神と木偶




 『かみさま』なんて、そんなにいいものじゃありませんよ。噴水に全身つかりながら、顔だけを水面から突き出して魚人が嘯く。その声は水がおちるよりも静謐だったので、斎宮はそれを、空耳か独り言だろうと解釈した。あなたにいっているんですよ、しゅう。聞き流そうという思惑を察したのか、幾分不機嫌そうな、不格好な顔をして、魚人は付け加えた。濡れた手で斎宮の腕をつついている。自我なんてひとつも知らないような顔をして、信じる人間が創造しただけの、誰にとっても都合の良い、まるで神のような、象徴的な声音を、よく使う男だった。その時、斎宮は神になりたいわけではなく、すでに信者を持つ誰か彼かの神だったので、男の忠告ともつかぬ進言を、鼻で笑って、濡れた手を払ったのだ。完成された季節の中に居た。誰の言葉も求めていなかった。自分の外側になにかを求めるのは堕落だと考えていた。他人の思惑が煩わしかった。だから人形を作ったのだし、人形の相手しかしていないのだった。人の機能を持つ美しい、完璧な人形を作った。最高傑作だった。元々その人形の美はこれ以上ないほど完璧だったけれど、それをさらなる高みへいただいたのだと、斎宮はいまだに自負している。斎宮の創った世界の、ひとつの瓦解に際して、道化気取りの役者風情が気まぐれに、自我を与えて連れ去ってしまったけど、あれ以上の人形を、いまだ斎宮は探せないでいる。強い意思を持った、まるで人間のような、それでいて人としての機能は万全にない、出来損ないの人形だけが手元に残った。お前もどこへなりと行ってしまえと何度も命じたのに、その命すら守ることができない役立たずだ。斎宮は歪なものが嫌いなので、その人形をうまく愛することが、まだできないでいた。その人形の欠陥は、よく笑い、よく語り、よく愛を返すという欠陥だった。愛するということが、一方的でないことは、斎宮にとって恐怖だった。想い合うことは恐ろしい。表皮を生暖かな舌が滑るような不快感があって、その強引な熱に、意識を奪われ剥がされる。それはとても、野蛮で、暴力的な行為だった。斎宮は斎宮を、すべてを意のままにしたかった。この衝動が、自らを滅ぼすとして、美しく清廉に生きることと、汚濁にまみれむごたらしく死ぬことに、大した違いもないのでそれも良し。半端は何よりも唾棄すべき醜悪だ。そういうものになり下がらないのであれば、例えいま、惨めに地下に潜んで時期を待とうと、誰かの神ではなくなろうと、自らが自らの創造主であり続けるなら、斎宮はまだ、斎宮を赦すことができた。究極を求めて創作すること、芸術を愛することは、赦し赦されることの最上であり、斎宮にとって、唯一、人との交歓である。いくら凡人共と蔑もうが、常は視界にすら入らない木偶たちを客と認めて、斎宮は舞台上で歌い舞うのだから、そこには誠実で独りよがりな思いやりと真心が、きちんと意味を残すのだった。舞台は明るく、客席は暗く、どこに誰が居るかなんてわかりやしないのに、気まぐれに友人の気配を探してみたり、そんなどうしようもないことを、最近、斎宮は覚えてしまった。すべて終えたあと、これは悪い影響だねと、独り言のように舞台袖で呟くと、お師さん悪いもんでも食べたん? と、人形が失礼なことを云いながら身体を揺らし、顔を覗き込んでくるので、斎宮はまた、不快な思いをするのだった。かみさまなんて、そんなにいいものじゃありませんよ。魚人の言葉を思い出す。神になりたいわけではなかった。ただ現世が煩わしかっただけで。美しい人形たちが、愛しかっただけで。ただ、それだけだったのに。りゅーくん、なんでだろうね。ぼくたちはなんで、ずっとこんなに、いつまでもひとりなんだろうね。いっちゃんは優しいなぁと笑ってくれた幼馴染も、今では斎宮を、言葉を交わすのも煩わしいと邪険にする。かまいやしないのだけどね。こちらはいいたいことをいうのだし、そちらはみみをふさぐのはじゆうだ。すこし、そうほんのすこし、さみしいけれどね。思い出の中の愛しい人の面影を、りゅーくん、は、鬼龍は、あまり感じさせないので、斎宮はいつも傍らの、淑女の人形を撫でている。今日もとびきり綺麗だね、マドモアゼル。ありがとう宗くん。愛らしい人形との時間は何物にも代えがたい。ああせめて、斎宮の家に居座る出来損ないの人形を愛することができたなら。人と認めて、交歓することができたなら。可能性として、考えなかったわけではない。あらゆる想像は斎宮の愛する芸術に帰依する。思考することをやめてはならない。しかしまた、随分と長い道のりになりそうだよ。なあ、影片。出来損ないの人形、影片みかは、今日も歪に、痛みなど知らぬ顔で笑っている。斎宮はそれを、怠惰で愚かだと軽蔑している。



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