おあいにくさま




 桜河こはくは浴室に居た。湯もはらず、痩せた身体を小さく丸めて、浴槽の底で寝入っている。
 ユニットを結成したときに、念のためと共有したセーフハウスの一つだった。
 「こはくさん」と呼びかけても何の反応もない。仕方なく腕を背の後ろに回して起こしても、もう一度名を呼んでも、やはりこはくは目覚めなかった。
 意識がないときに身体なんて触ろうものなら、蹴りや拳が反射のように飛ぶ子供なので、こんな大人にしているのは薄気味悪い。弛緩した四肢を放ったままぴくりとも動こうとしないので、薬でも使われたのだろうかと軽く頬を叩いた。「こはくさん」三度の呼びかけで、ようやく瞼が震えた。こはくが目を開くまでの数秒が、間延びしたテープのように不穏で、頭の裏側がきゅるきゅると変な音を立てた。斑は警鐘に気をとられて、こはくの顔がゆっくり近づいてくることに反応が遅れた。柔らかく、冷たく、乾いた唇が、斑の唇に軽く触れた瞬間、斑はこはくの肩を掴んで勢いよく突き放した。
 ごつり、と鈍い音が反響する。こはくのどこかの骨が浴槽のふちに当たった音だ。
 なんだ、いまのは。
 斑はそれなりに動揺して、しかしそれすら重要ではないので、「おはよう、こはくさん! こんなところで寝ていたら風邪引くぞお☆」と、なるべくいつも通り笑ってやった。
 四度目でやっと、こはくはこはくの顔をして「……ああ、おはようさん」と答えて「間違えたわ」と言った。次いで「すまん」と眉を八の字にして、唇を乱暴に拭った。あまりにも失礼で、気の抜ける動作だった。
 どう間違えたのかと聞けば、こうするのが好きな人が居たのだと、わざとらしい無表情で続けた。相当気まずいようだ。なんだか愉快になってしまって、斑はそのとき、いたずらな気持ちが沸き上がるまま、考えなしに突っつくことにした。恋の話というよりは、世間話のつもりだった。
 風呂でそういう気分になるなんて、随分きみにしては甘やかじゃないかと。そんなんじゃないと、この子供が怒鳴り散らして、照れ隠しに罵詈雑言を並べ立てるのを聞き流して、それで終わる話だった。それなのにこはくは、暗澹と陰った瞳をもう一度伏せて「ろくでもない奴やったわ」と吐き捨てた。
 その一言で、こはくがどれだけその、ろくでもない奴、を慕っていたかが察せられてしまって、斑は少し前のおのれを殴り飛ばしたくなった。
 こはくは先ほど浴槽にぶつけた首の後ろを撫でている。



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