プレイ




 例えば獣であったなら。
 これはつまり人間でなかったら、という話であって、人間も広義では動物である、という話ではない。獣だったら良かったとか、そういう話にも当たらない。一長一短、善かれ悪しかれ、その時々で変わることだろうし、目下自身の置かれた状況で、状態が、常態が、異常で、正常で、こはくにとって悩ましく、不自由で、疎ましいというだけだった。散漫に益体がないことをばかり考えている。どうしたいはなくとも、嫌なことはそれなりにある。この体質は明確に、嫌、だった。理由は端的に、持て余す程には面倒だし、あまりにも自身の根幹にかかわる恥部を、野ざらしにしているような、そんな惨めな気分になるからだ。

「Come」「Kneel」「Look」「Stay」

 機械的な指示に躊躇いもなく従っていく。燐音が来い、跪け、見ろ、待てと言ったので、こはくは膝をついたまま、燐音の足元で、燐音を見上げた姿勢で待機する。カラオケルームのフロアマットは、温かくも冷たくもない。きっかり一分そのまま静止していると、「Good」と頭を撫でられる。そういえば、喋るなとは言われていないことを思い出して、こはくは口を開く。

「……もう立ってええ?」
「ヘェヘェ。これでおしまい。グッドグッド。イイコだねェーこはくちゃん」
「馬鹿にされとる気になるわ」
「ぎゃはは。ほっぺた赤くして云うことじゃないっしょ」
「生理現象っちいうんは厄介やね」
「違いねェ」

 膝の上に乗せられて、抱きしめられると、知らず、ほうっと息が漏れた。それを聞いた燐音から笑う気配がしたので、何だか面白くない。面白くないのに、耳元で囁くように『良い子』と言われると、それだけでもう、おしまいだった。頭がじんと痺れて、麻痺して、蕩けて、それなのに鼻の奥がむず痒いような居心地の悪さが、じんわり四肢を伝っていく。そこらじゅうの空っぽが、燐音の熱で満たされて、体温があがる。くまなく幸せなのだと、錯覚する。されるがまま、燐音の肩口に顎を乗せると、首筋か耳の裏か、かすかに残った香水が匂う。それが一層、こはくの思考をずぶずぶとだめにした。燐音が好んでつけているそれを、ええ匂いさせとるね、と褒めたことがある。燐音は一度ほうけた顔をしたあと、携帯用のアトマイザーを内ポケットから出して見せた。こはくちゃんも付けてみる? と聞いてきたので、頷いた。そのとき、手首にふったそれは、どれだけ時間を置いても、燐音と同じ香りにはならなかった。

(……あぁ、他人の匂いがするわ)

