トライアル  
アンドエラー



 歪んでいる、と感じた。ずれている、とも。
 燐音がよくよく注視すると、それらはすべて、桜河こはくの視野で補えないところに起きていた。呼びかけても応えがないだとか、問いかけに答えがないだとか、相槌が不自然に途切れるだとか、そういうことが、こはくとのあいだで頻繁に起こった。そのときどきはやや傷心して、次のときには気に留めなかった。どうしても答えが必要なときは、こはくの肩や腕を引いてこちらを向かせた。この子供は存外、気難しい性分であるからと、気を取り直して。しかし正面を向かせたとき、瞳の奥に困惑と焦燥を見るたび、それを隠してただちに平素を装う悪癖を見つけるたび、より違和感の形が鮮明になった。いつも背中に語りかけたときばかり、無碍に扱われていることにも気が付いた。視線が不自然に合わないことにも。何もないところで足元を確かめる様子や、時折、何かを堪えるようにこめかみを揉む仕草まで、あれもこれもと思い当たる。
 一つ一つはたいしたことではない。いずれも些細なことだが、総合すると過剰である。
「こはくちゃん」
 これは正面から。
 するとこはくの、安堵したような無表情と目が合う。その瞬間、明確に苛立ちをおぼえ、下手くそ、と顔には出さずに内心で貶した。
 次のライブで使う衣装の調整を行っている最中だった。あまりゆとりのないスケジュールで、しかし当日なんとか間に合いましたということも多いから、このように事前に全員揃ってあわせができるのは良い方だ。新曲のプロモーションが始まるのは一ヶ月後、六月の第一週。MVやジャケット撮影は終わっているが、いまなら問題が起きても、取り返しのつく範囲だ。
「何じゃ」
「それ、付け方が違う。見せてみ」
「ん」
 首元の装飾を弄っていたこはくは、おとなしく直立不動になる。そこに何でもないふうを装って身を寄せる。普段から気安い接触は多いので、疑われることはなかった。
 受け入れ態勢のこはくの両耳を軽く塞ぐ。その耳元で、聞こえるか聞こえないかの声量で「いつから?」とたずねた。この角度では、燐音の口元はこはくから見えない。しばらく待っても、こはくからの答えはない。調子に乗って、愛の言葉をささやいたところで、対角の位置にいたHiMERUが、ジャケットのボタンを留め終えて、悪趣味ですね、と吐き捨てた。ちらりと視線を向ければ、愉快そうに目だけで器用に笑う。お前も共犯か。
 そういえばと、こはくとのあいだに立ち、燐音とよく話していたHiMERUのことを、そしてここ数日のことを思い返した。遡り、およそ一週間だろうか。確証を得るまで時間がかかったのは、十中八九こいつの仕業だ。
「燐音はん?」
 こはくが戸惑いの声をあげる。この位置でも、燐音が何を言ったのか、理解していないようだった。こはくの呼びかけは、望みをつなぐような切実な響きをしていた。抑制されているようで、音の連なりは雄弁だった。こはくの声帯を通った言葉は、ろ過されたように澄み切って、彼の秘め事を、ひとつも隠すことができないようだった。強張ったままの身体は、依然、接触をゆるしている。柄にもなく、遠慮がちに。燐音は塞いでいた耳を解放して、再度問う。
「いつから聞こえてねェの?」
「…………」
「なァ、お前は知ってたよな?」
 答えないこはくに焦れて、静観を決め込むHiMERUにたずねた。HiMERUが答えようと口を開き、やめた。拘束しているわけでもないのに、こはくは身を寄せたまま、抗議するように燐音の襟ぐりを掴んで揺らす。一週間前、と声がした。こはくの声だ。
 鏡の前で、袖に針を刺されていたニキが振り返って、背後の不穏なやり取りに首を傾げている。HiMERUがそれに耳打ちをして、ニキの表情が徐々に曇る。うわぁ、HiMERUくん、エグぅ……とか、燐音くんかわいそ……とか鳴いて、無視されている。どうやらニキは知らなかったようだ。当然といえば当然だが、一人蚊帳の外に置かれたわけではないようで、その事実にすこし安堵した。それよりも、間違いなければいま、ニキに憐れまれなかったか。仕事を完全に干されたときも、真正面から可哀想なんて言われたおぼえはなかった。こはくの肩越しに、百面相しているニキと目が合う。眉を下げて、困り果てた顔で燐音を見ている。顔に可哀想と書いてある。やめろ、落ち込む。
