けもの 
ふれんず




「走って帰ってきたんよ」
「はぁ」
 こはくは目を爛々と輝かせてそう言った。すっかりランナーズハイといった様子で、ジュンがロードワークに持っていこうとしていた支給品のスポーツドリンクを、勢いよく飲みほしていく。星奏館の正門を抜けたところで、汗だくのこはくとばったり出会したのだ。見慣れた小柄な人影に「朝帰りっすかぁ?」と声をかけて近付くと、噎せるような磯の香りがした。そこでジュンは「ああ、ジュンはん。おはようさん」といつも通り朝の挨拶をするこはくが、汗だくなのではなく、水浸しなのだと気付いた。聞けば、他県の仕事で海に水没し、財布もスマホも波に呑まれて失くしてしまったのだという。仕方なく、浜辺に上がったあとは道路標識を頼りに夜通し走って来たらしい。途中で公園の水を飲んだとか、公衆便所が案外少ないとか、アイドルとしては信じられないことばかり言うものだから、オレって温室育ちだったんすかねぇと、要らぬ劣等感を抱いた。この痩せ身のどこにそんなタフさがあるのだろうと、ジュンは常々疑問である。しかし流石に足元が覚束ないようなので、飲み終わったペットボトルを取り上げて、星奏館敷地内までこはくを連れて戻った。ちょっと待っててくださいね、と中庭のベンチに座らせて、自分のスマホを取り出す。滅多にしない電話連絡は、コール二回できっちり繋がった。自分で呼び出しておきながら、まだ寝てないのかよと、不健康さに若干げんなりする。夜明け前と言っても、朝と称して差し支えない時間帯だった。
「ジュン、珍しいですね、電話なんて! 緊急ですか?」
「サクラくん、正門前で拾ったっすけど、どうすれば良いですかねぇ」
「——ほう! それはそれは、僥倖です。状況を教えていただけますか?」
 もしかして、サクラくんからの連絡待ちだったんすかねぇ?
 おそらくビジネスが絡む話を素直に答えるとも思わないので、ジュンは深く聞かなかった。手短に現状を伝えると、茨は「その場で二名とも待機!」とだけ言って、通話を切った。間もなく星奏館の中庭に到着した茨は、まずこはくにシャワーへ行くよう促し、医務室を好きに使って良いと鍵を渡した。脚が酷いことになっているだろうから、よく洗ってから応急処置すること、病院が開いたら早めに診療を受けるよう厳命している。一応、面倒見るんすよねぇ、雑だけど。仏頂面で頷いているこはくが、何だかおかしい。
「ジュン、動物の世話とか得意ですよね?」
 顎でくいっとこはくを指すので、ああ、それで二名とも待機、だったんすね、と納得した。誰が動物じゃ、とこはくが凄むのを無視して、最低限の指示と嫌味(と多分自社タレントへの心配、憂慮)をまくし立てた茨は「報告は明日で構いませんので、一先ず休むように。起きたら一度病院へ。お二人とも早朝からご苦労さまであります! 敬礼!」と形だけ労い、しんと静まり返った早朝の空気に、無駄に通る声を響かせて去っていった。その足はまっすぐ来た道を折り返していくので、同じユニットの人間としては、さっさと寝てほしいなぁと、ジュンはそちらも心配だった。

 その後、星奏館の玄関まで一緒に戻ったこはくが、あ、という顔をして「ジュンはん、一人で出来るし、走ってきてええよ。ご迷惑おかけしました」なんて、けろっと言うものだから「いやいや、これ歩いちゃいけないやつっすよ」と、グロ注意になってる足元を指した。水ぶくれやら靴擦れやらもそうだけど、ふやけた皮がべろりと剥がれて思ったより重症だ。気付かなくてすんませんと、背を向けておぶさるよう促すと、過保護やなぁと唇を突き出すので、ちょっと叱った。
 結局、だいじょうぶ、汚いから、と遠慮するこはくを、時間勿体ないんで、という、ちょっと嫌な言い方で説き伏せた。シャワー室に着くと、洗うのは自分で出来るというので、その間にジュンは自室と医務室へ向かうことにした。着替えとタオル、消毒薬と包帯を準備して脱衣所で待っていると、大して待つこともなく烏の行水を済ませたこはくが出てくる。時間のことなんて持ち出すんじゃなかったと、すこし後悔した。ジュンがタオルと着替えを渡すと「おおきに」と受け取ったこはくが、怪我なんてしていないみたいに歩き回ろうとするので、慌ててその場に引き留めた。まったく、痛覚どうなってんすかねぇ。或いは麻痺してしまっているのか。それはそれでまずいのでは。
 着替えが終わったのを見届けて、ジュンはこはくの脇に手を入れて椅子まで運んだ。こはくはやはり不満そうだったが、今度は何も言わなかった。
「痛くないですか?」
「大丈夫やて、気にせんで」
「まじグロいっすよ。ちゃんと病院行ってくださいね?」
「汚いもん見せてすまんなぁ。起きたら行くわ」
「いや、そういうことじゃなくて」
「……?」
「……や、別に」
「さよけ」
 噛み合わないやり取りを流しながら、患部を一つ一つ消毒をしていく。しみるとか、そういうレベルじゃないはずだった。それなのに、こはくは処置がはじまってから、呻き声のひとつも上げない。たまに堪え切れない様子で、頭をかくんかくんと揺らしながら、のんきに欠伸を繰り返している。聞いてないだろうなぁと思いつつ、ジュンは手当てをしながら、先ほど茨が早口で言っていた内容を繰り返す。
「海水に濡れた靴で長距離なんて、絶対だめっすよぉ。タクシーで事務所に戻って、茨呼び出しても良いんで」
「……心配してくれておおきに、次からはそうするわ」
 こはくはやはり止まらない欠伸を噛み殺して、口の端をむにゃむにゃと動かした。身体が舟をこぐたび、タオルで雑に拭っただけの髪から、ぽたぽた雫を落としている。
(ドライヤーやってあげてもいいけど、寝ちゃいそうっすね)
 別に良いんすけどねぇ。お疲れさまですよぉ。
 「わからないことはジュンに聞いてください」と、茨が投げて寄こしたこのルームメイトは、前情報で想像していたより手がかからなかった。当時は構えていた分、随分拍子抜けしたものだ。前ルームメイトが、それはもう手がかかる人だったので、淡々と日常に馴染んでいくこはくに、最初はジュンの方がそわそわと落ち着かなかった。こはくはこはくなりに緊張していたようで、今ではこんな風に気が抜けた様子も見せてくれるようになったけれど、ふとした軽い接触に、いちいち身体を強張らせていたのを覚えている。
(動物、動物。なるほどねぇ。まあ自分も、ハイエナなんて言われてますけど)
 この後輩が、一体どういう仕事をしてきたのかとか、学校に行かない理由とか、深夜にそっと自室を抜け出ていくのは何故なのか、とか。そういうことを、ジュンは何も知らないし、今後も知ることはないのだろう。それでも、あんまり無茶しちゃだめですよぉと、ゆれる鴇色の頭を撫でることはできるので、それで良いのだと、あまり利口とは思えない頭で理解していた。指先からくるぶしまで、包帯を両足とも巻き終えて「サクラくん」と声をかける。こはくは先ほどより不明瞭な声でむにゃむにゃと鳴いている。頭はもう上げられないようだ。しょうがないですねぇと笑って、ジュンはドライヤーを取りに立ち上がった。



戻る