談合
「悪いこと言わねェから、やめとけって」
「そうやって出来ないと決めつけて。酷い男ですね」
酷い、と男が詰ったので、燐音は、どっちが、と吐き捨てた。何も詰られるようなことを言った覚えはなかったので動揺した。男は狡猾なので、燐音を揺さぶるのが上手だった。
番組収録の前、楽屋で対角に座って、天気の話から、番組の企画の話に移り、役回りをどう負担するかの話になった。男は『HiMERU』のために必要と主張する項目を譲らず、しかし燐音は、その役割を己とこはくに振るべきだと考えていた。
ここにニキが居れば、とふらりと思考が横道に逸れた。ニキは察しが良いので、ついでに馬鹿な振りをして実際馬鹿なので、燐音がおもう方向へ誘導すれば燐音の思惑に乗ってくれる。兎にも角にも、現状の燐音は男とふたりきりで意見を交わすことは避けたかった。HiMERUは大衆を魅了するアイドルだが、それを演じる男は誰か一人のために演じることの方が得意なので、対面で話すことは燐音に些か不利である。
真逆の性質を持つ男を相手に、己を少しでも優位に持っていくために、燐音はHiMERUを、男の真意を無視しなくてはならなかった。男もそれをわかっているので、そのときは巧みに燐音の気を引いた。酷いですね、と言いながら朗らかに笑い、酷い奴だ、と微笑みながら重ねて、長いまつ毛を伏せ頬に影を落とした。美しい貌を惜しげもなく悲哀で彩って、燐音にまざまざと見せつける。胃にもたれる、と燐音は辟易とし、次第に男の顔色を窺うのが億劫になった。
ふっと表情を意図的に消して腕を組む。認めない、という姿勢を示して、HiMERUが諦めるのを待った。これは賭けだった。リーダーを担っているのは燐音で、HiMERUはある程度、燐音の意を組んで動いた。行き過ぎれば脱退すると騒ぎ出すだろうが、適度に機嫌を取っているため、いまのところ関係は維持されている、筈だ。所属するメリットが上回れば、男は無駄にことを荒立てない。それこそHiMERUのためにならないことはしないので、そこへの信頼はある。
「他のコーナーで得意そうなのあンだろ。謎解きとか」
「HiMERUの新たな魅力を、ファンの皆さんに届けたいのです。謎解きはあなたがやれば良いでしょう?」
「体力勝負つーか、運動神経の勝負だろ? おめェには向かないンじゃね?」
「まるでHiMERUが運動神経が悪いみたいな物言いはやめてください」
「適任が他にいるっしょ。怪我されても困るから、大人しくしとけって」
「HiMERUがそのような失態を犯すわけがありません。引き際は心得ているのです」
「今じゃね、引くの?」
しかし妙である。男がやりたがるようなことでも、『HiMERU』がやるべきと主張するようなことでもない。まさか揉めるとは考えていなかった。前提として進めようとした話に、待ったが入った。どうして、と聞いても、たまには良いじゃないですかと、はぐらかすようなことを言う。今はまだ居ないこはくが、自らやりたがりそうな企画でもあったので、男は先ず燐音を説得して、味方に引き入れたいようだった。
「理由がないなら、俺っちとこはくちゃんでやるから」
言い切るかたちで、席を立つ。手洗いに立って戻ってくるまでに、男が決めれば良いとおもった。適性を考えてのことだが、シリアスに云い合うようなことでもない。たかがバラエティのお遊びだ。
ドアノブに手をかけようというところで、袖が引っ張られる。顔だけ振り返ると、そのままぐっと身体を密着されて、壁際に追い込まれる。何だいまの動きは。咄嗟に反応が遅れた。燐音は腕を拘束されたまま、目だけで男を睨む。男はHiMERUの顔で、してやったりと笑っていた。どうやらできると言いたいらしい。
「便所行きたいンですけどォ」
「最近、起きてテレビを見ているようなのです。でも、クイズや謎解き番組よりも、絵的に派手な、身体を動かすものの方が好きなようで」
「は?」
「良いところを、見せたいのです」
「あーー……」
「兄として」
「……それ言うの狡くね?」
「良いでしょう天城」
「おはようさん。何イチャついとんの? 暑苦しいで」
がちゃりと真横で音がして、年長二人がもつれ合う姿を確認したこはくが、入室と同時に毒を吐く。そのままの態勢で、HiMERUが「おはようございます、桜河」といつも通りの挨拶をする。こはくは奇妙なものを避けるように、半身になりながら部屋の奥へと進む。
「はよこはくちゃん、今日のタッグでドキドキ空中アスレチック対決、やりたい? 見せ場だけど」
「は? やる」
「じゃあメルメルと頑張って」
「え、燐音はんとちゃうの?」
「不服そうですね桜河」
「負けたないし」
「言いましたね。HiMERUはどんなものでも完璧にこなして見せますよ」
「あかん、聞く気ないやつやこれ」
こはくはがっくりと肩を落として、空いた椅子に下げていたショルダーバッグを下ろす。腰に手を当てて苦笑する。
「ほんならまぁ、頑張ろか」
「はい。よろしくお願いします」
HiMERUが自信満々という風に胸を張る。緩んだ拘束から抜け出して、燐音はこの企画の罰ゲームについて思いを巡らせる。以前この番組に出ていた同事務所のアイドルは蜘蛛を食べさせられていたが、その前は紐なしバンジー、その前は水落ちと、回によってさまざまである。異様に振れ幅があるのは、敗者に合わせて最も嫌がりそうなことを勝者が決めるからだ。
取り敢えず身体を解しておくかと、手洗いに向かって廊下を歩きながら首を回す。連帯責任なので、どのような無茶振りをされるかわからない。意外性もあるし、番組自体は面白くなるだろう予感はあるので、あとはなるようになれだった。最悪、怪我をしてお蔵にさえならなければ良い。
角を曲がると、丁度エレベーターからニキが顔を出す。ぺたぺた呑気に歩きながら、正面の燐音に気付いて手をあげる。
「あ、燐音くん。ちょりーっす」
「ニキお前、今日メルメルがすげェやる気だから俺っちと謎解きな」
「んぃ? え〜罰ゲーム何かなぁ」
「諦めてんじゃねーぞオイ」