 矜持が傷付くのを感じて溜息を吐いた。屈めた身体を起こして、こはくと改めて向き合う。怒りに任せて叱りたくはないが、頭にきていた。早く言えよ、この馬鹿。
「医者は?」
「行った。一ヶ月くらいやて、治るまで。せやから、あと三週間」
「フゥン」
 何事かと衣装スタッフとプロデューサーが顔を見合わせる。燐音はそこで離席の断りを入れ、先にHiMERUとこはくの調整を頼み、ひとり廊下へ出た。ホールハンズを起動して、個別の連絡先から目当ての人間をタップする。呼び出し音がまもなく途絶え、音が割れる勢いの挨拶が燐音の鼓膜を貫く。
『やあやあ! ご苦労様であります天城氏! して、ご用件は?』
「こはくちゃんのことで、リスケの相談」
『おやおや、バレてしまいましたか! HiMERU氏がついていながら詰めが甘い!』
「蛇ちゃんもグルかよ」
『今日は、ええと…………、あぁ、衣装合わせですか。そこに居る何も知らないプロデューサー殿と話し合って、今後の方針を決めてください。貴方がただけでこなせるものはこなしていただいて、代わりが必要な現場は、葵兄弟どちらか、または影片氏あたりを派遣します』
「つーかてめェ、こうなると読んで準備してたな?」
『有事に備えるのは当然でしょう? というか、想定より遅くて、他人事ながら冷や冷やしましたよ。全くの無関係というわけでもありませんし。自分、どうやら貴殿を買い被っていたようです。いやぁ、お二人が想定していたより有能だった、とも言えますが!』
「覚えてろよ」
『おお、怖い』



「桜河、調子はどうですか?」
 綿の波間に鴇色の小山が覗いている。この時期にしてはやや厚手の布団が人型に盛り上がり、表面は小山に向けてゆるい渦を巻いている。話すことは何もないと言わんばかりに、HiMERUの声に反応して、渦の中心がきつくなる。同室者が不在のため、二人分の空間はがらんとしている。
 呼びかけは聞こえているようだが、細かい判別が可能かまではわからず、HiMERUは話を続ける。なるべくゆっくり、大きな声で。
「すみません。フォローしきれず」
「……こうなるっち、わかってたやろ。ぬしはん」
 布団の中からくぐもった声が答える。耳の調子は、少しずつではあるが回復しているらしい。
「さぁ、何のことやら。というのは、白々しいですね。えぇ、予測はできていました」
「いけず」
「意地を張るのが悪い」

 居合わせたのは偶然だった。
 弟の見舞いを終えたところ、救急で診療を済ませた桜河と、付き添いの七種と行き会った。外来と入院病棟、また急患用の入り口はそれぞれ異なるが、極力人目を避けたいということで、職員が使う通路をHiMERUと同じく融通してもらったらしい。二人揃って、げっという顔をしたのが面白くて、また純粋に頭に包帯を巻いた桜河を憂慮して、半ば強引に事の詳細をたずねた。
「ちと小腹がすいてな」
 桜河曰く、近くのコンビニまで歩いて向かう道中、暴漢に襲われた、とのことだった。撃退したが、左右の鼓膜が破れ、難聴とめまいの症状が残っている、らしい。全く聞こえないというわけではなく、読唇も駆使すれば問題なく生活できる。なるべく部屋から出ず、漣とも生活時間をずらして、他者との接触を避ける。登校については、現在の活動日程であれば出席義務はなく、免除される。だから、誰にも言わないでほしいと、そのようなことを、いつものように愛らしくお願いされて、そのときの気分と打算で、構いませんよ、と答えた。一ヶ月もあれば、おおかた回復するものだと聞いて、安堵したのもあった。目立つ傷が残ることもないそうだ。聞く限り、新曲のプロモーションには、かろうじて間に合う。本人が騙し騙しやれると判断したなら、それを尊重しよう。七種と簡単に打ち合わせをして、その方針で決まった。
 あくまで表面上は。

