バキュロ 
ジプシナ 
カルカリナ





 電車を待っていた。
 早朝のホームはこれから出勤のサラリーマンが群れをなしていて存外混みあっている。スーツの中に観光客がちらほら混ざっていて、燐音たちもその一部だ。こはくはカーキの刺しゅう入りナイロンジャケットに、キャップ、踝丈のチノパンをオフホワイトで統一していた。燐音は褪せた黒のデニムジャケットを羽織って、インナーはモデルを務めたブランドのシャツ着ている。
「こはくちゃん、寒いの」
「もう5月なのに、朝は冷えるんやね」
「夜に雨降ったからな」
「燐音はんは、寒いとこの人やっけ」
「まァ、こっちの寒さとはチョット違ェけどな」
「フゥン」
 手でも繋ぐ? 要らんわ。あっそォ。
 アナウンスが響き、ホームに到着した車両の前で、扉が開くのを待って乗り込んだ。我先にと争奪戦になったシートは早々に埋まったので、扉の横、先頭だったので運転席が見える位置に落ち着いた。こはくはポケットに手を突っ込んで足元に視線を落としていた。燐音も倣って視線を落とすと、近頃こはくがプライベートでよく履いている白いスニーカーが目に入った。ラバーのつま先がすこし汚れていて、管理が難しいとぼやいていたのを思い出す。確かHiMERUのお下がりだ。キャップもそうだと言っていたような記憶があるが、そちらはお下がりの体で渡したプレゼントではないかと燐音は踏んでいる。HiMERUはこはくに甘いので、ことあるごとに何かしら与えたがるのだ。放っておくと極道のそれみたいになってしまうので、それを阻止する意味もあるのだろう。いつだか上下いかつい虎を従えてやってきたこはくに「柄物は一つまでにした方がまとめやすいのですよ」と言葉を選びながら注意していたのは記憶に新しい。こはくもHiMERUの言うことは素直に聞くので、そうなん? ほな次からそうするわと、翌日の現場では虎は一頭になっていた。今はジャケットの上でうぐいすが翼を広げ蜜を吸っている。着物も季節で図柄決まるからか、こはくなりの拘りは感じるので口が出しづらい。
 こはくは他の乗客の邪魔にならないようなるべく燐音の方へ寄って、肩掛けの鞄からスマホを取り出した。目的地の情報でも検索しているようで、ここに行きたい、ここが見たいと燐音に画面を見せてくる。それに頷くことで了承しながら、こはくにしてははしゃいだ様子を興味深く観察した。





 着いた先は特別に綺麗な海ではなかったが、夏なら海水浴客が多く、海の家も連なる観光地だった。今はサーファーが一人二人、冷たい海の上で波を待っている。少し離れた位置にある歩道を歩きながら水平線を眺めていたら「お昼どないしよ」とこはくが呟いた。食べ歩きできるようなものも売っているので、そこらのベンチで食べても良いが、鳶に注意の看板がそこかしこに設置されていた。あたりを見渡すと、課外学習の学生グループが、浜辺近くの広場でシートを敷いて弁当を食べている。その上空を旋回していた一羽の鳶が、突如滑空して学生たちを襲い、その中のひとりの弁当箱ごとひっくり返した。落とした中身を咥えてまた飛び去って行くまでの数秒、学生たちは何が起きたかわからず固まっていたが、しばらくしてぎゃあぎゃあと騒いで撤収作業に移行した。不注意とはいえ、可哀想に。学生で飯抜きは辛いだろう。他に食べるものを調達するにも小遣いが減ってしまう。学校なんて行ったこともないけれど、想像することはできた。こはくも不憫そうに顔を顰めて、どっか入った方が良さそうやなぁと呟いた。そう言うこはくも、制服を着て、という生活とは無縁だったなと思い当たって、少し低い位置の頭に手を置いた。言葉で何か伝えるまでもないときの癖になっている。はよ退けて、重たいわと、すっと手の下から抜け出してこはくはまた歩き出した。つれねーのと口をとがらせて、さして苦も無く追いつくと、こはくは何か言いたげに隣に並んだ燐音を睨む。子供扱いするなとか、無暗に触るなとか、そういう些細で、こはくにとっては大事だろうことを、こはくは怒鳴り散らさなくなった。本当に、もう子供ではなくなってしまったなぁと燐音は最近、すこし寂しい。




