お仕置き




 燐音が怒っている。何か怒らせるようなことをしただろうか。燐音のグレアを浴びながら、こはくはずしりとおもくなった四肢を放って、まだ自由になっている頭を巡らす。プレイを始めると言われて、勝手にホワイトボードの備え付けタイマーを押された。防音室を二コマ、五分前退室に合わせて十分前には鳴るようセットされている。ここに来て、どれくらい経っただろう。一時間ほどだろうか。燐音は壁に凭れるようにして腕を組み、無表情でこはくを見下ろしている、はずだった。今はどうだろう。木目の溝にたまった黒ずみにビーズの破片でも挟まっているのか、窓から入る西陽を反射してきらりと光る。こはくはそれを、明滅する視界をどうにかこじ開けて、床に座り込んだまま睨んでいた。じっと同じものばかり見ていると、普段は見つけないものを見つけてしまう。そして今、こはくは何かを見落としている。何か、きっと大事なことを。考えなくてはならないのに、身体も頭も芯から痺れていて、こはくの命令を、思惑を、反映する気概をもたない。惰弱にもほどがあると詰っても、状況は改善されなかった。少しずつ体温が下がって、鼓動の所在を曖昧にしていく。脈は、こめかみで鳴っているのか、首で打っているのか。身体を支えるために床に着いた手が汗でぬめって、手のひらなんて、毛穴もなにもないのにおかしいなぁと、思考がまた逃げを打つ。ああ、これがグレアというものなのかと、他人事のようにぼんやりおもう。のんきなものだ。怖くて恐ろしいけれど、本能のまま怯えきるには、こはくは燐音をすっかり信頼してしまっていた。ただ時間がわからなくて、そればかり気になった。だから重い頭を無理やり上げて、掛け時計を確認しようとしたところ、最初の位置取りから微動だにしない燐音と目があった。ひとつの感情ものせない燐音の顔は、こはくが見慣れた常態とは重ならず、おそろしいのに美しくて、ほんの一瞬、見惚れた。するとどうしてか、威圧が膜を一枚隔てたように和らいで、こはくはすこし冷静になる。冷たいものに触れた、という、触覚から、現実感を想起する。それからしばらく、強張った細胞へ酸素をわけて、血をわけて、なんとなく、正解だろうという答えを見つけた。

「……『姉……はん』?」

 セーフワードだ。二人で決めた。決めておいてよかった、ということに、したいのだろう。燐音は。妙なところで生真面目な男だ。こはくが言い終わるのと同時に、燐音は床に懐いたままのこはくに歩み寄り、そっと頭を撫でた。そして「良い子」と、小さく褒める。グレアもとうに消えていて、こはくはやっと息ができたような心地で、呼吸もまともに出来ていなかったのだと気付く。それにしても、こんなことを褒められるというのは、何だか滑稽で、茶番だなぁと何処かでおもう。
 燐音が普段指示する程度のことは、苦しくも痛くもないので、セーフワードを使ったことはないし、この先も使う予定がなかった。予定は未定、だったわけだが。きっとこれが、最初で最後。そんなことを、まだけだるい頭を振って、ぼんやりおもう。
「早く言えよ。焦ったわ」
「燐音はん、こういうとき、もっと褒めて甘やかさないとあかんのちゃう?」
「あぁ、ハイハイ。いいこいいこ。よく言えました」
「フフン、わしを躾ようなんて百万年早いわ」
「ほんとさァ、そういうとこだよなァ」
「あ?」
「ん、まァ、今日のところはココまで、な」
 ぎゃはは、と燐音は大袈裟に笑い、ヒャクマンネン先まで一緒に居てくれるの? 熱烈〜♪ などと、ふざけてみせる。どついたろ、と、拳を握っても、なぜだか身体が言うことをきかなくて、燐音のみぞおちを、ぽすりと空気を押すような抜けた音がした。風が腹をさわったのか、さみぃ、とクレームが入る。ざまぁみろ、腹でも下してしまえと、思わなくもない。いまは舌がうまく回らないので、言わないけれど。
「俺っちがなんでお仕置きしたかわかってる?」
「……HiMERUはんと、プレイ、したから……?」
「あってるけど違ェ。俺っちパートナーじゃねェーし?」
 カラーつけてるわけでもねーしなァ。
 そう続けて、燐音は面白くなさそうに鼻で笑う。すらりと伸びた男の指が、こはくの首を撫でる。
 首輪をつけた方がよいのだろうか。正式にパートナーになった方が安らぐのだろうか。それが燐音の求めることなのだろうか。それならばと、本能で応えたいとおもい、同時に自我が拒絶した。求められる喜びに震え、支配される悪寒に肌が粟立つ。嫌だ、と叫びだしたくなる。
 首輪をつけるということは、区切らないということだ。それが日常になるということだ。支配され、庇護される存在になるということだ。こはくが燐音のものになるということだ。そうしたら今までのようにはいかないだろう。きっとすべて、変わってしまう。
 それは、どうしても、嫌だった。本能と本能で結びつくのは、こはくにはひどくおそろしいことのように思えた。それをよすがにしたくない。そんなもので結びついては、檻が移動式になったところで、家の奥中で存在を秘匿されて、命だけまるで尊いもののように慈しまれるのと、一体何が違うのだろう。愛情も憎悪も募るだけ募って行き場はなく、それらはこはくを昼も夜もなく苛んで、どこへ行く手脚もない能無してしまうのが上手だった。
 気も腕っ節も強い姉たちが、堪忍な、と殊勝に謝ったり、こはくが少しの贅沢を楽しんでいるとき、泣きそうな顔で笑うのが我慢ならなかった。もうええよ、と言ってしまいたくなって、ええ加減にせえや、と怒鳴り散らしたこともある。所詮こはくも桜河の人間なので、気性の荒さは似たようなものだった。
 あそこから抜け出すには、早く大人になって、もう大丈夫だと、おもってもらうよりほかなかった。それなのに、第二性なんて、何故こんな、生き難いものを得てしまったのだろう。
 ——嗚呼、だめだ。
 より深みへ、奥底へ、意識が際限無く引き摺り込まれていく。
 視界がまた、ぐらりと揺れる。

