幻肢痛




「捨てた筈だったんだけどなあ」
「痛いなら痛いでええんちゃう?」
「痛い筈ないんだ。もうないんだから」
「さよけ」 

 それはまた、難儀なことやね。ない、と言うわりに煮え切らない斑にこはくは苦笑する。切り捨てたと言ったって頭頸胸手足五体満足、斑の屈強な肉体は今日もそこにあるのだし、それが痛いなら神経か筋繊維か骨か、どこかしらに異常があるんだろう。それならそれで良いじゃないかとこはくは思う。覚えがないどころか、馴染んだ感覚ではあるけれど、同じではない。
 仕事を終えて、小腹が減ったとコンビニに寄って、こはくは新商品のわらび餅ウメアイスを、斑は拘りがないのか割引シールのついたサンドイッチとおにぎりを一つずつ買い、3円のビニール袋を手に提げ寮まであと数百メートル。上出来じゃないか。常識的な時間ではないことを言い訳に、事務所への報告は明日にまわしてあとは帰って寝るだけだ。
 こはくは根っから隷属的なので、上役がいると考えることをすぐやめてしまうのだけど、斑はそうではないらしい。波の音がかすかに聞こえる。この土地はどこもかしこも潮の匂いがする。帰ってきたとまでは、こはくはまだ実感できない。

「誰もぬしはんに期待なんてしてへんよ」
「そうだなあ。だから勝手にやるんだ」
「余計なお世話っち思わんの?」

 誰も誰かをどうにかしようなんて、容易にできるわけがないのに。斑が切り捨てた人間も、見捨てた人間も、死なない限りは勝手に回復して生活して、成長したり堕落したりするわけで、それは斑が優秀だからとか、強いからとか関係のない、それぞれの思惑と人生が、ただそこにあるだけのことだった。それを見てどこかしらがいたむなら、捨てても捨てきれない臆病なひとりの意気地なしが、いないものとされた斑があたりに茫洋と漂うばかりである。こはくは靄のように広がるそれを放ったまま何もせず、ただ難儀やなぁと眺めている。

「ママは鬱陶しがられても24時間営業だぞお」
「急に突っついたり、勝手に線引いたり、極端なことするから疎まれるんや」
「はっはっはっ こればっかりは仕方ない。性分だからなあ」
「ぬしはんの子供にだけはなりたないわ」
「うむ!宣言通り、こはくさんは全然懐いてくれないからママは寂しいぞお!」

 大口開けて笑っている母とは似つかぬ大男が、無遠慮にこはくの背を叩く。「痛いわぼけなす」と一喝して距離を開けると、何が楽しいのか、斑はさらに大きく豪快に笑うばかりだ。利害の一致、対等な関係、共闘しましょうそうしましょう。それらを、斑がどう考えているのかこはくには見当もつかないが、懐くなどど犬猫子供にするような表現をして、どの口が、とは思うのだった。阿呆面晒しよって、口ん中蜂でも飛び込んで来ればええのに、ブンブン。不穏な空気を察したのか、笑みをしまった斑が先ほど開けた距離を詰め、こはくを覗くようにして身を屈める。

「こはくさん、今おっかないこと考えてないか?」
「気にせんでええよ。夜やし蜂もお休み中やろ」
「話が見えないぞお?」
「ずいぶん無駄話が多いんやね」

 いつも仕事のあとそんな喋らんやろ。じとりと睨め付けると「夜道は危険だからなぁ。あまり離れない方が良い」そんな、こはくたちには無縁そうな、しかし至極当然のことを大真面目に言って目線を遠くにやるので呆れてしまう。はぐらかしてるつもりだろうか。いや、これはあれだ。ご機嫌伺いに見せかけて揶揄っているのだ。本音のような偽悪のような、子供の駄々のような愚痴を吐いた照れ隠しに。それくらいわかる。大人びているわけでもなく、すこし周囲より屈強で優秀なだけの、性格がひねくれた子供のくせに。知っとるよ。何をいまさら。そういうとこ、燐音はんにも似とるよね。もう一つのユニットの頭目を思い浮かべて、こはくはすこし愉快になった。
 
「この先は外灯が切れてて暗い。手でも繋ごうか」
「おん。ほな気張って歩き」

 振り払われる前提で差し出してきた斑の手を、こはくは半ば自棄になって引っ掴み、先より大股で歩き出す。一瞬驚いた顔をした斑が、今度は音を立てずに笑い数歩のうちに追いついてくる。繋いだ手と反対に持ったビニール袋ががさがさと鳴っている。ほとんど走るみたいに足を前に出すこはくに堪え切れず、しかし何とか堪えようとしてるのか、ふすふすとかみ殺した笑いがこはくの斜め後ろから聞こえた。嫌な奴やな、ほんま、家から出してくれるっち云われても、こんな母親は死んでもごめんじゃ。こはくの世界は狭く、斑の世界は広く、似たもの同士で括るには、些か乱暴に過ぎると言うのに。似たところがあっても、それならなおさら、同じものには到底成れやしないのに。似てるということは、なぜこんなにも遠いのだろう。こはくとて、結局人との距離なんてわかりやしないのだ。
 
 繋いだ手の温度だけ、互いに近付いていくのが薄気味悪い。もうどちらが冷たくて、どちらが暖かいのかなんてわからなくなって、迷うはずもない夜道で途方に暮れる。暗い暗いといっても、月も星もきれいな夜なので、こはくにはそれで充分だった。その筈、だったのに。斑はへらりと口元を緩めながら視線だけ鋭く、暗がりをまっすぐ見据えている。隣でこはくが盗み見ていることを、斑は気付いて無視している。難儀やな、ああ、やめやめ。あほらし。寄り添おうとなんて、するんじゃなかった。



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