 水族館に行きたいとこはくが言い出したので、広場からほど近いチケット売り場で当日券を購入した。眩しいところから薄暗いところへ移動したので、視界の色が調整されるまで時間がかかった。貝殻の展示されたトンネルを抜けると、最初の水槽にたどり着く。
「さっきの海の再現やて」
「種類けっこー居んのな」
「お、この平たいの何や」
「そこの柱に写真あんじゃん」
「う〜ん、動いとるしな。エイだけで3種類おるって。どれやろ」
 こはくは早速水槽に張り付いて、上から横から模造の海を覗き込んだ。どの写真がどの魚かを一匹一匹探して、真剣に見比べている。このペースで回ってどれくらいかかるかと考えて、急ぐものでもないし、のんびり回れば良いだろうと気長に構えた。こはくのペースに合わせて館内を歩きながら、一つ一つじっくりと眺めていると、水槽の色が展示する魚やテーマで変わっていくのが面白い。下へ降りていく展示で、それにつれて水深も深く、暗い海になっていく。水槽だけがぼうっと光って、それに張り付いてるこはくが青白く照らされている。一番下まで降りると、最初の水槽と繋がっている大水槽がメインの展示になっていた。目玉の一つなのだろう。水槽を叩いて叱られている子供、外で見かけた学生のグループ、カップルや家族、薄暗い中でもくもくとスケッチをする人、平日の昼なのに、その空間は多様な人であふれていた。こはくは大水槽を人垣の後ろからぼんやり眺めだあと、反対側の奥まった場所にある深海コーナーに回った。あまり綺麗とも言えない赤い水槽の前で「ああ、これくらいの光でも、すぐ弱って死んでしまうんやて」と呟いて、水槽ごとの説明書きをひとつひとつ読み込んでいた。こはくが、何かを思ってそれをつぶやいたのか、単に読みあげただけなのかも判断がつかず、ただどきりとして、そういう風にこはくを見てるなんて知れたら、それこそこはくの不興を買うので「フゥン」とだけ相槌を打った。なるべく何も感じられないような無機質さを装ったら、話聞いとった? と定位置のすこし低い位置からキッと睨まれる。短気なんだよなぁ、打てば響くというか。聞いてる聞いてる。聞こえないものまで聞こうとして、やめたくらいには。
「なんか他に見たいのねェの」
「イルカショー、ペンギンの餌やり」
「ベタだなァ」
「燐音はん他のとこ見ててもええで」
 つれないことを云うこはくに、時間そろそろなんじゃねーの? とパンフレットを見ながら館内の時計を指差せば、間もなくイルカショーの開演時間だった。
「はよ行かな」
 そわそわと案内板を探すこはくを、こっちだろと、人の流れる方に肩を押して連れていく。目論見通り、ぎりぎりプールへ到着すると、直前なので前方しか席が空いていなかった。何で前が空いてるんやろと不思議そうに辺りをきょろきょろ見回して座るこはくが面白くて、燐音も黙って隣に腰を下ろした。スタッフが気が付いて注意にやってきそうになるのを「わかっている」というジェスチャーで追い払って、時間もなかったため注意のアナウンスを聞くこともなく開演した。そうしてショーの中盤、案の定、イルカが跳ねて水浸しになった。頭から水を被って呆気に取られているこはくが面白くてげらげら笑っていると、おんどれわかってて止めんかったな! と胸倉掴まれて怒鳴られた。本日はじめて聞いたこはくの怒鳴り声は、爆音のショー音楽にかき消されて、そこまでの迫力はなかった。




 こはくは店先の貝殻や、タコ糸に吊るされてからからと鳴る風鈴のような貝や流木のオブジェをしげしげと眺めている。どこにでもあるよそんなもんというと、へぇといって、それでもそこから目が離れることはなかった。

「入りたいなら入ればいいのに」
「別に、買うかわからんし、悪いやろ」

 仕方なく燐音が店の中に入っていくと、慌てたようにこはくも後へ続いた。砂浜に落ちてるときとは一味違う、売り物の顔をして海の残骸が並んでいる。こういうの一つ買って帰っても何にもならないよなと情緒のないことを考えたが、目をきらきらとさせている子供の手前、云うのは憚られた。こはくは大概の実地は初めてなので、余計なことを云わないようにと燐音なりに気を遣った。それでもなんだか期待外れのことを云って、呆れさせてしまうことも多かったし、こはくもすぐに順応してしまうので、燐音はどんどん、柄にもなく黙ることが多くなった。こはくは色のついた貝を見て、これはわざわざ塗っているのか 自然な色なのか、袖を引いて質問してくるので「店員に聞けば?」と云うと「せやな」と応えて、レジの前で暇そうにしている性別不明の日焼けた老人に話しかけていた。訛りのせいか、関西から来たのかと聞かれて、まあそんなとこやね、と適当に答えているのが笑えた。世慣れた大人みたいな態度で、貝の着彩について夏休みの子供みたいなことを聞いているのがおもしろい。こういうとき、説明をさぼって流すときと、必要のないことまで説明するときと、こはくの中の線引きがよくわからない。今どっちのモードなんだろうなぁと俯瞰してみても、どこをどう切り取っても、常にこはくはこはくでしかなかった。






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