夜のまにまに




「んだァ、ニキ。夜這いか?」
「え、わ、ごめんなさい」

 空腹と寒さで目が覚めたらどこかのパーキングエリアだった。ニキ側の車間が妙に狭く、仕方なく反対側の燐音を跨いで外へ出ようとしたところ、腕を掴まれた。寝起きの掠れた声で目の前のニキだけに聴こえるよう配慮された声量だった。ニキもなるべく小さな声で謝罪して、ドアを開けようと掴まれている腕と反対の手でロックを外す。背に腹は代えられず、今は背中とお腹がくっつきそうなので、起こしてしまうかもと少しばかりの逡巡のあと即断だった。このパーキングエリアでたんまり食料を買わなければ、可能ならばその場で何か腹に入れなければならないのだ。朝持ってきた大量の食料が底を尽きたわけではないし、人を襲うほどの空腹ではないので余裕はあれど、それはそれ。備えあれば憂いなし。

「食べもの買いに行くっす」
「あ〜……俺も出るわ」
「そっすか」

 ガコ、ゴロゴロゴロ。そろそろと慎重にドアを開ける。どうしたって車体は揺れるし開閉音は鳴ってしまう。ついでにニキの腹も鳴ってしまう。後部座席の二人を伺うと、HiMERUは最奥の窓に寄りかかってキャップを目深にして俯き、こはくは逆の荷物に寄っていたように思ったが、いつの間にかHiMERUに凭れて顔が上を向いていた。口が半開きになっていそう。マスクしてるけど、なんとなく。

 今日のライブは全体的に無理のあるスケジュールだった。地方の町興しを兼ねたクリスマスライブで、リハ含めた実質の営業時間より移動の方が倍近く掛かった。事前準備もばたばたとして、練習期間も充分になかったので、恐らく強豪のどこかが蹴った案件だったのだろう。ほとんど無名、調べれば悪評が目に付く新人ユニットに、現地スタッフや主催の態度は冷ややかだった。副所長から直々に、いつも通り脅され餌をチラつかされて頼まれた、という形で燐音が持ってきた指令で、「悪い」と苦々しい顔で、最初に謝ったのが印象的だった。急だったためか、L$は多めに貰えるらしい。ごはんが食べられるならニキはなにも問題なかったので、謝るならもっと他のときに謝ってほしいっすよと言ったら結局首を締め上げられた。理不尽だ。

 ともあれ、ライブとしての盛り上がりは悪くなかったが、またぜひ、と掌返したようににこにこと見送られたのも、燐音とHiMERUが営業スマイルで応対するのも、見ていてこちらが疲れてしまった。打ち上げを帰りの時間があるのでと断ってこの時間なのだから、つくづく未成年で良かったと思う。HiMERUもこはくも良く寝てる。精神的にも肉体的にも疲れたのだろう。わかるわかる。ぼくも食べても食べても足りなかったっすもん。それはまあ、いつものことっすけど。とくにこはくは、この仕事の前にも別ユニットでライブがあったようで、リハと本番の間は楽屋として用意された集会所の一間で、座布団を敷いてぐったり転がっていた。

「ニキ?」
「し〜〜っ」

 スマホを構えて少し近付き、夜間モードで一枚だけ撮影した。ニキはニキなりに、年下の二人がかわいい。HiMERUはニキのことを年上とはおもってなさそうだし、こはくも環境に慣れたのか最近物言いがより辛辣になってきたけれど。
 カシャリッと思いの外大きいシャッター音に焦ったが、二人の耳に埋まっているカラフルな耳栓の効果を信じよう。暗いので正確な色はわからけれど、お揃いのマーブルがそれぞれの耳奥に吸い込まれるように収まっている。HiMERUが予備を渡したのだろうか。外に不慣れなこはくを、HiMERUは何だかんだ理由をつけてよく世話を焼いていた。こはくも、燐音や、斑などよりは、随分素直に慕っているように見える。燐音などは最近それをからかってこはくで遊んだりHiMERUで遊んだりしているが、本当は少し面白くないのだろうと、ニキは知っている。同時に、良かったと思っていることも。こういうのニリツハイハンって言うんだっけ。アンチノミー? まあとりあえず、燐音くんはめんどくさいっすね。燐音がニキの人生に登場して以来、幾度思ったか知れない感想をなぞった。珍しく腹の虫と関係ないことを考えてしまった。いけないいけない無駄なエネルギー消費は身体とお腹によくない。ニキは開けたときと同じくゆっくりドアを閉めた。可愛いなら、普通に可愛がればいいのに、お兄ちゃん、なんだから。それとも、お兄ちゃんだから、なのだろうか。車体前方で律儀に待ってる燐音と目が合う。革ジャケットのポケットに手を突っ込んで暖をとっているが、全体的に薄着だ。ニキはしっかり裏ボア付きのコートを着ていた。「何だよ」と怪訝な顔をして聞くので「なんでもないっす」と答えた。本当に、ニキにとっては腹も膨れないどうでも良いことだった。

