∞ムゲン∞




 泉さんが話をしている。僕はそれを聞いている。わからないと云うと、ゆうくんはわからなくていいんだよと泉さんは笑う。僕は泉さんと話していると頭の芯が痺れたように動かなくなって、何も考えられなくなる。いつも逃げてばかりだった。それを許してくれる人だった。わからないということに甘えた。無理解であることを悪びれもせず、気持ちが悪いと罵りながら腹を立てた。僕の癇癪をいとおしそうに微笑んで、わかっているよと、泉さんが目を細める。昔から笑い方だけは変わらない。望まれたままに望まれた形で完璧を瞬く間に作りだす、理路整然とした姿勢はとても美しかった。それを理解していて、己の武器にしている、そういう人だった。子供の僕たちが生きていた狭い世界で、美しさは圧倒的な正しさだったから、泉さんは子供のぼくの世界で、いちばん正しい人だった。たぶん好きだった。あの頃の記憶はすべて靄がかかったようで判然としないのだけど、好きじゃないわけはなかった。愛せないことを許してくれた。あれはまぎれもない、愛だった。見返りは当然のように求められたけど、当然だ。泉さんはそんな甘い人じゃない。それでもあれは、あの人の愛だった。泉さんはときどき、言葉を話す綺麗な人形みたいだった。計算されつくして、正解しか云わない、よく出来たアンドロイドみたい。人間はより近くて異質なものを嫌悪するらしいから、僕の泉さんに対する嫌悪感は、そういう本能に基づいたもの、なのかな。生理的に、気持ちが悪い。過去の苦い経験も多分に反映されているけれど、つまりそういうこと。彼の狂気と歪みを、それはもう、身をもって体感しているのに、僕は泉さんに微笑まれると、美しいよりも先に、正しい人だと感じてしまう。その瞬間だけ、泉さんが何を云って、やって、考えて、そんなことはどうでも良い、些末なことだった。そういう尺度で生きていた。僕は泉さんの目を見て、肌が粟立つのをそっと腕を組むようにして抑える。出会ったころはただ愛らしかったと思う。そこに集められたたくさんのどの子供よりも良い子で、真面目で、他人の目というものを理解していた。他者がどれだけ優しく、無関心で、冷たく、残酷かを知っている子供だった。そう、子供だった。あの時、どれだけ大人びていても、あの人は子供だった。ぼくのお兄ちゃんは、たった一つ年上なだけの、守られるべき子供だった。それなのに、守ってくれた。守ってくれようとした。ぼくが壊れてしまっても、泉さんが悪いわけではなかった。それなのに、何かしらの責任を、泉さんは感じていてくれるらしかった。独善的で優しい人だった。長い人生の中で、すれ違ってもう二度と、遭わない人なら良かったのに。一番きれいで無垢な時代のまま、優しい思い出だけ頭の隅に置いて、仕事でもし偶然会っても、軽く挨拶と世間話をして、たまに昔話に花を咲かせて。そういう、痛いところには触れないで、距離を置いて、やさしいだけの関係を築くべきだった。それが無理なら、再会すべきではなかった。お互いにその方がずっと良かった、でしょう。だよね。ねえ、泉さん。うんうん、そうだねぇ。ゆうくんはばかでやさしいいいこだねぇ。泉さんがいとおしげにぼくをみて笑う。ぼくはわからないと嫌悪する。そのくりかえし。



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