 こはくの息が引き攣るように途切れると、とんとんと、ゆるく背中を叩く音がした。呼吸を促すような、脈の位置を知らせるようなリズムが、正しい血の循環をこはくに教えこむ。
「こはくちゃん、良い子だから、こっち見て、嫌だったらそのままで良いから聞いて」
 意識に割り込む声が、こはくを乱暴に掬い上げる。
 燐音の声だ。こはくは今、燐音の腕の中に居る。今はプレイ中で、此処には燐音とこはくしか存在しない。
 こはくが云われた通りに顔をあげると、燐音はいつもの皮肉っぽい笑みに、些かの焦燥をのせていた。このDomはおそらく、 Subの変化に敏感だ。もしかしたら、姉たちよりも、こはくの欲求を理解しているかも知れない。そういえば躾の最中や後は、 サブドロップしやすいのだとか、確かそんなことを言っていた。医者だったか、燐音だったか、姉だったか。そこでこはくは、ああ、落ちかけていたのかと、平静さを幾分取りもどして理解する。いま思考がまとまらないのは本能性によるものかと、遅まきに状態を把握する。燐音は注意深く、こはくをうかがっている。何故だかいつも、誰かしらを、こんな顔にばかりさせていた。ああ、ははは、ふふ、そんな顔しないでもと、ざわざわと鳴る感傷の枝葉が、こはくの腹をくすぐる。
 昔は家族に、今ならば目の前の彼に、大丈夫だと信じて欲しかった。助けは充分足りている。自分一人で立っていると自惚れるわけではないが、こはくはこれ以上の庇護を必要としていない。
 今のままで良い。
 今のままが良い。
「安心しろって、カラーつけろとか言わないし」
「死んでもごめんじゃ」
 こはくから露骨な嫌悪を読みとって、燐音も笑う。燐音が作る表情の、その奥に隠された意図が、こはくにはわからない。意図がないことが殆どないことはわかる。悪逆に振る舞う様は、いつだって、愉しんでいるようにも、悦んでいるようにも、傷付いているようにも見えた。天城燐音は、出会ってからずっと、そういう生き物だった。
「Domってのはさァ。こういうどーしよーもねェことで苛々するのよ。そこら辺わからせねぇとなって。あとセーフワード、ちゃんと使えるかって、テスト」
 そんなことは、言われなくてもわかっている。だから今日だって、答えをみつけることができた。わかってしまうのは、燐音がDomで、こはくがSubだからなのか。それをおもえば、こはくにとっては煩わしいだけの第二性が、少しは悪くないとおもえたのだ。HiMERUとのことだって、その延長でしかなかった。
「変な気ぃ回すなや……まぁでも、こういうのも必要っちことなら、しゃあないわ」
「そういうコト。ほら、『Come』ケアするっしょ」
「何ともないっち、言うとるやろ」
「顔真っ青」
「急に冷え込んだなぁ」
「かわいくねェの」
 やーねーなんて女言葉で揶揄しながら、燐音は座り込んだままのこはくを無理やり抱き上げる。手足が震えているのは、きっと寒いからだ。足がうまく立たないのは、冷たい床に長時間同じ態勢でいて痺れているからだ。だから別に、燐音が怖いわけではない。
「……許可でも取ればええの?」
「おっ わかって来たじゃん。まァー衝動的なこともあんだろうし、事後でも良いよ。ホウレンソウ大事だぜェ、こはくちゃん」
「するな、とは言わんのやな」
「調子崩しても困るしなァ。テメーも、アイツも」
「……ぬしはんも、すればええんや。HiMERUはんと」
「エー……こはくちゃんの倫理観どーなってんの……」
「身内でどうにかするものなんちゃう?」
「あー、なるほど。そういうルールね」
 こはくの首にぴたりとくっついたままの燐音の首が、アーだとか、ウーだとか、意味のない音を出して振動している。困らせるようなことを言っただろうか。
「こはくちゃんはまだおこちゃまだもんなァ」
「おいコラ、直接云わんから許したってんで、言うなやボケ」
「ヘェヘェ、わかってますよォー……って、大人しくしてろ、吐くぞ」
 もう一度、先ほどよりは強く拳を当てられる気がして、思い切り肘を引いたところで眩暈がした。胃酸が逆流するのを喉の辺りに力を入れて抑え込む。ぐぽっと嫌な音が鳴って、口の中に酸っぱいのだか苦いのだか、消化不良のよくわからない味が広がる。単純にまずくて、あと頭が痛い。
「……なんてこと、あらへん」
「ゲロゲロ吐くなよォ〜、このジャケット気に入ってんだわ」
「ん……わかった、ジャケットやな」
「フリじゃねーぞ」
 子供。燐音がこはくを、そう見ていることは知ってる。ずっと子供扱いをされている。容赦されている。侮られているのだろうし、認めたくないけれど、それは正しく、こはくの一部なのだろう。馬鹿には、おそらくされていない。あまり蚊帳の外に置かれると、舐めるなと喚くこともあるけれど、役割があるのだと、それくらいのことはわかっている。だからつとめて、子供として振舞っているつもりだ。背中を撫でる手は、緊張した身体をほぐすようにぐっぐっと筋にそって移動して、痛いようなくすぐったいような、妙な心地だった。思わず、ふっと息を漏らすと、こってますねぇお客さんなんて、マッサージ屋の真似事がはじまる。乗ってやっても良いが、もうなんだか、相槌を打つのも億劫で、目を閉じるだけで返事をした。顔は互いに見えないので、燐音には伝わらないけれど、応えたという事実が、この場では重要だった。

