫌よく礼を言うので、いえ、と応じる。なぁなぁ俺っちは⁈ と食い下がる燐音を無視して、ニキはさっさと厨房に戻っていった。
(礼を言いそびれてしまった)
 灰色の尻尾を目の端にとらえながら、HiMERUはコーラの瓶を指の腹で撫でた。詫びだというのだから、不要なのかもしれないが、どうにも気にかかってしまう。
 それはそれ、折角だからと、こはくに遅れてHiMERUも瓶を直接呷った。しゅわしゅわと甘い液体が喉をうるおして、鼻腔をぬけるさわやかな香りが、鬱々とした気分を溶かしていくようだった。
 余計なことに気を揉んでいたのだと、遅れて自覚する。
 所詮他人事なのだから、考えたって仕方がない。
(お詫び、ね)
 さしずめこれは、先の暴言に対しての詫び、ということなのだろう。気にもとめていないと思っていたので、すこし驚いた。
 意外ではあったけれど、嫌な気はしない。
 ニキが放つ降ってわいたような暴言も、謝罪も、思わぬ気遣いも、HiMERUにとっては塩梅がよかった。それはニキがサービスを生業としていて、HiMERUがすべてを演じている人間で、虚構をおそれず、互いのことが心底どうでも良く、それから決して、嫌いではないからだ。
 HiMERUは理屈で説明がつく関係が好きだ。理屈ではどうにもならないから、ダイナミクスが嫌いなのだ。