隣人




 朝起きると同室の鳴上が盆を持ってぼんやり窓の外を眺めていた。
「おはようございます」と声をかけると、薄い肩が跳ねて、はっとしたようにHiMERUと目を合わせた。それから、「おはよう、HiMERUちゃん」と、いつも通りを装って挨拶し、しかし、自身の手元に目を落として苦笑した。手元の盆には、きゅうりと茄子で作った動物が乗っている。
「……精霊馬ですね。ご実家には戻られないんですか?」
「ううん。あたしの家、そういうのしないの。これも始めて作ったのよ」
「風情がありますね」
 どうしてまた、と、顔に出ていたのか、彼女は「うふふ」と、誤魔化すように声を出して笑った。盆を窓際に置いて、上に乗った馬の形を整えている。南雲の姿が見えないので、朝からロードワークにでも出ているのか、早朝にロケでも入っただろうか。どちらにせよ、忙しくしているなら結構だった。
「変よね、急に」
「……いえ」
 HiMERUが欠伸を噛み殺したところで、また呟くような声がした。簡易なキッチンで半端に残ったポットの湯を捨て、新しい水を注いでスイッチを入れる。まだ覚醒しきらない朝の空気が、部屋の隅々までとろけるように満ちている。空調は切っていないのに、日本の夏はいつだって湿っぽい。しばらく壁に凭れて、鳴上の背中を見るともなしに眺めながら、HiMERUは湯が沸くのを待った。鳴上は均整のとれた若く美しい輪郭を朝日で縁取って、床に置いた盆を構っていた。
「誰か迎えたい人でも?」
 HiMERUは寝惚けたまま、好奇心で尋ねた。窓際など、普段は紫外線を嫌ってなるべく立たないのに、彼女の行動はとても珍しいことだった。テレビを点ける習慣がない部屋なので、ポットの中であがる気泡の音だけが沸々と小さく鳴っている。
「……悼む形があるうちは、こういう儀式めいたこと、やろうとも思わなかったのよ。手も合わせたことなかった——人間って、勝手だわ」
 そう言って、最後は何かつまらないものを嗤うように、鳴上は自作の動物を弄るのをやめた。手をだらりと床について、それから危なげなく立ち上がり、しかしそのまま、窓の外を向いて振り返らなかった。まだ、微笑みたくないのだろう。彼女は表情を取り繕わないとき、取り繕わないで済むようにそっと他人と距離を空ける。
 ごうごうと音を立てて、ポットが温め中のランプを消した。HiMERUも窓際の彼女から、意識を目の前のポットに向ける。
「空気、入れ替えるわね」
「どうぞ」
 鳴上が、律儀に断ってガラス戸を開く。カーテンがふわりとふくらんで、盆の上の動物を撫でた。網戸にすると、中庭で誰かが騒いでいる声がする。どれも知っている声で、南雲の声も、そこに混ざっているようだった。HiMERUは共有スペースから拝借した緑茶バッグに湯を注ぎながら壁の時計を見た。間もなく六時半になろうというところ。ラジオ体操の時間である。




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