「——暴かれて、困れば良いと、HiMERUは思ったのです。言葉にはしませんでしたが、おそらく副所長も」
 桜河はようやく布団から顔を出し、恨めしげにHiMERUを睨んだ。HiMERUはいつだったか、彼の親戚を罠にかけたときのように愉快で、しかしそれを全面に出すには彼を大事に想っていたので、苦笑するふりをして、その裏でこっそりと嗤った。途端こはくの眉間に皺が寄り、眼光がきつくなる。すっかり長くなった付き合いで、気遣いは無駄に終わったようだ。そらみろ、嘘をつき通すということは、とても難しいことなのだ。今度こそ、HiMERUは使い慣れた口角をあげる。何も面白いことなどないのに。
「八つ当たりはやめてください。HiMERUの演技に、落ち度はなかった筈ですが?」
 暴かれてしまえ。
 本心からそうおもったが、共犯として手を抜いたつもりはない。万全に、手抜かりなく助け、それでも完遂できないなら、それは桜河の力が足りなかったのだ。少なくとも、桜河はそう理解するはずだ。HiMERUもただ、それと自覚すれば良いとおもっていただけだ。
望みに見合う能力があるかどうか、それを見極める力が彼には足りない。欲しがることをおぼえたばかりの子供には難しいのかもしれないが、少しだけ慎重さが欲しい。彼は才気にあふれ、勇敢で、野蛮で、ときに信じられないほど愚かなので。
 ベッドサイドに立ち、沈黙する丸い頭を撫でる。口をへの字にして、ぎゅっと目を瞑る仕草は年齢以上に幼い。
「天城は何て?」
「……ぬしはんらも聞いとるやろうけど、これから一週間は絶対安静、そのあと治るまで表に出る仕事は禁止じゃ。写真撮影だけはオッケーやて」
「まぁ、危険ですからね。いまの状態で飛んだり跳ねたりは」
「だから不貞寝しとるんじゃ。放っといて」
「不貞寝ですか」
「明日から本気出す」
「ふふ」
 本気、ほんき、ねぇ。果たして何をするつもりなのだろう。ESに来る前は大層不自由に暮らしていたそうなので、部屋の中で退屈を紛らわすことは、桜河にとって、そう難しいことでもないのかもしれない。状態として好ましいかはさておき。
「良かったですね。代えがきく仕事ばかりで」
「怒っとる?」
「すこし」
 窺うような色をした双眸がHiMERUを覗く。HiMERUは微笑んだまま、桜河の頬を撫でた。桜河は眉をゆるゆる下げて、叱られた子供の顔になる。
「……堪忍、ごめんなさい」
「お大事に」
 殊勝に謝って、しかしまた、桜河は布団の中に隠れてしまった。これ以上、話し相手はしてくれないようだ。謝罪の言葉を無視して、労りだけ返した大人気なさを悪びれず、すこし残念におもう。繊細な聞き取りはいまだ難しく、めまいも続いているようなので、単純に疲れたのかもしれない。ここ一週間はとくに気を張っていただろうし、もしかしたら、頭痛も併発しているのではなかろうか。今日も何度か重苦しく息を吐いて、頭を揉んだり叩いたりしていた。
 記憶の中で持ち主に雑に扱われていた後頭部を、最後にもうひと撫でして、HiMERUはこはくの傍を離れた。
「お、HiMERU。お見舞いですか?」
「——えぇ、帰るところですが」
 部屋を出ようとしたころで帰宅した漣と顔を合わせた。これにはなるべく関わりたくないので、挨拶を交わしながら視線を外す。
「あれ、サクラくん寝てます?」
「話し疲れたようです。しばらく安静なので、無理のない範囲で気にかけてやってください」
「茨に事情は聞いたんで。HiMERU、なんか顔色悪くないですか? 大丈夫だって。中耳炎が悪化したからって死にやしませんよぉ」
「——それは、そうでしょうね。では、失礼」
「はい、じゃあまた」
 へらへら笑って、相変わらず何も知らないくせに、わかったように話をする奴だ。大事に扱われているようで、結構なことだが。



 あの日あの時間に、自分は何故コンビニに行こうなどとおもったのかと、茨は考える。後悔は先に立たないものだし、本当にただの偶然なのだから馬鹿ばかしい。どれほど備えたとしても、エラーは発生するものだ。精々、自分にはたいした運がないのだと割り切って、より慎重に、綿密に、、手段を選ばず、己の利益を追求すべしと、肝に銘じることしかやることがない。