 こはくが外に出て、驚いたことの一つだった。同じものを食べて、同じような場所で生活していると、匂いがこんなにも違うなんてことはない。香水と、整髪料と、洗濯された服の匂いと、体臭と、空間と、あらゆる匂いが一つになって燐音の匂いを作っている。燐音に抱きしめられるたびに、他人と居るのだと強く感じた。姉に抱きしめられても、そんな風に感じたことはなかった。司には、それほどの気安さは持ち合わせていないし、あれは別の生き物なのだと、こはくはどこか、明確に線を引いていた。それでは、目の前の男は、といえば、よくわからない。同じ生き物なのかもしれないとおもうこともあったけれど、でもやはり、他人はどこまでも他人だった。冷たい意味ではなく、もう少し熱のある意味で、隣人と名付けるべきなのかもしれない。しかしそれも、この男には似合わなかった。
 こはくが顔をあげると、燐音も応えるようにこはくと正面から向き合った。抱きかかえられたままなので、鼻先が触れ合うほど近くに燐音の顔がある。やけに物静かな表情をするので、これはこはくの状態を観察しているのだとわかる。
「燐音はんは?」
「ン?」
「満足したん?」
「ア〜……」
 こはくは自身の欲求が、どちらかといえば淡白な方だと、最近なんとなく理解した。診断を受けたのもそうだし、親族以外のダイナミクス持ちを見るようになって実感もともなった。すぐに落ち着いてしまうし、放って置かれても過度に不安になったりはしない。苦手なことといえば構われすぎることくらいで、燐音が本当はもっと強い支配を求めているなら、それはなんだか悪いことだと常々おもっていた。
「うん、いーよ。いつもは跳ねっ返り反抗期真っ最中のこはくちゃんが、俺っちの膝の上で大人しくしてるのとか、満足感あるし」
「改めて言われると抵抗感あるな。降りよか」
「まだ駄目っしょ。ステイステイ」
「良いって言うたやろが」
「オカワリ?」
「はぁ、足りてへんやん」
「別に構わねェーっしょ」
 まだ時間あんだしさァ。
 そう言って、燐音はこはくの首筋に鼻を埋めるようにして、膝から降りようとしていたこはくの身体をもう一度抱え込む。まだプレイの最中だとおもえば、やはりこはくは静止せざるをおえない。やれやれとため息を吐いて、燐音の次の指示を待つ。命令と命令の間も苦手だ。何を考えていれば良いかわからず、期待している自分というのも直視しがたく、ただ時間を持て余してしまう。焦れて、早くしてくれと懇願したくもなるが、それもプレイ中だと、どこまで許されるのかわからない。お仕置きは、されたくない。怖いとか、そういうことじゃなく、何だかそういうのは、この関係に似つかわしくない気がするのだ。
(それに、どちらかと言えば、このお人……)
 燐音は支配したいDomではなく、甘やかしたいDomなのではないかと、こはくは考えている。弟にするように、こはくを可愛がりたいのかもしれない。無論いま、このときだけ、という、限られたことで、日常的にそれを求めているわけではない、はずだ。求められても困るし、それこそ弟にしてやれという話しだけれど。
 こはくと燐音のダイナミクス、欲求の方向性は、事前に受けたカウンセリングの結果、良、らしい。最も良いわけでもないが、そこそこ良い方、悪くない、という結果だった。その後は事務所に診断結果を提出して、パートナー契約ではなく、あくまで互いの体調を管理する範囲で関係を持つことを申告していた。事務所やら企業やらによって、何をどこまで申告するかの線引きは様々だが、ESの方針としては、ダイナミクスに関しても柔軟に対応すると大々的に打ち出している。そのため、所属アイドルはいつでも必要なケアを受けられるよう、カウンセリングや医療設備も力を入れている、らしい。七種と、燐音と、あとはHiMERUやジュンが、こはくに折々必要なことを教えてくれたので、一通り言われたままのことを、そういうものらしいと理解している。
「燐音はん」
「ン〜〜」
「もうええの?」
「ン」
「どっちや」
「グッド、グッドボーイ、いいこ。大人しくしてて、イイコだねぇ」
「ああもう、ふわふわするわ……いややなぁこれ……」
「好きなくせに」
 燐音との関係も、とくに不満らしい不満はない。ただどうにも、自分自身が面倒だ、というだけで。頭を撫でる手の穏やかさに、いつもの無遠慮さはない。低く、こもるように響く甘い声が、ゆっくり遠のいて、朧になる。眠りに落ちるときに近いけれど、行く先は意識の底ではなく、上澄みの、さらに上、そこで脳がぐずぐずに溶けて、自我を失っていく。不安はなく、ただ暖かくやさしい場所に、無形のまま漂うのだ。先までおぼえていた居心地の悪さもむず痒さもなくなって、当たり前のように、そこにあるだけの幸福に浸る。その瞬間だけ、こはくは何だか、どこへでも行けるような、何でもできるような気分になる。此処が座敷牢でも、カラオケルームでも、どこでも、好きなところへ行き、好きなことができる。そして一人ではなく、ずっと二人だ。二人で一つだ。だってこんなにも、満たされている。すべて赦されている。完全で、過不足がない。それだけを理解していれば良いと、こはくの本能が告げている。

 好きなくせに、と燐音は言った。ああ、好きだとも。そんなふうに、今ならきっと、臆面もなく肯定してしまうだろう。だけどこはくには、燐音がいま何を話しているのか、はたまた黙っているかもわからないので、空っぽの身体をすっかりあずけてしまうだけだ。最後に知覚したのは、やはり燐音の匂いだった。酒や煙草の匂いは混ざっていないので、今日は真面目にアイドルをしていたか、いつものように、ニキの部屋で寛いでいたか。ニキの匂いは燐音と近いので、ニキが燐音と同じ香水をつけたら、きっとそっくりの匂いになる。こはくはすこし、それが羨ましい。ああ、好きだ。好きだ。すきだとも。何が、どうして、こんなにも好きなんだ。こんなに。どうして。なぜ。いつも答えを見つける前に、こはくの意識は、空中に投げ出されて霧散する。