事故現場




「エェ……嘘だァ……」
 寝起き特有の倦怠感に浸りながら独りごちる。それは誰かに聞かせるためではなく、自身のための言い訳のように空間に響いた。俺っちは何も知りませんと、確かめるような具合の悪さだ。燐音は自分の胸に懐くようにして寝入っている、鴇色の頭を、そのつむじをそろそろと眺めた。それはそれとして、そんなわけないだろうと、抵抗虚しく、燐音のそこそこ優秀な脳は、昨夜の出来事を順々に再生する。酒を飲んでいたとか、どちらが誘ったとか、きっかけは何だったとか、結局どちらもやめなかったとか、そしていま、二人裸で燐音のベッドに無理矢理同衾している、その理由とか。そういう今更どうしようもないことを、容赦なく一通り思い出して、そもそも忘れてもいなくて、だからきっと、昨日の燐音は、これが本望だったのだろう。本日たったいま目覚めた燐音は、後悔しかしていないのだが。
 燐音が途中で引き返せば、こはくもそこでやめたはずだ。こはくは聞き分けの良い子供だったので、しかしもう子供ではないので、あきらめではなく、寛容という態度を、最近おぼえたようだった。燐音はその寛容さに、懐の深さに、酒の力を借りて甘えたのだ。顔から火が出るのではというほど、思い出した痴態は恥ずかしかった。何なら、こはくの乱れる姿より、それに向けて自身が放った言葉の方が、余程恥ずかしかったので、痴態とはこういうことを言うのだと思った。どうかどうか、今は目醒めてくれるなと願いながら、目を逸らしたい気持ちをおさえてこはくの状態を確かめる。燐音の身体と枕に顔を押しつけるようにして眠るこはくは、見たところどこも汚れておらず、すっきりとしていた。昨夜は顔やら首やら耳やら、他にも沢山、身体中舐め回した気がするのだけど、唾液が乾いたとき特有の、あの酷い臭いもしなかった。洗ってやった覚えはないので、つまり事後ひとりでシャワーを浴びて、そのあと逃げも隠れもせず、先に寝落ちた燐音の隣へ戻ったということだ。そして翌朝、こうして人にじろじろと観察されていても、起きる気配もなく惰眠を貪っている。なんて太い野郎だ。こちらの気も知らないで。気持ちを整理するまで、記憶をやり込めるまで、数分、燐音は額に手をあてて天井を仰いだ。先ず、すべて覚えているのは、燐音だけかも知れないと逃避気味に考えた。こはくの酒を呑むペースは燐音より早く昨夜はそれなりに酔っていて、ついでに勃ちが悪くて、だから燐音が、いや、待て。それはどうでもいい。いや、よくないが、つまりこはくは、記憶を無くしている可能性があった。こはくがすっきりとしている時点で、その可能性は限りなく低いのかもしれないが、燐音は一縷の望みに縋りたかった。アーメンとかなんとか、神に祈ってもよかった。二日酔いするほど飲んだわけでもないのに、気のせいか頭ががんがんと鳴っている気がした。カーテンの隙間から日差しが差し込んでいるので、低気圧というわけでもなさそうだ。うう、と唸っていると、目の端でピンク色が震えた。
 まじか、今かよ。
 恐る恐るまた隣に目をやると、寝惚け顔のこはくが目を瞬かせて燐音を見ていた。もぞもぞと脚が布団の中で動いて、生々しい肌の感触が燐音の脛の辺りを掠める。ゆっくり焦点があってきて、強い意志を宿す紫がきらりと光った。目がきゅっと細まり、薄い唇が弧を描く。それはいつもの、すこし意地悪なことを言う前の、こはくの顔だった。
「おはようさん、昨夜はえらいお盛んやったなぁ?」
「…………なァ」
「ん?」
「結婚、する……?」
「は? するわけないやろ」




戻る