契約




 ゆっくりと重みが増す身体を抱えながら、燐音は本能的な充足に息を吐く。プレイ中のこはくは何処までも無防備に委ねてくるので、Domを満足させることに長けたSubだった。燐音が簡単なコマンドしか使わないこともあるだろうが、こはくはいつだって、すべてよどみなくこなし見せて、それを褒めてやれば、いとも簡単にサブスペースに入った。そうして燐音にすべて委ねたまま、定刻までだらだらと寛いで過ごす。定刻というのは、カラオケルームの退出十分前のコールだったり、事務所の会議室やレッスン室のタイマーだったり。時間がきたら、プレイは終了。こはくが最初の契約で提案した条件は、欲求の擦り合わせやセーフワードの前に、時間に制限を設けることだった。



「別に良いけど、なんで?」
「普通のときは、普通にしたいやろ。日常的に庇護されるのも、支配されるのもご免じゃ」
 こはくがべっと舌を出して幼く拒絶する。初めてのプレイの前に、欲求の方向性や強さ、相性をはかるため、一度カウンセリング受ける。そのための書類を記入していたときのことだ。会って間もない燐音にも明快な、らしさ、に苦笑して、備考に制限を書き加える。
「なるほどね。っつーことはプレイは二人のとき限定ってのも付けとく?」
「せやね。その方がええな」
「りょーかい。恥ずかしがり屋でちゅねェーこはくちゃんは」
「どつくぞ」
 ぎろりと睨めつけられて、早めにハンズアップする。余計に大きく見えて腹立たしいと言われたことを忘れたわけではないが、すぐ出る手が近くにあるので、距離を取るのに丁度良くて多用している。言葉の意味ほど揶揄する意図もないのだから、無駄に殴られるのは御免だ。
 この社会では男女の別の他、ダイナミクスと呼ばれる第二性を持つものがいる。そうした第二性を持つものの中でも、Dom、Sub、Switch、と欲求の特性により分類され、それぞれ相性の良いパートナーと関係することが良いとされていた。近年ではそういう人種として受け入れられてはいるが、人口比率は三割に満たず、どの性に対しても少なからず偏見はある。普通のときは普通にしたい、という、こはくの言い分はよくわかる。
「で? セーフワードは?」
「要らん。燐音はんの欲求くらい、受け止められる」
 ふん、と面白くもなさそうに鼻で笑って、胸を張る。何でそんなに自信満々なのかなァこのお子ちゃまは、と燐音は内心苦く笑った。自身の欲求レベルが決して低い方ではない自覚があるので、そう安請け合いされても困る。仕方なく、こはくが従うような言葉を選ぶ。
「つってもさァ、決めなきゃいけねーのよ、ココではな」
「都会やから?」
「そ、都会だから。つーかお外のルール。まァでも、お互いのためっしょ」
 こはくは、へぇ、と呟くように応えて、今度は覚束ない表情で視線を下げた。そういう顔を見ると、それはもう本能性が疼くのを頓に感じるので、つくづく燐音はDomで、こはくはSubだった。衝動的過ぎて、理屈じゃなくて、そういう享楽を燐音は好む。好んで嗜むからこそ、それらは思考を馬鹿にさせる厄介な麻薬だと知っていた。呑み込まれてはいけないので、そのための線引きは重要だ。
「……めんどいなぁ。作っても忘れそうや」
「プレイ前に確認も条件いれとくかァ?」
「任せるわ。良えようにしたって」
 変なとこで真面目やねぇなんて、呆れ顔で燐音の書き出した項目を覗き込む。こはくは既にこの問答に飽きてしまったようで、放り出すようなことを言う。
「勝手に書いてイイの? ンじゃ、猫耳でご主人たまって言うこと」
「やめやそれ、ほんまの性癖なんか。男にさせて何が楽しいん? 引くわぁ」
「俺っちの性癖はこんなもんじゃねェーっしょ!」
「聞いてへんわボケ!」
 今度こそ燐音の頭をばしりと叩き、こはくは背もたれに沈んでしまった。
「イッテェな、好き勝手されんのが嫌ならちゃんと考えな」
「わかっとる」
 うんうん唸っているから、一応セーフワードは考えているのだろう。確かにプレイ前に難航しやすい問題ではある。日常会話で出るような言葉はいざというとき混乱するし、思いつかないような言葉は咄嗟のときにも使用できない。この匙加減は難しい。
「普段使わない、けど忘れない言葉な」
「うん、わかっとるよ。そうやなぁ、うん、うん…………あ、」
 こはくは何か思い付いた顔をしたが、すぐ、いや、と言い淀んだ。ん? と先を促すと、ばつが悪そうに視線を逸らす。言わない言葉ではなく、言いたくない言葉のようだ。しかし代案も出ないのか、やがて諦めたように息を吐き、笑うなや、と牽制した。振りかよ、と、茶化してやると、はぁーっと深く溜息を吐くいて手を膝と膝の間に投げた。言いたくないことを言いますという様がありありとしていて、フライングで笑いそうになる。
「…………『姉はん』……これでええわ。プレイ中なら唐突やし、間違えんやろ」
 捲し立てるように言って、ふいと顔を逸らす。燐音といえば、それはもう散々揶揄ってやろうか悩んだが、弟に着物の袖を引かれたような気がして思いとどまった。これを茶化したらこはくは容赦なく暴れるだろうし、カウンセリングの予定さえ白紙にすると言い出しかねない。
 燐音が黙ってしまったので間が持たないのか、こはくは放置されていた紙コップを乱暴にあおり、ふやけた空を握り潰して行儀悪くゴミ箱に放る。それなりの距離があったが、それはすこんっと収まるべきところへ落ちた。良い子ぶって普段このような振る舞いを避けているくせに、燐音とふたりのときはつられるのか、ひとり遊びが得意な様子が垣間見えた。一連の動作を目で追っていると、こはくは開き直ったように腕を組み、言葉を重ねる。
「わかりやすいやろうけど、詮索は不要じゃ。揶揄ったら殴る」
「姉ちゃんとパートナー契約してた?」
「そない大仰なことなかったな。セーフワードっちやつも決めんかったし」
 そして自分の指を折りながら、いち、に、さん、と説明していく。
「一番上がDomで、下の姉はんはSwitch、わしがSubやったから、うまいことやっとったよ。遺伝やろか。家の中には結構おってな、めずらしいっちのは外出てから知ったわ」
「アァー……どこも似たようなもんだと思うよな」
「燐音はんとこも? 何や、お外に馴染めんには理由があるっちことやね」
 コッコッコッと何がおかしいのか、こはくは上機嫌に笑う。子供の表情変化は忙しないなと、書類の穴を埋めながら燐音も口元だけで笑った。
「ESは変わりもんが仰山おるし、割合も多いらしいな。難儀な奴が集まったもんじゃ」
「首輪も付けないんだから、気ィつけろよ。ココだけじゃなくて、ゲーノーカイは変なやつ多いから」
「みょうちきりん筆頭が言うと説得力あるわぁ」
「可愛くねェーお口。まァ、未成年相手にそんなハードなのするつもりねェーけど、NG項目、考えとけよ」
 するとこはくは、それまでの雄弁さをしまいこんだ無表情で、考えとくわ、とだけ応えた。どうやら深くおもい耽ると、それ以外が閉じてしまう子供らしい。燐音はそのときはじめてこはくの内側を覗いた気になって、自身の本能性が仄暗く悦ぶのを、冷えた心で白々とやり過ごした。この欲の底知れなさを、こはくは何ひとつ、本当の意味では理解していないだろう。
 何を期待してるんだ。
 こんな、何も知らない子供に。
 燐音は歪みそうになる口を、不自然にならぬよう片手で覆った。