 なんだろう。これは。
 ずっと座り込んでいただけなのに、全身が疲弊していた。ライブ前、練習大詰めという時期と比べても、この疲労感は上まわるのではなかろうか。Domのグレアをまともに浴びたのなんて、いつぶりのことだろう。家長や、おっかない長女を思い出して、こはくはまた、背筋を寒くする。今日はよく、家のことを思い出す。それだけこはくの世界は閉じていて、外の世界にはまだ、こはくを深淵へ引きずり込むような、暗い思い出は見当たらなかった。嫌な記憶も楽しい記憶も、ぎらぎらと苛烈で、明るいことばかりだった。今だってそう、これからも、そうだといい。暗がりは、一生分足りている。

 一段沈むように重い身体を燐音に預ける。このままサブスペースに入ってしまいたいと願いながら、しかし今日は無理だろうと、摩耗した神経を慰撫されながら、諦める。燐音も慣れないことをして疲れているだろうし、無責任に全部あずけてしまうのは気が引けた。こういうことを考えてしまっている時点で、今日はもう、駄目だった。
 しかしまあ、必要だというのだからと、こはくは意識的に、より脱力する。大人しく燐音のケアとやらを受けて、時間までのんびりさせてもらおう。理性が残った状態で受けるこの手の甘やかしは、こはくには過分なものだけれど、それをはねつける気力も、今はなかった。