「ガキども寝てる?」
「大丈夫そうだけど、起きちゃうかもしれないっすね」
「寝顔は天使ってな」
「おっさん臭いっすよ燐音くん」
「んだと」

 マネジャーに一声かけようと思ったが運転席は空だったので、きっと喫煙かトイレだろう。燐音が事前に渡されている合鍵で遠隔施錠する。ニキは、買い出しに出る旨をスタッフ込みのグループに書き置いて商業施設へ急いだ。

「俺っちも腹減ったんだけど、フードコートやってねーなこの時間」
「そうっすね」
「とんぼ返りで何も食ってる暇なかったしな」
「せっかく遠出したのになんにも見れなかったっすね」
「コンビニでも地域限定とかなんかあんじゃね?」
「ここ何県だっけ」
「知らねー」

 行き交う車を確認しながらだらだら喋って駐車エリアを渡っていく。夜行バスやトラックがけっこうな数並んでいて、自分たちが乗っていた黒いハイエースはすぐ見えなくなった。25時を回っているので、すれ違う人は皆疲れた顔をしている。

「場所わかんなくなりそうっすね」
「観光バスじゃねーし、大丈夫っしょ」
「どこ行くんすか」
「思い出した。先に便所」
「じゃあ僕はコンビニ行ってるっす」

 店舗の入り口に背を向けて、燐音は元来た道を戻っていく。もしかして、入り口まで送ってくれたんすかね。トイレに行くならもっと早い分岐があった。相変わらず変なところで心配性というか、過保護というか。まあ深夜だし、未成年だからとか、そういうことなんでしょうけど。燐音のそういう生真面目なところを、ニキは時折、上に立つ人というのは大変だなと、適当に同情するのだった。適当に同情し終わり、次のときにはもう、ハイカロリーで腹持ちが良くリーズナブルで、味も及第点のコンビニ商品のあたりをつけて店内を闊歩していた。ミッションスタート。本気と書いてマジ、買い出しと書いて戦争である。


***



空気の揺れる気配で意識が浮上する。目を開くと閉められたカーテンの隙間からあかりが差して車内の様子がうっすら見えた。ゆっくり首を動かしながら耳栓を片方とる。ねじ込み方が良くなかったのか、外耳の骨が鈍く痛い。解放された耳に「起きていますか?」とひそめた声が遠慮がちに響く。こはくはうなずいて、隣にいるはずのHiMERUの顔をのろのろと見た。何だかやけに顔が近い。HiMERUの耳にも、すでに耳栓はなかった。
 パーキングエリアに着いたところです。天城たちは食料の調達に行きました。HiMERUも誰か戻ってきたら外に出ようと思いますが、桜河は?と聞かれたので、また、うなずいた。こはくはもう片方の耳栓を外しながら、厠に行かなくてはと、固まった節々を伸ばすように身体を自立させた。いつの間にか、HiMERUと密着していた片側がすこし寒い。ずっと凭れていたのだろう。

「すまんかったわ、寄っかかって」
「HiMERUも寝ていましたから」

 こはくがまだぼやけた声で謝罪すると、HiMERUは困ったような顔で上品に笑った。寝ていたから、何だというのだろう。いつもながら、気遣いに妙な言い訳をする人だ。きっとこはくが起きなければ、凭れているこはくが起きないよう、そのまま車内に残るつもりだったのだろう。もぞもぞと羽織ったダウンのポケットからスマホを取り出し、ロックを解除する。時刻は午前1時を過ぎていた。HiMERUが窓の外を見て、来ましたよ、と呟くのと同時に、開錠音とともに運転席側のドアが開いた。マネジャーがコーヒーを片手に顔を出す。

「あれ、2人も起きてたんだね」
「お疲れ様です。すみません、寝てしまって」
「良いの良いの。車は見てるから、休憩行ってきていいよ」
「ほんま?なんか買うてくるわ」
「早めに戻ります」

