泣き面に蜂




 桜河こはくに接するとき、天城燐音は緊張する。
 なんだかひどく、しっくりきてしまっていけないのだ。
 凸と凹が噛み合っていることがわかってしまうのでいやだった。低い位置の頭を掻きまわすたび、指先がしびれるように感じることすらあった。これに触れるのは危険だと、身体と本能が同時に告げていた。
 こはくは口が悪く、こと燐音に対し反抗的な子供であったが、それ以上に従うことに慣れた日陰の人間だった。燐音はそういう人間を扱うことに慣れていたが、それらが恐ろしくて生まれた場所からも弟からも逃げ出してきたろくでなしだった。
 ぎゃあぎゃあ文句を喚き散らしてみせたあと、燐音の意図を探るように覗くこはくの双眸に、あきらめの色を見つけるともうだめだった。逃げのびた先で、弟以外にまで、これからもずっと、そんな顔をされると思うとぞっとした。
 こはくの本心は別にあるだろうことも承知しているのに、じっと見つめられると、どうにかして正しい道を示してやらねばならない気がして、一から十まで教えてやらねばならない気がして、しかしそんなのは、すべて気のせいでしかないのだった。
 こはくは燐音の従者ではないし、燐音はこはくの君主ではない。ただのユニットリーダーと所属メンバーだ。燐音はこはくの意思を尊重したかったし、こはくは限られた時間を自由に過ごすことを望んでいた、はずだ。
 いや、果たしてどうだろうか。だってあれは、本当は、何も考えたくないと放棄した人間の目ではないのか。それなのに、無理に考えさせるのは酷なのではないか。思考を止めたやつから死んでいく。だからなんだ。抗うことなく滅びいく種がこの世にごまんといることを燐音は知っている。生きているほうが苦しい生命があることも。それなら息の根を止めてやるのが、ほんとうの、やさしさなのではなかろうか。どうやって一瞬で首を落とすか、ということを、燐音は考えるべきなのではないのか。もしくはこはくが気付かないうちに、破滅への道ゆきを示してやるべきではないのか。それがこの子供にとって、最良のしあわせなのではないか。
 そんなことはすべて、気のせいのはずだった。
 例えこはくが本当の意味で夢も希望もなく、ひとつのやりたいことがなかったとしても、それを見つけてやりたいとすら思っていた。威勢よく噛みついてくれないかとあれやこれや揶揄して、打てば響くように反応を返すさまを、燐音はできる限り、そのまま育ててやりたかった。それが燐音の、ただの年長者としてのこはくへの愛情であった。そのために慎重に距離を取り、一線を厳密に守った。繋がっても通い合ってもいけなかった。その結果がこれだ。

「こはくちゃん、泣かないで」
「泣いてへん」
「泣いてんじゃん」
「うっさいわどっかいけすかぽんたん」

 ぐすぐすと涙声ですごまれても怖くない。実のところ、桜河こはくを、あるいは類するそういうものたちを、本当の意味で恐れたことなど、燐音は一度たりともない。どれほど物騒な家の出だろうが、こはくの手が血に濡れていようが、そんなことは関係がなかった。こはくは燐音にとって御しやすい人間で、他愛ない子どもと、すっかり侮って、舐めきっていた。おごっているというよりは、やり方を知っているだけだった。恐ろしいとすれば、それをそういうものとして扱ってしまう己の生来の気質であった。ちゃんと優しくしたかった。できれば幸せであってほしかった。人間として、アイドルとして、こはくが望んだことが、実現すると良いとおもっていた。あやして、なだめすかして、頭を撫でたり、ときに叩いたりしながら、生かさず殺さず、これをどうにでも扱うことは簡単だった。それをしたくないというだけで、燐音はいま、泣いてるこはくに何もできない。



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