 重要な書類仕事の前に軽く目を覚まそうと、馴染みのエナジードリンクを買いに外へ出たのだ。フロアの自販機が、真面目に一日働いたようで、ほぼ空になっていたのがいけなかった。道中やたらと殺気だった街路樹を見つけて、鈍い打音を不審におもい近づくと、真裏には頭から血を流す桜河こはくと、絞め落とされた下手人が一人倒れていた。警察沙汰を避けるため犯人は内内に処理し、けが人の診察がてらあわよくば面倒ごとを押し付けようと、意図して『HiMERU』が入院している病院へ車を走らせた。HiMERU役の彼が、人目を避けて見舞いをするため、深夜に出入りしていることは知っていた。桜河こはくが自由に出歩いている時間なら、彼も自由時間の可能性が高く、つまり出現率がより高くなる。そうしてまんまと偶然を演出して合流し、怪しまれることなく巻き込んだ。
うまくいった。
そうおもったのに。

 七種茨が天城燐音から連絡を受けた三週間後、病院から事務所へ直行した桜河こはくが、賄賂や、と、事務作業をしている茨のデスクに一本の缶を置いた。通院後の報告は元より命じていたため予定調和だが、導入が不穏である。
「はて、何の賄賂でしょうな」
「治ってへんけど、もう聴こえとるから復帰させてほしい」
「……程度にもよりますが。こちらに不都合がない限り、買収されてあげますよ」
 そう言って、茨はいましがた賄賂と称して渡されたエナジードリンクのプルタブを引く。そうだった。あの日は結局、これを買い損ねたのだ。内臓に沁みるように広がる馴染んだ刺激がリアルで、そういえば朝からまともな食事を取っていないことを思い出した。昼は何を食べようか。進行中の案件は昼食後に片付ければ良いか。食事中に目を通せるものは通しておこう。雑誌の取材は二時間後、Edenのレッスンは夜だ。それまでに一食は取らなければ。身体が資本なので、一分一秒を惜しんでもパフォーマンスは上がらない。ここからなら、社食が一番近いだろうか。肉体というものは、どうしてこんなに制限が多いのだろう。頭だけならいくらでも稼働できるのにと、おもいあがったことを考える。
 ふぅ、と澱んだ熱を逃がすように息を吐く。お疲れやね、と疲れ知らずの病み上がりが、首を傾げてこちらを見ている。おうかわこはくが、なかまになりたそうに、こちらをみている。ははっ、疲れている。確かに。確かに。元ネタよく知らないんですけどねぇ、これ。
 散漫すぎる。茨は気合いを入れて、いずれも同時に結論を出し、思考を切り上げた。他人と居るのだから、会話も進めなければならない。そうだ、此処でひとつふたつ、本音らしいことを言っておこうか。
「いやはや、天城氏やHiMERU氏が知らないことを自分の裁量で開示できるというのはなかなか気分が良い! 彼らに言えないことも言わないことも、真っ赤な大嘘を伝えることも星の数ほどありますが、個人的に秘匿していることは少ないんで」
 この程度の軽さはちょうど良い。愉快愉快。
優越感を隠さず笑うと、こはくは露骨に顔を顰めた。
「調子乗んなや」
「乗らねばこんなガキのお遊び協力しやしませんよ。自分が最低野郎であること、桜河氏には感謝してほしいものですな」
「うっ……、それは、はい。ヨロシク、オネガイシマス」
「素直でよろしい」
 やれやれと肩をすくめて、届いたばかりのメールをパソコンで確認する。こはくはついに黙りこみ、悔しげに口を曲げている。
 茨が取り繕う気も起きないほど子供で、だからこそ桜河こはくの思考は、普段相手にしている海千山千の権力者たちの理屈では測れない。何がしたいんだこいつ。下の者の気持ちがわからない。子供の気持ちが汲み取れない。そういうときは目線を合わせてしまう方が早いのだ。正しく子供をやれていた記憶などないが、底辺の生き方は熟知している。桜河こはくも、ただの子供として扱うには歪んでいる。Edenのことでもないのだしと、そこは気楽なものである。たとえ間違っても痛くもかゆくもない。どうなろうが、ありていに言えばどうでも良い。懐柔できるならそれに越したことはないが、それは何だかあじけない。この程度が適切であるという理解は、桜河こはくにもあてはまる。