 隣の部屋のぼやけた歌声の上に、無機質なコール音が響く。時間を見れば、間もなく退室時間だった。こはくが気持ちよさそうに寛ぐので、つられて意識を飛ばしていた、というより、単純に寝落ちしていたらしい。最近忙しくなったので、それなりに疲れが溜まっていたのか。固まった身体をぐっと反ると、こはくが何も言わず燐音の膝の間から立ち上がり、壁にかかった受話器を取った。
「——はい、はい、大丈夫です。出ます」
 店員とつつがなくやり取りをして、受話器を戻す。最初はすべて燐音がやっていたが、何回か連れ込むうちにこはくがやるようになった。終わりにする作業として、わかりやすいところが良いらしい。振り向くこはくはいつも通りの顔をしていて、ドリンク勿体ないなぁと、最初に頼んだ烏龍茶を一気に飲み干した。燐音もそれに倣い、氷が溶けて薄くなったコーラを一口含む。炭酸もほとんど抜けていて、普通に不味い。HiMERUが昼に打ち合わせで飲んでいて、無性に飲みたくなったのだが、失敗だった。
 結局半分も水位減らさないままテーブルに戻して、ジャケットを羽織る。こういうときソフトドリンクを頼むと、酒は? とこはくはいつも不思議そうにするが、状況を管理するのはこちらの仕事なので、プレイの前にアルコールを入れる気は流石に起きない。寝落ちなんてもっての外だ。
「さ、帰んで……何や辛気臭い顔しよって」
「おう。つーか起こせよ」
「お疲れみたいやったし? わしなら満足しとるから、気にせんでええよ」
「…………ならイーケド」
「ほんま変なとこで真面目なお兄はんやね」
「ウッセ、延長取られっから行くぞ」
「それはあかん!」
 揉み合うように靴を履いて廊下に出る。割り勘な、と冗談で言うと、ケチ臭いとぼやいた割に、きっちり半分、会計のときに横から燐音の財布に押し付けてくる。男らしさとか、子供扱いが嫌とか、そんなところか。そういうところが子供なのだと、気付いているのかいないのか。燐音はこの半年で、桜河こはくの人となりを知っていたので、気付いて装っているのだろうと、殆ど確信している。こはくは強かだ。
 会計を終えて、出口付近で待機していたこはくと目が合う。ああ、顔色は悪くない。確かに満足しているようだ。
「クーポン、飲み放題だって」
「くれるん? ラブはんとオールでもしよか」
「若いねェ」
「ぬしはんが枯れとんのやろ」
「燐音クンだってまだまだピチピチのほぼハタチでちゅ〜」
「サバ読むなオッサン、みっともない」
 ほら、帰んで。
 ぽんぽんと憎まれ口を叩きながら、こはくが先に店を出る。突然開けた空気に一瞬怯むようにして、首を縮こめる。さむ、と小さく呟くのを聞いて、なんだそんなことかと笑ってしまう。
 これが成長したら、良い感じに化け物じみて良いのではないかと、燐音はそれなりに期待している。子供の皮を被る子供は不気味で得体がしれないが、アイドルとして生かすなら、さぞ魅力的なことだろう。途中で折れたら、そのときはそのときというか、無論そんなことは、誰も望んではいないのだけれど。

