赤いポスト




「ねぇ」
「うるさいなぁ。寝るならさっさと寝なよねぇ」

 凛月がしつこく答えをねだるので、先ほどまでことを、泉は思い出す。正門の向こう、道路の先に揺れる、赤いポストを眺めていた。時間を持て余した泉の視界で一番目を引く色をして、ゆらゆらと揺れながらその無機物が地面からほんの数センチ浮いていた。造形と色彩は泉の中で最も優先される情報だったので、うだるような暑さに死滅した脳細胞が本能のまま眺めるのに、過不足ないものがそのポストだった。今は揺れるオレンジ色を眺めている。やはり一番目を引く色だった。

「ポスト、浮いて、揺れてたから」
「浮いて……ああ、」
「さっき水撒いてたからねぇ」

 効果のほどは感じないけれど、誰かが打ち水でも撒いたらしい。こんな日に水を撒いたって、かえって蒸すだけなんじゃなかろうか。正門の前の道路には水が溜まっていた。整備がなってないんじゃないのと心中皮肉りながら、泉はそうして先ほどまで、蜃気楼を見ていた。泉が見ている世界はすべて、そういうものばかりでできていた。錯覚は見慣れたもので、実際、泉は嫌気がさしているのに、逃れた筈のこの場所でも、何故だか泉は、それらにとらわれたままだった。それは宙に浮く赤いポストだったり、隣に寝転ぶ男の紅い瞳だったり、目の前で揺れるオレンジ頭だったり、失くしたと思っていた翡翠の宝物だったり、昔馴染みの先輩や後輩の形をしていて、泉を時折、ひどく感傷的にさせるのがうまかった。ぜんぶがぜんぶ、嘘みたいに綺麗で、だからこそ、永遠に続くとは、泉はまったく、これっぽっちも信じることができないのだ。世界はよく出来た騙し絵みたいなもので、本当があることは知っていたけれど、仮に泉を魅了するそれらに嘘がなかったとして、本物が嘘より脆いことも、また泉は知っていた。

「じゃあ、今度こそ、おやすみセッちゃん」
「あ、おい、ほんとに寝るわけぇ?」
「ぐぅ」

 そう云って返事も聞かず、凛月は夢の中へと旅立ってしまった。今の今まで寝ていたんじゃないのか。泉は呆気にとられて寝そべる黒髪を眺める。今日はユニット練習もないし、別に、構いやしないのだけど、面倒な絡み方をしてきたくせに、こいつは。ふつりと沸き立つ苛立ちを逃がすため大きく息を吐いた。草むらの上に躊躇いなく寝転ぶことができる神経を泉は疑うが、眠る男はとても、悔しいくらい絵になるのだ。口を開けば要領を得ないことばかり、良く回る舌に乗せて泉を苛立たせる同い年の後輩は、場を支配する才を持っていた。泉が出逢う人間の中には、そこに居るだけで世界を作ってしまう者が稀に居て、凛月もその内の一人だった。浮世離れした容姿、仕草、表情、声音、そこに居るだけで作られる、他人を惹きつける空気感。兄譲り、と云うと、本人はとても嫌そうな顔をするのだろうけど、間違いなく兄弟ともに似通った、生まれ持ってのギフトだろう。ところかまわずだらりと寝そべり、屍を騙り生きている矛盾を見ると、泉は無性に苛々するのだけれど、性格の不和をさておいて、大半が八つ当たりだと気付いていた。

(……もう、何なの、どいつもこいつも)

 泉は自他ともに価値のあるものになりたかった。認められ、望まれ、誰よりも強く輝きたかった。そのために嘘を吐くことは、泉にとって生来の仕事だった。騙し絵は世界であり、同時に泉自身のことだ。ありのままで良いと云って貰えるほど、泉が与えられたギフトは多くないので、誰よりもうまく、美しく嘘を吐かなければならない。容姿以外のほとんどが凡庸であることを自覚していた。埋没していくことは、プライドが許さなかった。きらきらとして華やかな、泉が望む世界で生き残るためには、努力と、相応の能力が必要だ。

 だから今、ここにいる。こんな真夏日に、他人の無策無謀に付き合っている。揺れるオレンジの頭を眺めている。そろそろ戻らなくては。木陰が思いのほか涼しくて、足がどうにも重いのだけど、あれは自分で自分を守る術をほとんど知らないのだから、早く、戻らなくては。ここは安全ではないのだから。束ねた髪の隙間から見えるうなじが、じりじりと焼かれているようで、見ているこちらが熱かった。泉は意を決して、日の下へ一歩、足を進める。太陽の位置を測りながら、一番陰る面積が広いよう日傘を持ち直す。大した距離ではないのに、散らばった楽譜を集めながらレオに近付いていくと、途方もない気分になる。一枚、また一枚と拾う手が地面に近づくたび、照り返しと熱に嫌気がさした。

「王様、いい加減にして。帰るよぉ」
「うおっセナ?! どっから沸いた! 待って、云わないで! 妄想するから……」
「妄想は今まで散々してたでしょお? ずっと居たよ。ったく」
「わはは☆ ずっと居たのか!? 暇人だな! ずっとっていつからだ? 何時何分地球が何回まわった時?? 」
「ああ、もう、うざぁい。大体使い方ちがくないそれ……」

