赤いポスト
濃い影が地面に落ちていた。正門近くの白い焼けたコンクリートに蹲り、月永レオは影の中、汗が滴るのも構わず体内で響く音の羅列を五線譜に写す作業に没頭していた。筆記用具はすべて、その場に居たもう一人、瀬名泉が用意したもので、地面に落ちた影は、泉がレオの前に立って、泉よりやや小柄な身体を丸々覆い隠すように作ったものだ。
(セッちゃんらしいねぇ、そういうの)
朔間凛月はほんの数メートル離れた木陰からそれを見ていた。惰眠から目覚めたばかりの鈍い頭で、馬鹿じゃないのとうすら笑いながら、今日は暑いなぁと眉をしかめる。視界が湿気た空気のせいか、やたらとぼやける。ここであくびをひとつ。いまだ身体はべったりと地に伏したまま。
夏の終わりだった。九月も半ばを過ぎようとしているのに、連日飽かず残暑が厳しい。台風が迫っていると、誰かが、誰だっけ、そうだ、愛しい凛月の眷属が、登校中、凛月を背負いながら息も絶え絶え云っていた。りっちゃん、変なとこで寝て、飛ばされてきたものに押し潰されたりすると危ないから、ちゃんと屋内で寝ろよ、とか、そんな、不穏なことを云っていた。季節が変わろうとしている。
泉は日傘をさしていた。折り畳みの、どこにでもありそうな無地の、ふちに白いラインが入った、紺色の傘だった。名の知れたブランドなのか、コスパの良いファストファッションなのか、そういうことは興味がないので、凛月にはわからない。ただ似合っていたので、きっと泉自身が選んだものなのだろうと思った。白い肌にはそこらの女子より余程念入りに日焼け対策が施されているに違いない。愛情を傾けたものへの献身は厭わないが、あくまで仕事に影響のない範囲で。泉は凛月が知る限り、自分の商品価値を損なうものは天災も人災も徹底して排除する、潔癖で傲慢な男だった。泉は常通り姿勢良く、目下創作に励むレオではない、どこか遠くに目をやっていた。何を見ているのか、 凛月の位置からはわからない。自分の目線が低すぎるのだと気付くまで、さらに数分時間を要した。
「セッちゃん、お水ちょうだい」
決して大きな声ではなかったけれど、泉はこちらへ目を向ける。
地獄耳だね。口には出していないのに、凛月が口角を緩く上げるのと、空色をした瞳が剣呑に細められるのは同時だった。泉が与えられた色彩の中で、凛月が一番憎たらしく厭うものだ。
(晴れた空は嫌い。あちこちが焼けるようで、痛くなって、疲れて、俺は苦しいのに、みんなは好きだから、きらい)
だから細めるならもういっそ、瞼を閉じてその色を覆い隠してくれないかと淡く願う。眠っている泉を見たことはないが、凛月はきっと、眠っている泉が一番好きだろうと思った。想像して、愛せるだろうと確信した。黙っていれば顔だけは上等な男だ。無論、そんな大人しいだけのお人形では、すぐ飽きてしまうだろうけど、傍にいてくれるなら、どんなものでも凛月は愛せる。
凛月は独りが嫌だった。夜、ひとりでいるときだけ、いつものわがままは消え失せて、傍にいてくれるなら、だれでもいいとさえおもった。本当は、唯一が欲しかったけど、求めても与えられないのだから、諦める外ないのだ。
「何」
「み〜ず〜どうせ余分に持ってるでしょ?」
暑くて、寝起きで、凛月は喉が渇いていた。水が欲しくて起きたら、この時期は常に水を余分に携帯している男がまんまと目の前に居たので声を掛けた。欲を言えばキンキンに冷えた炭酸水が良かったけれど、この際だから仕方ない。凛月は自分にも他人にも甘いので、妥協することが上手だ。
