未遂




 規則正しい寝息を聴きながら、こはくは呼吸ではなく、声が聴きたいとおもった。おもうことは自由にさせて、眠った彼の横顔をじっと見ている。高過ぎず、低過ぎず、つくりの良い鼻筋だった。彼はとても良い骨格をしていた。あるべきところに目鼻口があり、節々は太く、手足はすらりと伸びて、しなやかな筋肉がついている。すべての位置が正確で、優秀なのだろうとわかる。対峙したとき、こはくの身体が、勝手に警戒してしまう程度には、彼は強い人だった。赤い髪越しに見える、チェストの上の置時計は、長い針が半周しただろうか。秒針が小さな音を立てていた。こはくは、眠れない夜の手慰みに、隣の白い腕に指を這わせて、脈を確かめたり、その白の冷たさに似気無い暖かさを愉しんでいた。そうしてしばらくすると、彼はくすぐったそうに身をよじって離れた。そっぽを向いてしまった背中に、今度はぴったり、重なるように寄り添って目を瞑る。心臓の音が聞こえる。どこかでサイレンが鳴っている。少しずつ大きくなって、次第に小さく、遠のいていく。静かな夜だった。こんな夜は、あらゆる理が眠ってしまう。息遣いも、目配せも、噂話も、怪談も、愛の囁きも、悲鳴も、誰のものとも知られぬままあたりに溶ける。だれかの秘め事が増えて、一日の終わりに灯りを消すように、だれかがひっそり、姿を消す。かわらぬ朝の代償を払って、こはくたちは今日を生きている。

 ゆっくり目を開くと、夜に慣れた視界で、所属ユニットのロゴが近すぎてぼやけていた。元は練習着に使っていたジャージを、彼、天城燐音は、寝間着に使いまわしていた。離れていると大きく見える背中は、近付くと思ったより華奢で、こはくと身幅は然して変わらない。それでも大人の身体をしているので、こはくよりは大きいのだけど、こはくはそれを知覚できるほど、実のところ、幼くも小さくもなかった。それなのに、何故、こんな風に守られているのだろう。
 こはくは、今宵こはくの元を訪れた燐音を、馬鹿な大人だと呆れていた。同室のジュンは、泊まり込みのロケで部屋を空けている。知っていてここへ来たのだろうか。こはくはそれについて、練習のとき何か言っただろうか。おぼえていない。雑談はあまりしなかったけれど、HiMERUと少し話をしたから、HiMERUと燐音が話したなら、そこから伝わったのかもしれない。歯磨きをして、顔を洗って、明日の支度をしていたとき、ノックがあった。扉を開けたら、忘れ物を取りにきたジュンでも、ジュンを訪ねてやってくる日和でも、面倒事を持ってくる斑でもなく、ユニットでの練習を終え、夕刻に別れたはずの燐音がそこに居た。先まで着ていた真新しいものではなく、一つ前のライブで使用したジャージに着替えている。シャワーを浴びて来たのだろう。髪は洗いざらしの生乾きで、一体、何を焦っていたのやら。夜はそろそろ冷える時分だ。
 正直、何故わかったのだろうと、ぞっとしなかった。誰にも知られないはずだった。これは誰にも話していない。こはくだけの秘め事であったからだ。まだ寝ないと言い張るこはくを、二段ベッドの下段、その壁際に追いやって、燐音は出入り口側に寝転がった。狭い。寝苦しい。どけ。何度身体を押しても、こはくが力を抜くまで燐音は微動だにしなかった。多少掛布が足りなくてはみ出しても、風邪をひくような室温に設定してはいないし、今日はもう、大人しくしよう。こはくが諦めると、間もなくして燐音の寝息が聞こえてきた。疲れているのは知っていた。新曲の振り付けはハードだったし、燐音はその前に、個人の仕事をこなしていたはずだ。

 抜け出せなくはない。深く寝入った様子の彼も、それはわかっているだろう。気配に敏い男なので、途中で気付かれるかもしれないけれど、本気で抵抗すれば、この部屋から出ていくことは難なくできる。しかしいつでもできるなら、今日でなくても良いではないか。そう思わせるためだけに、これはやってきたのかもしれない。しかし、その通りだった。今日でなくとも、明日でも、明後日でも、燐音が居ない日に、もっと穏便にできるなら、それがいつだって、変わらないことだった。
 思考が決着して、弛緩した身体を睡魔がひたりと覆っていく。二つぶんの体温が一つになったみたいに、どこもかしこも暖かく、徐々に意識が剥がれていく。秒針は気にならなくなった。心臓の音は優しい。サイレンはあれから聞こえない。こはくは重くなった瞼を逆らわず落とした。夜に上書きした暗闇に、波紋状の星がちかちか浮かぶ。おやすみとちいさく呟けば、意識の途切れるわずか手前、暗闇から、静かで低い応えがある。おやすみ。ああ、おやすみ。叫んだわけでもないのに、木霊のようだとおもった。おかしな話だ。こはくは山間に大声で呼びかけたことなど一度もないのに。

 もしかしたら、この夜に悲鳴をあげたのは、こはくだったのかもしれない。燐音はそれに応えたのだ。随分と耳が良いこと。噛み殺したはずの欠伸を、聞き咎められたようなばつの悪さだ。それも今更、どうだっていい。だって、声は聴けたじゃないか。こはくはうっとりと満足して、また一つ、不時着した夜を越えていく。



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