「完治まではどれくらいです? 正直に述べてください」
「右はもう治っとる。左はまだぼんやり、めまいはあるけど、慣れたな。あと頭痛がある。様子見て、左はうまく塞がらなかったら手術っち言われた」
「成る程。順調にいけば二ヵ月、といったところですか」
「なんでわかるん」
「診療記録を参照しています、いま」
 パソコンの画面をこはくに見えるよう向けてやる。口をぽかりと開けて、こはくは自身のカルテを認め、茨へと目線を戻す。
「わしが嘘ついたらどうしてたん」
「無論、即効天城氏にチクりますが」
「油断も隙もあらへん…………」
 壁に凭れたまま、げんなりと肩を落とす彼は、今日も社会の、ESの異分子であり続ける。その役目を期待して引き入れた蜂の中の一匹。歓迎すべきエラーだ。今後の働きに期待。青少年の育成は未来への投資。世界の宝かは知らないが、恩を売っておくのも悪くない。恩を忘れるなら勝手に回収できるよう計らうし、仇で返すなら、握っている弱みを列挙して最大限利用したあと潰す。茨がやるべきことは、どう転んでも変わらない。
「しかし解せませんな。まったく無意味です」
「わしもそうおもう。せやから、練習っちうか。散々うまくやれって言われたし」
「ほう、HiMERU氏ですか?」
「燐音はんも、ぬしはんも。わしには同じこと言うとるように聞こえたけど、違うんか」
「心外ですな。それなりに憂慮しているのですがね、貴方のそういう側面を」
「どうでも良ぇのに?」
「使える駒が多いに越したことはないんですよ。まあだから、精々うまくやってください。成長だと、気に喰わんでしょうが、自分は認めてあげますよ」
「……おおきに?」
 腑に落ちない表情で首を傾げる桜河こはくは、やはりまるきり子供であった。斜めになった視界に引き摺られて、瞳孔が不自然に揺れることもない。申告通り、平衡感覚は掴んでいるようだ。茨の視線の意図に気付いて、こはくは片足を軸に、その場でターンしてみせた。茨が縦に指を回すと、従って後方に宙返りする。跳躍も、着地も、とくに乱れた様子はない。よくやるものだ。身軽な双子を思い浮かべて、なにか揃いの仕事をさせても良いかもしれないと、頭の片隅に留める。
 どうだ、と得意げに仁王立ちしたこはくが、茨の次の指示を待っている。茨は一つ頷いて、ユニットリーダー宛の専用メッセージで、桜河こはくの治療済み寛解の旨を、天城燐音に報告した。ついでにプロデューサー宛にも同文を送信する。五日後、新曲発売に伴うイベントにて復帰の決定と、SNSでの情報解禁日も併せて送った。画面を閉じるまもなく、了解の返信がある。
 証明として、やり取りをそのままこはくに見せる。スマホ越しに満足そうな顔が頷くので、やはり危ういなぁと、茨は何度目かの溜息を吐いた。残り少なくなった賄賂をあおる。次は売り切れなんてことがないよう、買い置きを備蓄しておこう。



「こはくちゃん、これどうぞ」
 夏休みに入って、久しぶりにシナモンを訪れたこはくを、ニキは満面の笑みで迎えた。営業終了後、または始まる前、ユニットメンバーが我が物顔でたむろするのが日常であったが、ここしばらく姿を見かけなかった。こはくもHiMERUも復学したため、毎日顔を合わすわけではないのだが。
「どうしたん、えらい豪勢やなぁ」
 軽い食事を済ませたあと、どんっと置かれた甘味に、こはくは首を傾げる。ニキはその様子を笑い、快気祝い? と、やや語尾をあげて返した。
「? 風邪とか引いとらんけど」
「そうじゃなくて。春ごろの怪我? 治ったよね」
「……………………え、」
 ニキは言わないつもりでいたが、サービスを不審におもわれてしまったので致し方ない。そういえば、いつも試食を出すときは味見程度の量を小皿に盛って出すことが多いので、驚かせてしまったかもしれない。出す前にきちんと聞けばよかった。
 こはくは数秒固まって、やがてはっとして、きょろきょろと周囲を見回した。それから、見知った顔が店内にない事を確認して、どうして、と頭を抱えた。