 泉に武器を与えてくれる神様のような少年(男と呼ぶには、その時レオは、あまりに幼い容姿をしていた)は神ではなくただの人間で、王と呼ばれる、かなしい生き物だった。泉はそのかなしい生き物の騎士で、王でもあった。レオが考え、与えた、泉へのはじめての答えだった。レオは、お前そのものを芸術として昇華してやると云った。泉が望むなら、玉座をくれてやると、そう云って、泉の身の内に潜む、薄汚い欲望の一部を謳った。自分にそんな価値はないのだと知りながら、差し出された剣を取った。あの時はじめて、泉も応えた。

 あの日、確かに泉のそれまでは報われたのだ。レオが愛した泉の人間性は歪で、醜悪で、身の程知らずで、だからこそ、泉にはその時、ひとつも嘘がないのだった。多幸感で頭が割れそうになって、全身が生まれ変わったように錯覚した。生意気な後輩が、鳴上嵐が、同じ舞台上で笑っている。心底愉快だという風に、泉を見て笑っている。初恋の人に告白されたみたいだと、揶揄いと、めずらしく、羨望のようなものを浮かべて。泉の持っているものは、違う形で、嵐が有しているものばかりで、持っていないものがあったとしても、最初から、欲しいともおもっていないものばかりだった。その嵐が。
 もし映像が残っていたとしたら、自分は一体、どんな顔をしているだろう。自分の表情がわからないなんてことは、泉にはもう、随分とないことだった。

「そっか〜ずっと待っててくれたんだな!」

 そういうのいいから、ほら、帰るよ。いまだ蹲ったままのレオを促す。そろそろ西日になろうかという時間なのに、気温は一向に下がらない。ん〜と伸びをしたレオが、素直に立ち上がってくれたことに安堵した。これ以上、陽の下に居るのはごめんだ。先ほど凛月に返された飲みさしを、レオに渡す。水飲んで、汗拭いて、さっさと歩いて、鞄取りに行くよぉ。泉はレオを、いつも通り叱り、世話を焼く。ありがとな!と、レオはされるがまま快活に笑み、泉がまとめた楽譜を受け取って歩き出した。束ねた尻尾が揺れている。違う、と、泉は頭の中で否定する。誤魔化すように、溜息をつきながら。この齟齬を、もうずっと、正せずにいる。感謝されるようなことじゃない。すべて泉が、泉自身のためにやっていることで、レオのためにやっていることなんて、何一つないのだ。それがとても、泉は苦しい。こんなことは、今までなかった。

 物心つく頃には、自分は商品で、時に媒体で、大人の世界の一部だった。利用され、利用することしかしてこなかったから、友人らしい友人はいなかった。周囲には大人と、商品の服と、自分と同じマネキンの子供ばかりが居た。大好きだ! 愛してるよ! 臆面なく好意を口にするレオに、友達じゃないんだからと、そんなことを、何度も告げた。その度に、レオはさみしそうに笑うので、繰り返すレオも、好意を返すことすらままならない自分も嫌だった。保身のためだけに、レオを傷つけている。わかっていた。認めてしまえば、楽になれることも。幸福すら、感じるだろうことも。

 それでも、この先がないことを、泉は最近、うっすらとわかっている。嵐がユニット練習に顔を出さなくなった。どういうつもりか、廊下ですれ違ったとき訊ねると、本番までには合わせるわァと、のらくら躱されるばかりだった。泉ちゃんも、程々にしなさいよォと、馴染んでしまった女言葉が、その時は無性に腹立たしかったのを覚えている。顔に呆れと、ほんの少し、義理と情を忍ばせて、泉の横を、嵐は簡単にすり抜けて行った。相変わらず、可愛げのない。あれは敏いから、不自然な熱気から距離を置く癖がある。一つの予兆のようなものだ。終わりの予感がする。浸み出すように嫌な空気が敷地内に蔓延している。思惑の臭いがする。誰かが誰かを陥れようとしている。いたるところに罠の気配がする。恐らく、レオは、Knightsは、その計略に組み込まれている。うまく、行き過ぎていた。

「さっきの、何の曲?」
「ん〜〜次のデュエルで使う曲」

 そう云って、レオは鼻歌でメロディをなぞっていく。打ち込んだらすぐそっちに入れるから、待ってろよ。泉のiPodを指して、レオはぎらぎらとした目で笑う。違う、そうじゃなくて、泉は何度目かわからない、そうじゃないを重ねていく。その曲のタイトルは何なの、れおくん。レオがつけるとんちきなタイトルを、泉はもう、しばらく聞いていなかった。程々に、ねぇ。わかってるよ、なるくん。そんなことは、云われなくてもわかっていた。泉は視界で揺れるオレンジを目で追い続ける。

 崩壊は間近だ。退けないのは、レオが居るからだ。レオのせいではない。泉のせいだ。レオは泉が巻き込んだ。ずっとずっと、泉は泉のせいで苦しんでいる。レオは疑わない。保身がない。すべてを捧げると誓ったまま、どこまでも、行けるところまで行くつもりだ。泉を連れて、一番高いところに昇れるだけ昇って、それで終わっていいと思っている。立ち止まったレオが振り返った時、せめて自分だけは近くに居なくては。そんなことを、もうずっと、自惚れとも思わず、泉は考えている。心中はできない。泉は泉自身を捨てることはできない。それでも、傍に居ることはできる。寄り添うだけ、共に戦うだけ、最期まで、それが泉の精一杯だ。レオの瞳は壊れた宝物にそっくりだった。泉は知っている。ほんとうは、嘘より脆い。



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