人生桜色



 化けの皮が剥がれたのでいよいよ以ってそこに留まることは難しくおもえた。
 しかしこはくは学校に通っておらず、結局仕事の他は部屋に引きこもっていることも多いので、殆ど実害のようなものはなかった。何だか怖がらせてしまったなぁと申し訳ない気にはなれど、弁明するようなこともとくになく、ただ単に丸っとそのままが、共有スペースにある日突然張り出されてしまっただけだった。

——おはようさん、何やのこれ。えらい騒ぎやね。

 こはくの第一声はたしか、そんなものだったとおもう。壁一面に汚物でも塗りたくったようだとおもった。異臭でも漂ってきそうなものだが、そこには真新しい紙とインクの匂いが満ちているだけだった。こはくの家のこと、今までやってきたこと、大体ぜんぶ、余すところなく、過不足なく、よくもまぁと感心した。付け加えることがあるとすれば、事務所に入ってからのしばらくだけれども、それは事務所の上層部、つまるところ七種なども敵に回してしまうことだろうから、それらは省かれているようだった。三毛縞との活動は表に出ないものもあったが、極めて不都合なことに表に出ているものも多くあったので、此処にいたるまでのこはくの短い人生や桜河のそれなりに長い歴史のさらに上をいくような、耳目を塞ぎたくなるような醜聞はやはりあり得ないのだった。
 アイドルでよかった。
 アイドルでよかったのだろうか?
 いまこの現状をおもえばどちらともいえないけれど、こはくはここ最近、それはもう油断しきって平和を享受していたので、ばちが当たったような、ちょっとお灸をすえられたような、そのような心持ちだった。
 居合わせた藍良が、ひっと悲鳴をあげたあと、内容を理解していくうちにみるみる怒りの顔になり、掲示物に大股で近寄ってびりびりと剝がし始めた。そこに知った顔が混ざって剥がすのを手伝ったり、人払いをしたり、そうしてものの数分で何もなかったことになっていくのを、こはくはぼんやりと眺めていた。こんなん作るの、大変そうやのに、剥がすのは一瞬やなぁとか。そんなことを考えていたような気がする。今にして思えば、ちょっとは手伝えば良かったなぁと、それくらいの出来事だった。

 はぁ、と溜息を吐いて、幸せを逃がす。逃がして逃がして、最後に絶望が残ったら、これはなにがしかの箱の話になるのだろうか。逆だった気がするが。確かそう、災厄が世界中にふきだして、最後に希望が残るとか何とか。
 なんだかおかしな話だった。希望なんて、碌でもないともおもった。だってそんなものあったとして、ただ苦しみが長引くだけじゃないのか。いっそのこと、何も残らなければどんなに良かったか知れない。
 そこまで考えて、こはくはこはくの中に、何も残っていないことに気が付いた。絶望も見当たらないし、希望なんてものは端から探してもいない。探してないからどこかの内臓の裏側あたりに隠れてるかもしれないが、取りあえず見渡す限りは何もなかった。
 つまりいつも通りだった。
 空っぽ。
 こはくは時計を確認した。掛け時計の短針は三を、長針は十二を今やっと過ぎたところだ。そういえば小腹が空いたなと思い立ち、こはくは共有スペースに向かった。丁度キッチンの入り口ですれ違った顔見知り程度のアイドルが、どう接して良いかわからないという顔で曖昧に笑い、会釈をして去っていく。それに応えて見送って、こはくはウォーターサーバーで備え付けの煎茶を淹れた。冷蔵庫に買い置いていた甘味を取り出しテーブルに並べ、一人で優雅にスイーツ会兼ティーパーティーの活動を開始する。コンビニの新商品だった。油性マジックででかでかと『こはく』と書いて昨日仕事帰りに冷蔵庫に入れた。それで誰も取らないでおいてくれるのだから、やはり実害はどこにも見当たらなかった。
 みぃんな良ぇ人、とこはくは笑う。
 皮肉ではなく、感謝していた。
 さて、どんなものだろうか。新商品と名は付いていたが、物はスタンダードな季節商品だ。おいしかったら、今度HiMERUにすすめても良いし、司と菓子の交換会に出しても良い。スイーツ会に持って行っても良いだろう。
 ああ、そう。そうなのだ。
 こはくは今こんなにも一人だというのに、まったく独りではなかった。
 今まで付き合いのある面々は、こはくのことを下にも上にも置かず、はれ物に触るようなこともなく、いつも通りに接してくれている。同室のジュンは一緒に身体を鍛えようとロードワークやジムに誘ってくるし、ユニットのメンバーはこはくの家のことなど興味がないか殆ど知っていたかで相変わらずだし、サークル活動も参加すれば穏やかに時に騒々しく時間が過ぎていった。今のところ実家から帰ってこいとも言われず、司も帰れとも言わず、事務所の外にドブ川の死体と喧伝されることもなく、七種には顎で使われ、ユニットのリーダーはどちらも好き勝手こはくを連れ回した。藍良とは週末にショッピングモールへ行く約束をしている。
 何やろ。こういうの。
 相手にされていないように感じるときもあるけれど、受け入れられていると錯覚することすらあった。それはなんだか、とても贅沢なことだった。
 いただきますと誰にともなく手を合わせ、スプーンをビニールから取り出す。黄色いカボチャのプリンに、ホイップと種が乗っている。下のカラメルとバランスよく食べたくて、先をほぼ垂直に差し込む。これ以上の幸いなど、一体どこにあるのだろう。希望や絶望がもし隠れているとするのなら、それはきっと、この黄色く濃厚な甘ったるい塊の下に。



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