おまじない




「人を書いて飲むと落ち着きますよ」
 そう言って、ご丁寧にHiMERUは、人を掌に書いて飲んで見せた。HiMERUはんがそういうこと言うの、意外やわぁとこはくは思ったが、物は試しと、HiMERUに倣って掌に人を書いて飲んだ。HiMERUがやって見せて、こはくがそれに倣うのは、衣装がひとりで着られなかったころからの、HiMERUとこはくの癖だった。HiMERUはそういうとき、いつもこはくの右側に立った。左右がわかりやすいように、手元の動きが見やすいようにという配慮だった。何だかその立ち位置まで癖になってしまって、その日もそのままの並びでスタジオに入ると、先に現場入りしていた燐音が寄ってきて、お前らいつもその並びだなァと囃すように言った。
「こはくちゃん。右側に居たい男の心理って知ってる?」
「あ?」
「天城、余計なことを言わないでください」
 そういえば気にしたこともなかったけれど、聞いたことがないわけではなかった。男女とか、恋仲とか、そういう話だったとおもう。こはくとHiMERUに限って、それが当てはまるとも思えない。しかし何だか、HiMERUは居心地悪そうにしているので、これはいけない、いつも世話になっているのだからと、こはくはHiMERUを覗き込んで、言葉をかける機会を窺っていた。HiMERUはこはくの視線を意識的に無視して「椎名はまだ来ていないのですか?」と話題を変えて、燐音に話しかけている。燐音はまだにやついてそれに答えず、こはくの乱入を誘っていた。HiMERUの眉間に皴が寄ったところで、「HiMERUはん」と声をかけた。ぐっと皴が深くなって、やがてにっこりと、隙のない笑顔がこはくに向けられる。有無を言わせない顔だった。そんな牽制しないで良いのにと、何だかおかしくなる。
「人書いて飲む?」
「は?」
「右側、安心したいん違うの?」
「……あぁ」
「ぶはっ」
 こはくとHiMERUのやり取りを、燐音はひとしきり笑って「あーあ。ニキ呼んで来るわ」と、スタッフに断りを入れてスタジオを出ていった。取り残されたHiMERUとこはくは、しばらくその場に立ち尽くしていた。HiMERUは溜息を吐いて、端で待機しましょうとセットの外に並べられたパイプ椅子へこはくを誘導した。指摘されたからと直すのも癪なのか、HiMERUはまた一番右側の椅子に座り、こはくも特に抵抗なくその隣に座った。そのものが光っているみたいに照らされたバラエティ番組のセットを眺めながら、HiMERUはあまり、こういう番組が得意でもないのだろうなと、完璧なアイドルを自称する誰かに知れたら、怒られそうなことを考えた。こはくが左側に居て、HiMERUがそれで落ち着くなら、それはとても良いことだった。

「燐音はんたち、遅いなぁ」
「そうですね」
 HiMERUは持ち込んだペットボトルの水を飲んでいた。水分補給というよりは、喉を湿らすだけ、という風を装っていたので、身体を冷やしたいのだろうなと、こはくは察した。スタジオはいつも、異様な熱を持っている。眩しさの分だけ空間に満ちているようで、薄暗いセット裏でも、あまり逃げ場にはならなかった。空調が入っていないわけではないが、季節によっては、どうしても。
 それはさておき、HiMERUはいつもの鉄面皮で澄ましていたが、逃げ切ったと安心しているようだった。それはこはくの狙い通りではあったけれど、おもしろくない気持ちもある。HiMERUの動揺の意味を、こはくは正確に知っていたので、いつ「わし、もう一つの意味、知っとるよ」と耳打ちしやろうか、そんな児戯めいたことばかり考えて時間を潰した。何を恥ずかしがることがあるのかは、こはくにはよくわからなかった。



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