夢現
ユニットとして活動をはじめてしばらくのことだった。
こはくは日中、人が出払って閑散とした寮の敷地をうろうろと歩き、思考の空白に、夕方から夜にかけて入ったレッスンの予定を反すうしながら、旧館の寮室へとやってきた。人気のない時間を選んで散歩するのが最近の日課になっているので、とくに目的はなかった。
割り当てられた部屋のドアを開くと、むっと澱んだ空気が顔にぶつかり、鼻の頭にしわを寄せる。部屋のドアに自身の持ってきた練習着の入ったショルダーバッグを挟み、窓を網戸にして換気する。室内を見渡し、ほこりっぽさにひとつ咳払いをした。腰に手を当て覚悟を決める。
こはくは手始めにベッドへと近付いた。上段に登って布団からシーツを剥ぎ、下へと投げる。向いも同様にして、布団を四人分えいやえいやとベランダに干していく。ベランダに近付くとガラスの曇りが気になって、古いカバーをランドリーまで持っていったあと、窓も網戸もと切りなく拭き、ほこりの舞った室内に掃除機をかけた。
始めてしまったので、最後までやるしかなかった。時間はたっぷりとあったので、その日のこはくは部屋の掃除に明け暮れることにした。ユニットメンバーがその部屋に集まることは滅多になく、誰も居付かない部屋だった。
黙々と床を雑巾掛けして、家具まで拭き掃除を終えたところで、外側に扉が大きく開いた。風が一気に室内の空気を攫う。目の前の作業に集中していたこはくが顔をあげると、入り口には燐音が立っていた。
「よォ、何してんの?」
「掃除。見てわかるやろ」
「どういう風の吹き回しだよ」
不潔に見えるのだろうか、とこはくは自身の身なりを思い返し、次に、あぁ状況のことか、と遅れて気付いた。燐音も、この部屋に誰かが居ることが珍しいのだろう。正しく理解できているか確かめるように、こはくは燐音に問いを返す。
「ぬしはんこそ、この部屋来るなんて珍しなぁ」
「タオル持ってくんの忘れたからさァ。レッスン前に寄った」
「早ない?」
「昼寝」
「さよけ。そろそろ取り込もう思ってたんよ。ちょお待って」
「良いって。自分で入れっから」
こはくが下段のベッドから抜け出そうとするのを制止して、燐音はずかずかと部屋を横断しベランダへ出た。物干し竿とベランダの柵に干した敷布団を二枚ずつまとめて、ひょいひょいと取り込む。続いて隣の部屋の柵を拝借して干していた夏用の掛布団を四枚まとめて戻ってくる。一枚ずつ干したこはくは、そうか、まとめれば良かったのだと要領の悪さにひそかに落ち込み、しかし顔はなんだか不機嫌に落ち着いてしまった。恨みがましい視線に、網戸とガラス戸を閉めて振り返った燐音が片眉を上げた。
「何だよ」
「別に」
「あっそ」
こはくは目を逸らして、思い出したように除湿の設定で空調を入れた。そのあいだ、燐音は備品がまとめてあるチェストから四組新しいカバーを出した。部屋の中央にまとめた敷布団と掛布団を一組ベッドの上段に投げ入れ、下段にも一組仮置いてからはしごを登る。上段の敷布団にシーツを敷く。続いて掛け布団のカバーは四隅を結び、ファスナーを閉めて折り畳む。ベッドの片側に寄せてその上に枕を置いた。こはくも燐音のやり方を真似て、向かいの上段に布団を敷き、下段に降りてそこにも布団を敷いた。二段ベッド一台分の布団を整えたところで隣を見ると、燐音は下段に寝転がってすっかり寝る体勢に入っていた。よく見ると下段のカバーは適当に広げただけになっていて、ベッドの縁にぺろりと白い布が不揃いにはみ出ていた。呆れて燐音が担当した向かいのベッド上段を見ると、そちらは几帳面に仕上がっている。ふざけた男だと思っていたのに、今日は真人間のような振る舞いだった。よくわからない大人だ。
こはくも一つ欠伸をする。残りのベッドを見比べて、空いているもう一つの下段に腰かける。この部屋のベッドはまだ決まっていなかった。誰もこの部屋を使わないので、どこを使うと話した覚えもなかった。
「おめェも時間まで寝れば? 目覚ましかけとくし」
「……うん」
「うんって。かわいー」
「それが遺言っちことで良ぇの?」
「流せよ。もっと揶揄いたくなンだろォ」
「はぁ」
——あほらし。寝よう。
こはくが外界で初めて所属したCrazy:Bという団体は、ほとんど取り決めがない。目的だけは各々にあり、それを軸に共に動いてはいるけれど、関係としてははじまる前から瓦解している。火花を散らすように悪意を振りまいて、遠くない終わりに向けて動いている。このような穏やかさは落ち着かない。
「掃除」
向かいの丸まった背中からうすぼけた声が届く。こはくはまだ意識がはっきりしていたので、もぞもぞと背を向けたばかりの体を燐音の方へ向けた。
「何て?」
「サンキュ。布団あったけェ」
「…………う、ん」
「うん?」
「、ぃや」
「きゃは。おやすみ」
「おやすみ、なさい」
ふっと鼻から抜けるような音が最後で、そのあと燐音は何も話さなくなった。この距離では寝息も聞こえないので、部屋はしんとして、稀に除湿が稼働する音だけが、実在をこはくに知覚させた。
目を瞑ると、いつも何処にいるのかわからなくなった。起きると今が幻のように消え去って、かび臭い座敷牢に戻っているような、そういう夢を何度も見た。こはくは夜と朝の境がわからないまま、どちらも起きたところから始まるので、ひょっとしたらこちらが夢なのかもしれない。素直に感謝されたことに動揺して、とても気恥ずかしかったので、この世界がどちらでも、いまは消えてしまって良いとも考えた。こはくは、己がすぅっと透明になって消えたり、あるいはぐちゃりと骨が砕けて内臓が飛び散ったところを想像して、ついでに燐音のことも、部屋にある家電のコードで一度締め殺した。八つ当たりだった。
一通り気持ちを落ち着けると、忘れかけていた睡魔が戻ってくる。こはくはもう一度薄く目を開けて、幻かもしれない背中に声にはせず別れを告げたあと、暖かな暗闇に帰る。