善き人のための





疲れちゃった?と、おぼつかない声がする。HiMERUは要の肩にもたれかかったまま、すこし、と頷いて、寝ちゃって良いよという声に、また頷いて、それから、うすく開いたまま窓枠の影を焼き付けるだけになっていた眼球を保護した。光のあとが、瞼のうらでざわざわと蠢いていた。HiMERUは閉じたほの赤い闇の中で、しばらくそれと追いかけっこをした。最中、ひとりだけ眠るのはしたないと感じて、あなたも休んでくださいと、ぼそぼそと、ほとんど眠った声で付け足した。うん、と笑い含みの応えがあって、ふふ、とHiMERUも笑ってしまう。なんだか嬉しそうだ。機嫌の良い要の気配が、子供の体温が、あまりにも近くにあった。そのことに心底安堵して、HiMERUの意識はだんだんと遠のく。がたんごとんと車両が揺れて、要の肩を伝ってHiMERUのこめかみを叩く。石でも飲んだように身体は重かった。ぎゅうぎゅうと内臓におしこまれたそれが喉にまで満ちているようだった。ひとりぼっちだと思った。要の肩に寄りかかりながら、ここに居ない人間のことを考えていた。気がつけば、桜河こはくがHiMERUに、何か話しかけていた。隣に座って、何かを語りかけ、HiMERUに笑いかけている。HiMERUはそれを聞いているはずなのに、こはくの言っていることを、何一つ理解できなかった。HiMERUはなんだか、いまぼんやりと、ひとりだった。がたんと一度おおきく揺れて、こはくは居なくなった。呆れて帰ってしまったのだろうかと少し寂しくなっていると、そこにはいつの間にか、ニキが座っていた。駅で弁当を買ったのか、もぐもぐと口を動かして、また何かHiMERUに話しかけている。それも理解できず、ただ箸でつままれたウィンナーと楽しそうなニキの顔を見れば、食べろとすすめられていることはわかった。けれどそのときHiMERUは何の感覚にも乏しく、腹も減っていなかったので断わった。すると、がたんごとん、音がまた割り込んで、ニキは消えた。ニキは食事を断ると、もう一度は滅多にすすめてこないので、やはりまた、HiMERUはひとりになった。直後、ぐっと後ろから圧迫され、反発するように元の態勢に戻ると、今度は燐音が気安く肩を抱いていた。揶揄の表情で何かを言った。理解できずとも、からかいついでの潜めた声で、何やらまどろっこしく発破をかけてくるのは、いつも通り。そうやって、器用なのか不器用なのか、気遣ってくるのも、いつも通り。だからHiMERUもいつも通り鼻で笑って、そしてまた、ひとりになった。巽のことは、考えたくないので、考えなかった。巽は笑って、親しげにこちらへと手を上げ、その瞬間、跡形もなく消えた。ひとりになった。あちこちから声がしているのに、HiMERUはいま、ひとりだった。だれかと交歓するたび、または接触するたび、HiMERUは、ふわっとあがって、すうっとおりて、そういう落ち着かなさを持て余すことになる。持て余して所在なげに、半ば自棄のように腰に手を当てるHiMERUを、三台のカメラが映している。被写体はどの角度も隙なくくまなく余すところなく『HiMERU』である。たとえ誰かが映り込んでいたとしても、期待してはいけない。あてにすべきではない。利用するとすれば、別のことだ。そして期待に応えるのは、やはり『HiMERU』でなくてはと、強く強く、おもう。ねがう。いのる。祈るだなんて、とおもうけれど、おもうだけでは意味がないし、願うだけでは足りないので、仕方なく、HiMERUは今日も祈っている。天に召します我らが神よ。あんたは何も、与えなくていい、ゆるさなくていい、救わなくていい。そのかわり『俺』は、絶対にゆるさない。ああ、はいはい。アーメンアーメン、ははっ、ハレルヤ。




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