喧嘩上等




 あ、手が出た。ばちんと音が響いて、次いでどたんと鈍い音と振動があった。HiMERUくんが燐音くんを叩いて、燐音くんがHiMERUくんを突き飛ばして、踏み込んだ不安定な体勢だったHiMERUくんがその場に倒れ込んだ。僕は食べ物を口に入れるのを一度止める。名残惜しいなあと思いつつ口内の少ない残りを咀嚼して飲み下す。なくなる瞬間はいつもあっけない。ええと、どうしよう。止めなくちゃ。そう考えて腰を浮かしたとき、一部始終見るともなしに見ていた僕より先に、僕たちに背を向けて一人ダンスの基礎練習をしていたこはくちゃんが二人目掛けて駆けていった。立ち上がる勢いを使ってHiMERUが追撃をしようと手を振り上げるのが見えた。意外だけど、こはくちゃんは燐音くんを庇うようにしてHiMERUくんの拳を止めた。「いい加減にしい」とHiMERUくんを睨みつけるオプションつきだ。動揺した燐音くんが口笛を吹いて誤魔化して「煽るなドアホ」とこはくちゃんに叱責されている。いや燐音くん、吃驚しただけっすよとおもいつつ、燐音くんのそのやらかしでHiMERUくんの眼光がさらに険しくなったので、結果はこはくちゃんの言った通りだった。遅ればせながら「もぉ〜」とその場に混ざる。どっちに何をしようか一瞬考えたけど、とりあえず燐音くんの腕を掴んだ。燐音くんはもう攻撃するつもりはなさそうだけど、状況を公平にするためのポーズだった。どっちが悪いのかわからないけど、下の子に軽々しく手をあげちゃだめっすよ。燐音くんがちらりと僕を見て、つまらなそうに鼻を鳴らした。もう。この人、何もしないでほしい。HiMERUくんがまたピリついたのがわかった。ふぅと深く息を吐いて、こはくちゃんの手を払う。
「HiMERUはん」
「……すこし頭を冷やして来ます」
「おー出てけ出てけ。一旦休憩〜」
「燐音くん」
「っるせェな離せよ」
 何もしねぇっつの。そう吐き捨てて、燐音くん壁際に並べてあるスポーツドリンクを呷った。HiMERUくんは練習の前に椅子に掛けたジャージを羽織って外へ出ていく。こはくちゃんはしばらく、振り払われた手を見つめながら茫然と立ち尽くしていたが、僕と目が合うと所在なげに瞳を揺らした。そんな目で見ないでほしい。こちらがかなしくなってしまう。ニキが眉を下げるのと同時に、こはくちゃんは、はっとして、燐音くんの隣に置いてあった空になったペットボトルと財布を持った。
「飲み物買うてくるわ」
 そうして律儀に断って、HiMERUくんを追いかけるように部屋を出ていった。燐音くんは冷めた目でそれを見送っている。HiMERUくんも似たように追い出していたけど、こういう顔するときの燐音くんは、下の子からすると訳が分からなくて怖いだろうとおもう。わかっててやってる威圧的な仕草は、こはくちゃんが退室すると霧散した。
「きゃはは! 放っておきゃ良いのになァ」
 あーあー。と大きく声を出して寝転がる。そのまま複式の発声練習に切り替わっていくのを、真面目だなぁと感心しながら呆れて、僕も横で寝転がった。燐音くんがこちらに一瞥くれて、またどうでも良さそうに天井へ戻した。高低を付けたロングトーンが室内をぐるんぐるんまわってる。
「意外っすねぇ。こはくちゃんが燐音くん庇うの」
「ああ? 癖だろ」
「クセ」
「そ。頭を守らなきゃって、癖。悪癖」
「はぁ」
 そういうものだろうか。こはくちゃんは僕より二人のやり取りを把握していたようだったし、燐音くんを庇ったのは、HiMERUくんに否があると判断したからじゃないのかな。割って入ったのは、もし何かあってぶつかってしまっても、二人の負担が少ないように、緩衝材になろうとしたんじゃないのかな。なんてことは燐音くんもわかってるよね? まさかわかってない? まさかね。悪癖ってなんだろう。頭を守れって小学校の避難訓練でも言われたし、そう悪いことでもないんじゃないかなぁ。
「こはくちゃんは弟くんとは違うっすよ」
「何の話かわかんねェな」
「わかってる人じゃないっすか」
 たまに燐音くんは、こはくちゃんのやることなすことを最初から全部信じないみたいなことを言う。その度、そんな態度をとられる意味もわからず、困惑して怒っているこはくちゃんは、ちょっとかわいそうだった。
「で、何もめてたんすか?」
「帰ってきたら話すっしょ」
「どうせ燐音くんがちょっかいかけて怒らせたんじゃないっすか?」
「ちげェ。いや、そうか? ちゃんとやれって、言っただけ」
 惚けてるというよりは、測りかねているみたいだった。距離感とか、接し方とか、そういう、もっと早くに慣らさなくてはいけなかったもの。二人のこと、可愛がってるくせに、変なの。自由に飛び回れという方針の我らがリーダーは、しっかり関わると決めたあの日から、年下二人のやり方に口を出すようになった。責任を持つと決めたんだろうか。いや、それは最初からだけど。終わりにではなく、過程に。ともに? 取りあえず、燐音くんからしたら、やり方を変えただけ。それにまだ、こはくちゃんも、さっきのHiMERUくんも、対応できていないのだとおもう。だから最近、小さな衝突が増えた。僕は適当に仲良くしたいんすけど、わざわざ揉めて無駄にカロリー消費したくないし。
「僕はね、それだけ言えばイイと思うっすよ」
「あ?」
「別に挑発する必要もないし、頭ごなしに否定しなくても、ちゃんとお話できるでしょ」
 二人とも馬鹿じゃないっすよ。寧ろここで一番馬鹿なのは間違いなく僕だし。こんなこと馬鹿な僕に言わせないでほしい。燐音くんは一度黙り込んで「あーうっせーうっせェー!」と大声を張り上げた。そのままニキに背を向けて起き上がり、次の発声に移行する。上から下へ下から上へ、理想のアーチを神経質になぞっていく。まったく、子供みたいだなと呆れて、それでもやっと、子供みたいになってくれたなぁと、僕は少しだけ、ほっとした。



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