 軽く礼を言い、遠慮なくふたり連れ立って外へ出た。妙に片側に寄った駐車がおもしろくて、車体の前で指差しするこはくに、運転席に戻ったマネジャーが苦笑いしている。「こんなに大きな車を動かすのははじめてで緊張する」と出発前に言っていた。「普通免許で乗れるものなんですね」と、三重に包んだ言い方でHiMERUが苦言を呈していたのは、恐らくこういうことだったのだろう。

「こんな時間に人がぎょうさんおって、変な感じするわ」
「夜行バスの客も多いですからね」
「寝てるうちに着いてるっちお得やね」
「寝台列車も少ないですがありますよ」
「乗ってみたいわぁ」

 知らないこと、知りたいことが、近ごろたくさんあって、目まぐるしい。車と車の間をすり抜けて車道を渡る。ぼうっと遠くの人の群れを眺めて歩いていたら、途中、強く腕を引かれた。おもわず後ずさったこはくの目の前を、車が徐行で通り過ぎていく。腕を離したHiMERUを見上げると、気を付けて、とだけ云われ、こはくはうなずいた。返事をしなくても怒られないことを、最近おぼえた。
 誰かと長く時間を過ごすことを、今までこはくはしてこなかったので、咄嗟のときに言葉が出ないことがままあった。家で散々愚図だのろまだどんくさいと罵られた不出来な部分と自覚していたので、出てきたばかりの頃などは、だれの話も聞き漏らすまいと、意識をきりきり集中していた。ユニットが本格的に始動し、メンバーで集まることが多くなった時も、まるで手合わせでもするように真剣に相槌を打っていたこはくに「本番中はともかく、それほど急いで返事をしなくても、HiMERUは急かしていません」と、穏やかに目を細めて注意をした。悪いことではないが、落ち着くようにと。あとから「天城に相談されたのですよ」と付け加えていたことは、何となく、聞かなかったことにしている。ああ、そうだ。

「おおきに」
「どういたしまして」

 HiMERUは可能な限り、こはくのタイミングを待ってくれる。いつだって、呼吸をあわせるのはこはくの仕事だったので、合わせられるのは調子が狂う。
 いつだったか、休めるときは休まなければ、万全な状態で本番を迎えられませんよと、業界の先輩らしいことも教えてくれた。何となく、休むほどでもない不調が続いていた時期で、知っとるよ、そんなん、と、いじけた返事をしたって、HiMERUは咎めたりしなかった。省エネは、おもに汚いことや悪いことをするために必要とされたことだったので、その時は、何あたりまえのことをと、少々腹が立ったのだ。外は、とくに他者とコミュニケーションを取り続けるなんてことは、こはくには滅多にないことだったので、すっかり躁になっていたのだろうと今ならわかる。ふわふわと浮足立つ心地を無理に抑圧しているこはくに、HiMERUは気付いていたようだった。
 しばらくして普段通りの調子が戻って、ああそういえばと決まり悪く謝罪したら「HiMERUのためですから、桜河は何も気にしなくて良いのです」と、いつも通り、つんと澄ました美貌を、穏やかに笑みの形に溶かすのだった。
 だれかのため、HiMERUのためになるなら、まあ、気張って休もうかと、以来メンバーと楽屋に居るときなどは殊更気を抜いて休めの姿勢を取っている。最初はあまりの変わりように「こはくちゃん、調子わりーの?」と、めずらしく燐音が、化粧台に突っ伏したこはくに直接的なことを聞いてきたので「気合いれて休んどるん。邪魔せんといて」と、伏せた顔を半分出して睨んでやった。燐音は虚を突かれたような顔のあと盛大に吹き出し「休むのに気合入れちゃダメだろ」と、力の抜けるツボだの疲れが取れるマッサージだの散々こはくの身体を弄り回した。結果その日は、HiMERUとニキが揃うまでに、いつも以上に疲れたのを覚えている。

「HiMERUはん、お店の方さき行っとって」
「わかりました。待っていましょうか?」
「はずいわ。ええから先行ってて」

 HiMERUが小さく笑う気配を感じて、こはくは手を振って離れた。あと少しの距離を駆け出したところにまた車が来て、無駄に素早く歩道へ飛び上がってしまった。あ、これはあかん。振り返ったら、HiMERUがキャップの下で怖い顔をしていた。

「桜河」
「すまん! 漏らすからあとでなっ」

 苛立った声を背中に受けながら云い逃げて、こはくは厠まで走った。同じような失敗をやらかすと叱られるのは、実家と大差ない。おかんか。知らんけど。



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