ゆくとしくるとし






「なんや、音がする」
「音?」
「ぼわん……ごおん? あぁ、ほれ」
 また鳴った。
 こはくが音の方角を指すと、燐音は冬の高い空を見上げて、アーと鳴いた。それから上着の中で暖を取っていた右手でスマートホンを取り出し「二年参り行くか」と言った。
 Beehiveの大掃除を手伝って、店長から少し早いお年玉と、ポチ袋を持たされた帰りだった。飲食店はどこも年末まで忙しなく、ニキは食堂やシナモン、昔世話になった店のヘルプに入ったりと、近々は師走を体現しており不在だった。HiMERUは意外にもお愛想程度に顔を出したが、営業中に窓を三枚みがき上げ、年末は家族と過ごしますと、冗談のようなことを言って浅い時間に抜けた。そうして予定がなかった二人は、年の瀬だからと早めに営業を切り上げた店内で、他のキャストや、なぜか常連の客たちとともに年越しの準備をした。
「良いお年を」
 だれかれと挨拶をして、店先を方々に別れたころには、今年も残り二十三分。こはくと燐音は見慣れた道を寮へ向かって歩いていた。無料で配られたインスタントのたぬきそばを給餌のあいだに食べて、年越しそばは済ませていた。あとは帰って寝るだけだ。
 そして、冒頭へ戻る。

 一番近い神社まで歩いているうちに年は明けた。
 スマートホンで地図アプリを起動していた燐音が、半歩後ろを歩くこはくを振り返り「あけおめ〜」と笑うので、こはくは「あけましておめでとう」と口の端をあげて応えた。冷えた頬はかたまって、うまく笑えなかった。
「去年……じゃねェーわ。昨年は!タイヘンお世話になりましたァ」
「おん。お世話しました」
「ンだとコラ。お世話になりまくりましたって言えや」
「感謝ってカツアゲできるもんなん?」
 惚けたように首を傾げると、手加減された手刀が額に振ってくる。避けるか悩んで、甘んじて受ける。痛くもないし、直前まで上着に仕舞われていた左手は冷えた肌にじわりと温い。
「痛いわボケ」
「痛いわけあるか」
「——ん。まぁ、世話になったわ」
「今年もよろしくゥ〜」
 ふざけながら適当に言い合って、けれどそれは、こはくにとってまだ慣れないことだったので、不自然にならないようひそかに注意した。燐音がニキと明日の他愛ない約束をするときのように、燐音とHiMERUがくだらない毒を吐いて鼻で笑うときのように。殊更どうでも良いふうを装って、よろしう、とこはくは応えた。

 境内に着くと、燐音は「振る舞い酒がねェーのは景気悪いよなァ」と時世を嘆いた。この神社は、数年前まで酒蔵があって、甘酒がうまかったのだとか。たくあんもあったとか。
「いつもそんなんあるん?」
「正月だけじゃね? そんな毎日来るわけでもねェーし、知らね」
「ふぅん」
 それなりに長い列に並んだが、するすると人が流れていく。燐音が指差す方向を眺めたり、スマホの充電を気にしながら時間を潰しているうちに、前の様子がわかるくらい視界がひらけて、あっという間に次の次という順番になった。手持無沙汰に調べていた参拝の作法をもう一度表示して、手順を確認する。
「『賽銭箱の前に立ったら会釈をし、神さまに捧げる真心のしるしとして、賽銭箱にお賽銭を入れます』やて」
「二拝二拍手一拝な」
 燐音は心得ているようで、階段を一段上がりながらこはくに耳打ちをする。前の人間を顎で指して、こはくの視線を誘導する。高齢の恐らく男性と、孫にあたるであろう少年が、こはくが口だけで確認したばかりの動作をして、やがて階段を下りて行った。
「ジジババガキがやたら居るの、初詣って感じするわ」
「この時間は、確かによう見んなぁ」
「こはくちゃんも、夜一人で歩いてっと補導されるっしょ」
「ふん。サツなんぞ声かけられる前に撒いたるわ」
「Beehiveあたりで我慢しとけよ」
「あそこなら良いって理屈、よぉわからんのやけど」
 そこで順番が来て、見た通り倣う。鐘を鳴らして、会釈して、賽銭を投げて、にはいにはくしゅいちはい。
 目を瞑っても願い事は思いつかなくて、ぼんやりと、また来年来れたら良いな、来たいです。来させてください。そんなことを、できるだけ丁寧な言葉に直しながら繰り返した。

