御礼参り




 夏に近所の祭へと出かけた。
 神社の正門で待ち合わせたこはくは、浴衣を着て狐の面をしていた。
 それどうしたのと聞くと、お面屋を指差して、待っている間に買ったと言う。似合ってるじゃんと云えば、おおきにと笑う気配がした。顔を覆ってしまっているので、こはくの表情は窺えない。燐音はとくに祭りらしい装いはせず、ただの柄物のTシャツと麻のカーゴパンツを履いて、足元はサンダルだった。
 からころと鳴る足音を追って、夜店が居並ぶ神社の境内をまわる。祭囃子が大きくなったり、小さくなったり、日が落ちるころには肩があたるほど人が増えて、賑わいが増していく。
 夜は立ち入るべきではないとされる場所に人が溢れているのは不思議だ。境界があやふやなところに踏み込む感覚が、空恐ろしくて不気味で、酩酊をともない高揚する。
 日中の熱を保ったまま、湿度の高い闇が、提灯の灯りをぼわりと滲ませている。
 こはくはいつの間にかヨーヨーを手に持っていた。赤に青のラインがくるくる渦を巻いて、黄色い斑点が落ちている。ぬしはんみたいな色やろと云い、躊躇いなくぱんぱんっと手慰みに弾いて見せる。俺っちかわいそう。
 こはくは、手もとをぱんぱんと鳴らしながら、またカラコロと先を歩いていく。

 ——燐音はん、何も食べんの?
 ——焼きそば、たこ焼き、お好み焼き、あっちにはチョコバナナ、向こうはりんご飴あるわ。

 何故かしきりに食事を勧めてくるこはくに、腹減ってねぇんだよなァと返した。小腹が空いてもおかしくないはずの時間だが、何故かそのとき、食べたいとは思わなかった。
 夏バテだろうか。体調が悪いなどということは、ここ最近なかったとおもう。昨年のように、無暗やたらと摩耗した覚えもない。しかしながら、暑さがあまり得意でない自覚はあって、無理にでも何か食べるべきかと、タネを落とされてジュウッと湯気を立てる鉄板を見て思案する。しかし卵と小麦の焼ける香ばしい匂いを嗅いでも、そのとき燐音に食欲らしいものは終ぞ湧かなかった。
 ふぅんと、鼻を鳴らしたこはくがからんとまた足を鳴らして、ほんに勘が良ぇねと、殆ど聴こえないくらいに小さく呟く。その声が、一瞬ぐにゃりと歪み、え、と振り返ると、こはくが居たはずの場所にこはくは居なかった。
 何が起きたのかわからず、その場で立ち尽くす。
 不意に一瞬音がすべて遠ざかる。嵐の中に居るみたいに、風を切る音が鼓膜を揺らして、己がどこに立っているか、判然としなかった。瞬いて、瞼の動く感触を手繰って、身体のありかを確かめる。こめかみをひとつふたつ、汗が流れた。

「燐音はん!」

 背後から、今しがたまで同行していたはずのこはくの声が燐音の脳天を劈き、次いで衝撃が膝裏に走る。
 抗わずそのまま膝から地面に崩れると、いつの間にか消えた人のざわめきと、祭囃子が耳に戻っていた。はっとして、立ち上がり振り返ると、狐面をどこかへやったこはくが、腕組みで仁王立ちをしている。何やらご立腹のようだ。

「いつまで待っても来ない思ったら中入ってたんかい! せめて連絡せえや!」
「今まで一緒だったっしょ?」
「は? わしずっと入口におったけど」
「え」

 ——オイ、まじか。
 燐音は手で顔を覆う。

「なんや、ぬしはんみたいな色やね、それ」

 目の前のこはくが首を傾げ、何かを指して言った。指先に覚えのない重みを感じて目を開けると、左手の中指に見覚えのある水風船がかかっていた。
 うげっと、今度こそ悲鳴を上げた燐音に、こはくは怪訝な顔をして、笑えない冗談を言った。

「ぬしはん、狐に化かされたみたいな顔しとるね」
「狐だったら良いんだけどさァ……」




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