「何となくっすかねぇ?」
「何となくて……」
 実際は、ヒントみたいなものなら、いくらでもあった。誰もニキのことを警戒しないので、そういうことは、ニキの人生で珍しいことではなかった。それを見越して探りを入れるよう燐音から頼まれることもあるし、HiMERUから唐突にかまをかけられることもある。そのたび、適当だとしても言うか言わずかニキは選ばなくてはならなくて、それなりにしんどいおもいをするのだ。
「というわけで、これはお祝いっす! 溶ける前にどうぞ」
「…………あぁ、うん」
 さて、理由は話したことだし、何も不審がらず食べてほしい。
 こはくに出したのは紫芋のパフェだった。秋限定の新メニューの予定で、芋を丸ごと使っており、アクセントに葡萄とラズベリー乗せて彩りを添えている。クリームとアイスはバランスをとってシンプルなミルク味、トッピングにアーモンドとピスタチオ。下層のフレークはチップス状の紫芋を混ぜて、デコレーションはチョコソースを使っているが、ベリー系に変えても良いかもしれない。
 こはくが、いただきます、と手を合わせるので、召し上がれ、と反射で返す。えぇと、何の話だっけ。ああ、そうだ。
「社食の方ばっか利用してたでしょ? 身体に良さそうなもの選んで食べてるなあって。あとちょっと、薬臭い」
「……そない、わかるもんやろか」
 こはくは自身の首周りを匂って首を傾げる。
「もうしないけどね。でもたぶん、燐音くんもHiMERUくんも気付いてないっすよ」
 あるいは、薄々なにか感じていたとしても、こはくが盛大にボロを出さない限り見逃すことにしていたか。ニキが勘付いたのはアイドルとしてではなく、あくまで給餌としてなので、あの二人とは何となく、の種類が違うのだ。何となく、なんて感覚、そもそもあるのかな。燐音は小難しいことを考える割に、はったりと野生の勘で生きているが、HiMERUはどうだろう。いまだにどういう感覚で生きているのかわからない。たまに燐音以上に突拍子がなくて、そういうときは面白いけれど。
 ふふっと思い出し笑いをすると、目の前のこはくは深くため息を吐く。
「ニキはんにはバレたのに、あの人らにバレてないなんてこと、あるやろか」
 不服そうに、なんだか失礼なことをぼやく。
「こはくちゃん、素で僕のこと馬鹿にしてるよね?」
 だからわかったんだろうけど。
 ニキが知る限り、というより、やはりあの二人が何も言わないなら、今回こはくはうまくやったのだろう。それならば、野暮なことを考えるのはよそう。何事もなくこはくが治ったなら、それで良かったのだ。普通に心配したけど。
 こはくは居心地悪そうにもそもそと口を動かしている。知らない味や、お気に入りの味を発見すると、ぱっと表情が明るくなるので、素直な良いお客様なのに、今日は表情がかたいままだ。いつもなら、これなんじゃ? と、わからない味をスプーンですくって、ニキにたずねてくれたりするのに。
 タイミング間違えたなぁと、ニキはすこし反省して、使用済みの皿を食洗機につめていく。隙間なく並べてスタートを押すと、店内の音楽にごうんごうんと水と機械のノイズが混じる。
 かちゃり、と食器が触れ合う控えめな音がして、ニキは無意識にこはくを見る。もう食べ終わったのかとおもったが、まだ半分ほど残っている。お腹いっぱいだったかな。
「食べきれないなら残して良いっすよ? 僕が食べるし」
 キッチンの向かいに座ったこはくは、スプーンを半端に持ち上げたまま、何とも言えない表情でニキを見ていた。それ、葡萄だよ。流石に知ってるよね。
「馬鹿やとはおもっとるけど」
「んぃ⁈」
「馬鹿にはしてへんよ」
「ん〜〜〜〜〜、ならいっすけどぉ」
「良ぇんかい」
「んもぅ。良いっすよ。こはくちゃんが痛くないならね」
「堪忍な、心配かけて。……あぁくそ! ニキはんにバレたぁ〜」
「お口が悪い! まだ言うっすか」
「コッコッコ」
「なはは」






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