 帰り道、ぽつんと発光する自販機を見つけた。
 羽虫よろしく燐音はそこへ吸い込まれるように寄っていき、参拝のために持っていた小銭のあまりを投入した。点灯するボタンを押しながら「高ェ」とひとつ文句をつけて、それでもこはくに、がこんっと落ちた熱源を投げてよこす。赤と白のパッケージには、甘酒と印字されていた。
 おかね、とこはくが上着のポケットに手を入れてごそごそと探っていたら、働きで返せと軽口で嗜められた。これが高いのか安いのか、こはくにはよくわからない。こはくの懐事情としては、殆どリッドルで賄えてしまうため、現金の相場は馴染まない。
 たかが百四十円、されど百四十円。今年も一年こき使われるのだろうか。使われるのだろう。燐音にも、事務所にも。あとは家とか、他のよく知らない大人とか。
 主人であるはずの司はトラブルさえなければ干渉してこないので、帳尻は合うのかもしれないが。なんだか不自由だな、面倒だなと、想像して不機嫌になりながら、こはくは直接持つには熱いそれを、服の袖を挟んで持ち直す。
「いうて、高いなら返すわ」
「違う違う。ちょっと前より高いってハナシ」
「ちょっとまえ?」
 こはくは首を傾げて、青白く照らされる横顔をのぞく。がこんっとまた音が鳴り、燐音は自分の分を取り出した。
「ンー、4……5年前?」
「あぁ、そらわからんわ」
「だよなァ」
 大人の言うちょっと前は、ついさっきのことだったり、こはくにとってはあずかり知らぬ大昔のことだったり、ずれの大きい事柄の一つである。まえ、はあったという酒蔵のことも、甘酒のことも、たくあんのことも、こはくは何も知らないので、適当な返事をしてしまう。返事を期待したものではないのだと知っているので、その話題が恙無く流れていくなら、それで良いのだ。

 一度「知らんて、そない前のこと」と返してしまったことがある。
 その日は確か、そういうことが多い日で、例えば藍良が駅のマスコットキャラを見て、へぇ変わったんだ〜と指さしたり、HiMERUがクイズ番組の予習をしていて、野口の前は夏目でその前は、さて何でしょう? と暇つぶしのクイズで振ってきたり、ニキが楽屋に置いてある駄菓子を見て、懐かしいっすねぇ〜と一通り口に入れたあと、これ好きだったんだよねぇ、昔のパッケージの方が好きだったなぁ〜とカラフルなグミをつまんでいたり、何だかそういうことばかりの日で、こはくは無性に苛々していた。そこで燐音の、とくに煽ったわけでもない一言に、面白くない返しをしてしまった。何を言われたのかよく覚えていない。ただそのとき、燐音は虚を疲れたように目を瞬かせたあと、こはくの頭をぐしゃぐしゃ撫でて「拗ねんなって」と猫撫で声で機嫌を取った。
 それからというもの、その類の話になるたび、というか、結局それはただの世間話で、雑談のひとつで、話題を避けるにも頻出するそれを避けることは難しく、燐音は思い出を口にしたあと、こはくの反応にあわせて相槌を変えるようになった。普段好き勝手ふるまう尊大な頭目に、無駄にこころを配られることが落ち着かなくて、こはくはもう二度と、おなじ愚はおかさないと誓っている。

「来年高くなってるか安くなってるか賭けよーぜ」
 おもえば燐音は、よく未来の話をするようになった。先のことは誰にもわからないから、平等で、公平であるようだった。HiMERUが嫌いそうで、ニキは興味がなさそうだとおもった。同じくらい、燐音は過去のことにあまり、興味がないのかもしれなかった。こはくが自ら家のことを開示することはあっても、あらたまって何か聞かれたおぼえはなかった。
 だからそのうち、すっかり忘れてくれますようにと、夜なのだからどこかで流星くらいあるだろうと、頭の中で三回繰り返してみた。他力本願な日だなと、少し面白くなった。
「わし、年末の特番出たい。SSだけやなくて、何や、賑やかなやつ」
 その途中で、店のテレビに映っていた、ジュンや双子が参加していたスポーツ系バラエティのことを思い出した。生放送でこれは大変やなぁとか、参加したら楽しそうだなぁとか、考えていたことを、こはくの願い事として打ち明けた。燐音は口笛を吹いて、掠れた声で上機嫌に笑う。
「いいねェ! 野心家で。神社できちんとお願いしたかァ?」
「あかん。違うことに使ってもうた」
「ガキのくせに、手前の爺に釣られて健康でもお祈りしちまったか?」
 前に並んでいた老人は、家内安全、健康長寿と、ぶつぶつ小さな声で祈って、孫に手をひかれながらしっかりした足取りで階段を降りて行った。こはくは、まだ生きたいんやなぁと、幸福な人生をあわく皮肉りながら感心していた。意地の悪い感想だったので口にはしなかったが、燐音も似たようなことを思ったらしい。
「ううん。でもまぁ」
 適温に冷めた赤い缶のプルタブを引く。
 甘さのなかにほのかな酸味と酒の匂いが混ざっている。耳と顎のあいだあたりが、ぐっと押されたように鈍く痛む。
「しゃあないな。叶わんかったら、また燐音はんと此処来るわ」
 来年またここに来たい、と願ったなんて、どうにもセンチメンタルで、口にしたら揶揄われるか、揶揄われたあと迂遠に気を遣われるか、どちらかに決まっているので、こはくは仕方ないという体で、口約束をする。いつも通り、拘泥していると気付かれぬよう変化をつけて、適当に返事をする。
 本当はあしたのことの方がよほど、知らんて、なのだけれど。






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