黒い森の
住人


「悪いものは全部分解されてなくなっちゃうんだよ」

 ――この土の中ではね。
 森の入り口で、黒くてまるい頭が、低木の下から転がるように突き出てそう言った。昨夜は雨が降っていたというのに、地べたに伏せって平然としている。その人は、泥と言って差し支えない土を撫でながら、赤い目をぎょろぎょろ動かして要を見た。くんと鼻を動かして、ナッちゃんの匂いがすると、よくわからないことを呟く。そうして土に汚れた指で、低い位置から大儀そうに「あっちに行くといいよ」と、聞いてもいない要の行く道を教唆する。要が指の先を目で追うと、にやりと笑って「捜し物は見つからないだろうけどね」とも。要はそのとき捜しているのではなく、失くすために此処へ来たので、それで構わなかった。

「問題ありません」
「そう? それなら確かに、問題はないね」
「はい。それでは、失礼します」
「うん」

 いってらっしゃあいと、間延びした声を背に聞きながら、要は森の中へ入っていった。奥へ進むと土が強く香って、虫の声がそこかしこに溢れていた。雨の気配がすこしずつ濃くなって、雲が今にも泣きだしそうに重い。雨は昨日も降っていたし、一昨日もその前も降っていた。三日前、遅い梅雨入りの宣言を、移動中のラジオで聞いた覚えがある。本格的に振り出す前に、急がなければ。はやる気持ちで、歩みがすこしずつ乱暴になる。途中跳ね返った泥が白いスニーカーを汚して、何故この靴を履いてきたのだろうと舌打ちをした。要は此処に来るまでのことを何も覚えていなかったが、何をすれば良いかだけは、よく理解していた。

 しばらくして開けた場所に出た。そこには深く掘られた穴があった。一度落ちたら二度と這い上がれないような、深い深い穴だった。あつらえたようにぴったりで、要はそれを、恍惚として見入った。これ以上のものはない。そう確信していた。深淵を覗いても、深淵が覗いているのか、要にはわからなかった。『HiMERU』ならわかったかも知れない。しかし要は『HiMERU』ではないので、やはりわからないままだった。いつだったか、世界で一番憎い男が「HiMERUさんは、怪物を見たことがあるのでしょうな」と、わかったようなことを言っていた。ああ、あるさ。怪物なら、目の前に居る。思っても、口には出さなかった。代わりに失笑一つ。(何が云いたいかくらいわかるだろう。察せよ)と目をやれば、忌々しい聖人は、困ったように眉を寄せ、平然と打ち上げに用意された食事を続けた。こちら、美味ですよ、などと、HiMERUに骨の付いた肉を勧めて見せる。(怪物め)要がHiMERUだったころの、遠い過去のことだった。

 穴の淵に置いた手に何かが当たって、要は我に返った。雨が降り出したのだ。ぽたぽたと肌に触る予兆のような音から、間もなく辺り一面叩くような音に変わっていく。ざぁざぁと押し流すような雨粒を浴びながら、要はそのとき、ようやくすべてを許せそうな気がした。だれもかれもなにもかも、すべてが過ぎ去って、たった一つさえ、必要がないのだと悟った。愛も憎しみも、喜びも悲しみも、星に託した願いすら、雨粒とともにその穴へ落ちていった。落ちていく雨粒を追いかけて、要もまた、その穴へ落ちていく。間に合ったと安堵した。要はこの日、十条要の葬式をあげなくてはならないのだ。



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