B型少年




 気安く触られたのを、つい鬱陶しいと払ってしまった。最近になっては珍しいことでもなく、こはくの方から「何やおもろいことでもあったん?」と、ソファの背凭れ越しに寄りかかってきたのだ。最初のころは燐音の手が届く範囲に近寄ることすらなかったのに、随分気を許されたものである。特段懐かれるような振る舞いをした覚えもなかったけれど、出会った頃と今とでは態度を変えているのは事実なので、その差がこはくの感覚を狂わせて、最近の振る舞いなのかもしれなかった。
 共有スペースで次に出る予定の番組がかかっていたから、何となくその場に留まって、見るとはなしに見ていた。今にして思えば、その判断がいけなかったのかもしれない。部屋にもテレビはあるのだし、別にそこで視る必要などなかったのだ。軽い気持ちで見始めたものの、自分ならどう受け答えするか、どう立ち回るかなんて、いつの間にか半分仕事の意識でいたから、急な乱入者に雑な対応をしてしまった。
「……あぁ、わりィ」
 燐音はたった今ぞんざいに退けた手を追って、半身で顔を後ろにやった。そして、おや? と首を傾げた。不自然なほどにこはくのそれは微動だにしなかったからだ。間を持たすための、謝罪の形をとった、どうした? 大丈夫か? だった。そうしてしばらく、目をまるまると開いて固まっていたこはくは、やがて己の手をぐっぱと動かし、うん、と頷いて何処かへ行ってしまった。何だったのだろう。まあいいか。
 その日は何をおもうこともわずらうこともなく、番組を最後まで眺めて終わった。ゲスト数人が毎週入れ替わるものだから、あまり今の空気感はあてにならないかもしれない。それでもコーナーなどは参考になったし、司会者の情報は、もう少し他の番組も見て頭に入れておこうとおもった。

 まずいことをしたと思ったのは一ヶ月ほどこはくをアンサンブルスクエアで見かけなくなってからだ。こんなに会わないことがあるだろうか。あった。余裕であったけれど最近はなかった。同じ寮で暮らしていて、同じユニットで。仕事は省く、とは言っても、仕事中も、やはりいつも通りという訳ではなかった。こはくがHiMERUにくっ付いていることも、燐音がニキに絡むことも、燐音はニキと、こはくはHiMERUとセットにされることも多いので、それは微々たる違いではあった。けれど露出がないものに関して、やはりくっきりと線を引いたふうに、あの日から、こはくは近くに寄って来なくなった。
 燐音は違和感の原因を辿って、まさかなァ、と己の考えを鼻で笑う。しかし思い当たることはそれくらいだった。ついでに今は暇だった。そしてあのときと同じように共有スペースに居て、あのとき見ていた番組がかかっていた。己の次の行動を晩酌か鬼電かと天秤にかけて、久しぶりに鬼電をかますことに決めた。メンバーから大層評判が悪い(当然、なのです)ので、最近は控えるようにしていた悪癖だったが(自覚あるんかい)有事ということで解禁する。いや、ニキには今も気にせずしているけれど(気にして欲しいっす!)それはさておき。こういうことは思い立ったその日に解決した方が良い。
 通話履歴を呼び出すと、その番号は下へ下へスクロールした一番下に辛うじて残っていた。一回目は当然のように反応がなく、二回目も機械音のお姉さんにかけ直せと言われ、三回目十コールほどでようやく「じゃかしいわ!!」と怒鳴り声がその場に響き渡った。これは読めていたので、たまたま人が居なかったことを幸いにテーブルに置いてスピーカーで発信していた。背後から「こはくっち?」と小さく声が聞こえ、気付けば藍良と一彩が廊下と共有スペースのさかいに立っていた。挨拶代わりに軽く手を挙げてスピーカーからマイクに切り替える。こはくはまだ怒鳴っているので直接は耳にあてず、少し離した状態でキープする。漏れ聞こえる罵詈雑言に何か言いたそうにしていた一彩の頭を撫で、その場を離れた。電話中に割り込んだらだめって、藍ちゃんに習ったのね。ハイ、いいこ。お兄ちゃんは弟くんがすくすく育っていて嬉しいです。

 廊下を歩きながらこはくの語気が落ち着くのを待った。それから息を吸うための無音の合間に「何か避けてね?」と言葉を滑り込ませる。前振りを無視して問えば、いま吸った息をそのまま呑む音がした。打ってかわって静まり返った向こう側から、テレビのコマーシャルが聞こえてくる。どうやら部屋に居るらしい。
 階段を降りるあいだ、こはくは静かだった。燐音が一階に到着し、再び廊下を歩いていると「……ちぃと、吃驚しただけやわ」なんて、先までのがなり声とは似ても似つかぬ、細くうつたえな音が鼓膜を揺らす。それから「燐音はんも、驚いたやろ。悪いなぁて。しばらく近寄らんとこおもぉてな」そんなふうにたどたどしく己の一ヶ月を釈明するこはくは、何処にでも居る普通の子供みたいだった。こはく自身、なぜ己がそのような行動にいたったのか、いまだ理解していないようだった。その証拠に、こはくがこはくの中を探るような声は次第に不明瞭になり、最後は独り言と呼吸のあいだに落ち込んで、燐音には聴き取れなくなってしまった。途絶えてしまったこはくの声を待って、それから観念したような気持ちで、燐音は息を吐く。そこでようやく「悪かったよ」と謝った。あの日以降、だいぶ遅くなった正式な謝罪だった。こはくは何がと聞かなかったので、思い当たることはあったらしい。
 悪かった。手を払って。そんなことで傷つくなんて思わなかった。
 燐音はこはくの寮部屋の前に立つ。機械を通した硬質な音と、ドア一枚隔てたかすかなテレビの音が、噛み合わないステレオで聴こえる。コマーシャルが明けて、同じ番組見てたのねと、特徴的な司会者の話しぶりで察してしまう。
「こはくちゃん開けて。仲直りしよ?」
 とんとんとノックしながら、電話口で交渉を続ける。燐音はこの部屋のドアノブがひとりでに回るのを、いつまででも待つつもりである。




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