むくりとようやく起き上がって、軽く手を振ると、泉は大げさに溜息をついて、それでも凛月の方へ寄ってくる。足に縫いついた影が泉を追って、レオから離れた。歩き方一つとっても、泉は瀬名泉だった。ここは壇上ではないのに、彼は彼を休むことを知らないのだ。炎天下、暑さなどまるで感じていないような涼しい顔で、背を真っ直ぐと伸ばして立つ。凛月はそんな生き方を、難儀だなぁとぼんやり思う。暑いの苦手なのにね、セッちゃん。所詮、他人事だった。やがて未開封のペットボトルが凛月の目の前に差し出される。バナジウムって、何に良いんだっけ。
「お金払ってよねぇ」
「ケチくさいこと云わないでよ」
「またこんなとこで寝て」
「それ俺に云うことかなぁ?」
「アンタ以外誰が」
「ちがうちがう」
じゃあ何のことだという顔をした泉に、凛月は渡された水を呷りながら目でいまだ地面に蹲ったままのレオを示す。あのまま放っておいたら首のあたり焦げるんじゃないかな。凛月の視線を追って、泉も、ああ、と気が抜けたように呟く。
「アレは云っても聞かないでしょ」
「そうかもねぇ、じゃあそういうことで、おやすみセッちゃん」
「ちょっと、呼んだのそっちでしょお」
「用事は済んだよ。ご苦労ご苦労♪」
「はぁ〜?」
信じらんない。チョ〜うざぁい。続く言葉は定型文なので聞き流す。
(本当にね。ご苦労様だよね。)
王様は今、セッちゃんのことなんて頭の隅にもないのにね。ユニットの事も、自分の事も、だれの事も、考えてないのにね。自分の事もまともに面倒見れない人のために、炎天下小一時間も立ってるの。馬鹿みたいだね。かわいそうだね。ねぇ、セッちゃん。軽々しく、凛月は同情する。魔物は人の愚かさに対して、人より横柄で寛容なのだ。
レオは自分の体で地面に敷いた五線譜に影を作っていたのだから、それで事足りたのだ。充分と判断して、音楽の世界に没入したのだ。後頭部を照らされて熱中症になろうが、汗を流しすぎて脱水症状を起こそうが自己責任だ。管理がなってないんだから、まったくあんたは、云々。泉が諦めるまで、レオに云い続けたお小言だ。凛月は惰眠を貪る頭の隅で、ずっと永いこと、泉の怒声を聞いていた気がする。ノイズはレオの世界には届かない。聞こえても聞こえなくても変わらない。響かない。それに気付いて、諦めて、諦められていることも知っていて、それでも黙って寄り添う姿は滑稽だった。泉の甘さで、レオの甘えで、2人の我儘だ。凛月は傍観している。若いっていいね。青春だね。巻き込まれたくはないなぁと、そこだけは切実に。眠りへ落ちる一つ前で、凛月は先の違和感を思い出す。寝惚けた意識で、ねぇ、と、目を瞑ったまま隣の気配に声をかける。
「さっきなに見てたの」
「なぁに、寝るんじゃないの?」
「何か見てたじゃん。なに見てたの?」
じろり、と、今度は目を開けて隣を見やる。泉はやはり、まだそこにいて、少し苛立ったようすで凛月を見ていた。木陰に入ってしまったせいか、もう一度、肌を焼く太陽の下へ戻ることを躊躇しているようだ。口で捻くれを装っているが、行動はシンプルで、存外正直な男である。
「……別に、何も」
形の良い唇が呼気の合間こぼすように言葉を返した。重力に逆らわず落ちるような低く静かな声は、返事というより、独り言のような響きを持っている。なんだかやけに、薄弱だったので、凛月はそのこたえに満足せず、億劫さを多分に滲ませながら、泉の怠惰を叱るような気持ちで、重ねて訊ねようと口を開く。温い空気が舌にさわって、ああそりゃあ、苛々もするよねと、唐突に理解する。凛月は己の事を、兄より幾分か、義理堅い魔物だと自負していた。セナを頼むと云った、舞台上の王の世迷言を、了承しないまでも、まるで昨日のことのように覚えている。ここまで凛月を自由にさせてくれるユニットに、恩義がないわけではないのだ。感謝していた。巻き込まれたくはなかったんだけど、巻き込まれちゃってるわけだし、仕方ないなぁ。凛月はやはり、諦めることがうまかった。少なくとも、隣で暑さに怯んで立ち竦んでいる男よりは、余程。