 自動ドアから一歩外へ出ると喧騒がクリアになる。最近めっきり日の入りが早く、朝晩の気温も下がった。橙に染まった街に、街灯の光が等間隔に浮かんで、道行く人影は長くのびている。家路を急ぐ人の群れに合流して、それからしばらく、また道と道でぱらぱら分かれ、閑散としたただ広い歩道を歩く頃には、二人は二人だけに戻っていた。帰る場所は同じだ。真新しい舗装された道を、波の音を背に聴きながら二人並んで歩く。こはくは気付けば足音を殺しているので、燐音はこはくの向こうに広がる海を眺めるついでに、隣を確認しながら歩いた。こはくはそれに素知らぬふりで、ただすこし、わざとらしく足音を立てて歩く。こはくと二人になると、会話らしい会話のない密な余白がぽつりぽつりと生まれるので、燐音はそれを、壊すか維持するか、常に決めなくてはならなかった。今回はそのままにして、こはくをうかがうだけにする。こはくは海を見ていた。柔らかい線を描く少年の頬を視線で辿って、燐音はふと、この土地で、これほど穏やかに他人と過ごしているなんておかしいとおもった。今だって憎しみはある。腹の底で渦巻く怒りは消えないし、企てはやめない。ただ今のところ、現状に愛想をつかしておらず、ここに留まってやっていこうと、前向きになっているのがおかしかった。

 影は長く、日は短くなった。もうすぐ吐く息が白くなり、放っておくと指がささくれたり、ニキが段ボールで買ってきた蜜柑を、キッチンの横に常設したりするのだろう。あの夏はもう、随分と昔のことのようで、一つ季節が過ぎただけだ。それなのに最近は、いい加減、この少年との向きあい方を定めねばなどと、そんなことを考える余裕すらできてしまう始末だ。つくづく出会った頃では考えられない。こういうことに懊悩するというのは、よほど平和で、幸せなことなのだろう。隣で知らん顔をするこはくの、浮かぶように靡く鴇色の髪を眺める。撫でようとして、今日は壊すのをやめたのだと思い出し、半端に上げた手を下ろした。こはくはやはり何も言わず、日没の間際、黒く光る夜の海を見ている。